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89. 二人の未来のために

 《聖道暦1112年7月12日夜》


 午後から夕方にかけて暑さは強まり、その熱を抱えきれなくなった空は強い夕立を降らせた。こもった熱気を徐々に冷やしていったその雨はしばらくするとぱたっと止んでしまい、今は嘘のように空は晴れ渡っている。


 「夏なのに、空がとても澄んでいるわ。」


 メルナの屋敷へと戻ったエステルは、あの後兵士の一人から手渡されたラトからの手紙を持って、広い庭に出た。


 『今夜、会いに行く』


 たったそれだけの言葉だったが、そこには彼の言い尽くせない想いが込められているような気がした。


 「早く、会いたい。」


 澄み切った空に浮かぶ星々の煌めきが、エステルの鼓動の速さと競い合うように瞬いている。


 メルナの別荘で作った素朴なものとは違い、美しい装飾が施されたベンチを見つけてそこに腰掛ける。そして涼しい風がエステルの髪を揺らしたその時、静かな足音と共に小さな灯りがこちらに向かってくるのが見えた。


 「ラトさん」

 「こんな所にいたのか。部屋にいないから心配したんだぞ?」

 「ごめんなさい。窓を開けたら外がすごく気持ち良かったから。」


 ラトは苦笑しながらエステルの隣に腰を下ろした。彼が持ってきた灯りは二人の足元に置かれ、仄かに二人を下から照らした。


 「そうか。」

 「うん。」


 何を話すでもなく空を見上げたエステルは、彼に自分の思いをどう伝えようかと適切な言葉を探していた。だが先に口を開いたのはラトの方だった。


 「エステル、あれから俺、考えたんだ。この間君が言っていた『欲しい言葉』が何だったのか。」

 「うん。」


 ラトもまた先ほどのエステルのように、空を見上げて続けた。


 「でも結局わからなかった。その代わりに一つだけわかったことがあるんだ。」

 「…何?」


 彼の顔がゆっくりと戻され、その強い視線が一気にエステルに向かった。


 「どう足掻いても、俺は君が好きなんだ、エステル。」


 (ああ、やっと、やっと聞けた、その言葉を!)


 エステルの目には涙が浮かび、ラトは当然のようにその頬に手を伸ばした。


 「ごめん、そんな言葉は聞きたくなかったか?頼む、泣かないでくれ、俺が悪かったならきちんと謝るから!」

 「違う、違うの。そうじゃなくて…」


 おろおろと手を動かす彼が愛おしくて、エステルはギリギリこぼれ落ちなかった涙を指で拭って言った。


 「私ね、ラトさんのその言葉を聞きたかったの。」

 「…え?」


 大きく開いた目でこちらを見てくるラト。そんな彼に思わず触れたくなる気持ちをぐっと堪えて、エステルは続けた。


 「ラトさんが私を突き放したあの日から今まで、あなたは一度もその言葉を言ってはくれなかった。でも私は…謝罪よりも言い訳よりも、その言葉が聞きたかった。だから今日、好きって言ってくれて、すごく嬉しい。」

 「じゃあ、エステル…!」

 「でも!」


 ラトはその言葉の強さに驚き、青ざめながら口を噤んだ。エステルは緊張した面持ちで口を開く。


 「でもね、私達今のままじゃ駄目な気がするの。」

 「どうして!?」

 「だってラトさんは、また私を守ろうとして必死になるから。そしていつかもう一度私の命が狙われた時、きっと怖くなって私を手放そうとするはず。」

 「それは…いや、でも」


 強く握りすぎて白くなっていく彼の手に、エステルは自分の手をそっと重ねた。


 「だから私達、友達に戻りましょう?」


 ラトの手が一瞬、震えた。


 「嫌だ」

 「お願い」

 「…もう、俺のことは何とも思っていないのか?」

 「いいえ。私は今も、あなたのことが好き。」


 その一言で彼の手と顔に赤みが戻る。


 「それならどうして!?」


 その疑問は尤もだと思う。だからこそエステルは、ここ数日何度も何度も悩んでようやく定まった自分の思いと覚悟を、精一杯彼に伝えた。


 「私があなたの横に並んで共に戦えるようになるまで、あなたが安心してその背中を任せられるようになるまで、待っていて欲しいから。」

 「…」


 二人の間に無言の時が流れる。小さな虫の声が、その静けさの中で軽快なリズムを奏でている。エステルはラトの手に重ねていた自分の手をゆっくりと離した。


 「いつか自信を持ってあなたの隣に並べる日が来たら、もう一度立ち止まって二人のことを考えたいんです。もちろん、その時にラトさんがもう私のことを好きって思えないなら、それでも構わない。」

 「それはあり得ない!俺がエステルを好きな気持ちは、絶対に変わらない!!」


 ラトは逃げたエステルの心を追いかけるように、その手をしっかりと掴んでそう叫んだ。


 (嬉しい。その言葉が、今は何より嬉しい。だからこそ…)


 「魔人達の動きは活発化している。魔獣も各地で増えてきている。これからもっともっと状況が厳しくなるのは目に見えているわ。それにきっと私の命はまだ狙われている。だから、まずは自分の身を自分で守れるようになりたいの。そしていつか、あなたが私といることを不安に思わずにいられるようになれば……」


 ハッとした顔を見せたラトを見て、自分の思いが伝わったことを感じ取ったエステルは、涙ぐみながら微笑んだ。


 「伝わったかな?私の思い。」


 ラトは握りしめた手をぐっと彼の方へと引き寄せると、エステルを強く抱きしめた。


 「伝わった。エステルは俺との未来を、本気で考えてくれていたんだな。」


 エステルは彼の胸の中で小さく頷いて言った。


 「うん。ずっと一緒にいたいから、だから真剣に考えたの。もう二度とあなたと離れたくないから、失うことを恐れて突き放して欲しくないから。そのためにはまずは私が強くならなきゃ、って。」

 「そうか。」

 「うん。」


 久しぶりに全身で感じるその温もりは、どこまでも甘く愛おしい。できることならいつまでもこうして守られて、甘えて、彼の腕に包まれていたくなる。


 だが人生は長く、ずっとぬるま湯の中にはいられない。時々は冷たい水に曝されたり、熱湯を被ったりもするだろう。水もお湯も得られなくなる日も来るかもしれない。そんな時が来ても、いつもラトの隣にいるのは自分でありますようにと、エステルはそれこそが自分の本当の望みなのだと、あの十日間の中でようやくわかったのだ。


 (そのためにも、私自身の力で立てるようにならなくては!)


 

 こうしてラトに思いを伝え、新たな決意を固めたエステルだったが、事態は思わぬ方向へと動き始めた。


 「なあ、エステル。一つ聞いてもいいか?」

 「え?は、はい。」


 ラトはエステルを抱きしめたまま、耳元で囁く。


 「強くなりたいって気持ちはわかった。その理由も。でもそれ、友達って関係じゃなきゃ、駄目?」


 (うっ、やはり来たか、その質問!)


 耳元で甘く誘惑してくる彼の声に負けるものかと、エステルは全力で彼の体を押し返す。ラトは渋々エステルを解放したが、その両手はまだ二の腕をしっかりと掴んでいた。


 「駄目です!だってこのままの関係でいたら、結局またなあなあになって、あなたの勢いに流されてしまうもの。ラトさんのことだからきっと、全力で私を甘やかしてしまうでしょ?」

 「…」


 どうやらそれは図星だったのか、彼はあからさまにエステルから目を逸らした。


 「ほらやっぱり!だから駄目です。私達今日からお友達ですから、適切な距離を保ってくださいね。」


 エステルがにっこりと笑ってそう言うと、ラトは不機嫌そうな表情を隠しもせずに言った。


 「はあ。お互いこんなに好きなのに、どうして距離を取らなきゃいけないんだ?こんなの拷問だ!」

 「だ、だって…だって前みたいな、あんな甘いラトさん、駄目!絶対にダメ!!」


 エステルは過去のあれやこれやを思い出し、真っ赤になって首を振った。だがその行動が、結果的にラトの心に火をつけてしまったらしい。


 「ふうん、そっか。じゃあ友達らしくこの手は離すよ。」

 「あ…」


 名残惜しい気持ちがつい口から声になって出てしまう。エステルは慌てて口を隠し、彼から離れて座り直した。


 だがラトは距離を取ったエステルに顔を近付けてこう宣言した。


 「今回はあの『悪女』だった時より苦戦しそうだな。でも」


 ラトはスッと立ち上がると座っているエステルを囲うようにベンチの背に両手をつき、美しい笑みを浮かべて言った。


 「触れなくても、君をドキドキさせることはできそうだよね、エステルちゃん?」

 「ひっ!?そ、それは反則」

 「どうして?友達だから触れないよ。でも友達だから近くにいても問題はないよね?」

 「ま、まあ、それはそうかもしれないけれど…」


 (そんなに近付いたらドキドキするに決まっているじゃない!もう!心臓に悪いんだから!!)


 エステルが頬を熱くしながら俯くと、ラトは楽しそうにははっと笑い、ベンチから手を離してエステルの前に跪いた。


 「エステル、強くなれ。必要があれば俺もできる限りの協力はする。もっと強くなって一緒に生き抜いて、いつか必ず、俺だけのエステルになって欲しい。」

 「ラトさん…」


 ベンチの上に置いた灯りがラトの喜びに満ちた顔を照らしている。エステルは大きく何度も何度も頷くと、二人で決めた新たな道がどうか二人の幸せな未来に繋がっていきますようにと、強く強く祈り続けた。


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