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8. 増殖する憎悪

 《聖道暦1112年3月11日》


 その日は明け方だけ少し雨が降っていたが、日が高くなる頃には、曇り空から所々青空が見える程度まで天気が回復していた。


 昨日はあの後、ラトから至れり尽くせりのもてなしを受け、しまいには「ほら早く寝なさい」と言われてあっという間に寝かしつけられてしまった。エステルは久しぶりのお嬢様気分に浮かれながら、朝までしっかりと熟睡。



 そして起床後、昨日購入したパンの残りを齧っていると、二人の元に昨日会ったあの診療所の女性が血相を変えて走ってくるのが見えた。


 「はあ、はあ、はあ…あの、すみませんが、昨日診療所に来た男の子、こちらに来ませんでしたか?」


 息を切らし必死でそう告げた女性に、エステル達は首を振るしかなかった。礼を言って急いで戻ろうとする彼女を引き留め事情を聞くと、昨日から診療所に泊まっていたはずのあの男の子が、朝には居なくなっていたとのことだった。


 「まだ幼い子なので、とても心配で…しかもあの子はこの辺では有名な子だったんです。あの母親に虐待されているのではないかと噂されていて…」

 「虐待ですか?」


 エステルは顔を顰めた。ふと自分自身の幼い時の記憶が蘇る。


 「ええ。なので今後の行き先をしっかり考えてあげないと、って同僚とも話していたんですけど、一体どこに行ってしまったのかしら?」


 不安そうに俯くその女性に、エステルは手を差し伸べた。


 「私も探します。」


 女性は顔を上げてその手を取り、握りしめた。


 「ありがとうございます!お願いします!」


 小さく頷いたエステルがラトの方を見ると、彼は地面に座ったまま動く気配はない。さらに、「じゃあおじさんここで待ってるから、気をつけて行ってきてね。」と言って、笑顔でパンの残りを食べ始めた。


 呆れた顔でしばらく彼の様子を見ていたエステルだったが、本日は働く気無しとすぐに見切りをつけ、女性と共に男の子探しに出発した。



 この女性の名はユマと言い、エステルよりも少し年上に見える、穏やかな人だった。


 彼女と手分けをしながら、町中の人に声を掛けつつ男の子を捜索していく。しかし全く手掛かりは掴めず、目撃情報も入ってはこなかった。


 昼近くまで探し続けてとうとう諦めかけた頃、もしかしたら帰ってきているかもしれないという淡い期待を胸に、一旦診療所に戻ってみることにする。


 すると診療所の入り口にある植え込みのすぐ横に、真っ青な顔をした例の男の子が座っているのが見えた。驚きと共にほっとした二人は、急いで彼の元へと向かう。


 だがそんな彼の隣に、なぜかここにはいないはずのラトが低い姿勢で立っているのが見え、エステルは思わず大きな声をあげた。


 「え、ラトさん!?」


 そんなエステルをよそに、ユマは一目散に男の子に駆け寄り声をかける。


 「ダミアン?あなたどこに行っていたの!?心配したのよ!」


 どうやらこの男の子の名はダミアンというらしい。彼女は怪我をしていないかと体のあちこちを見ていたが、特に問題は無さそうだとわかると一旦は安堵の表情を見せた。だがすぐに、やはり何かがおかしいと思った彼女は、再び彼の顔を覗き込み、体調を確認し始めた。


 「どうしたの?やっぱり具合が悪い?それともお腹が空いたのかしら?」


 再びその顔に不安の影がよぎる。だがその時、ラトが突然ユマの動きを制止した。そして「少し離れて」と言うと、彼女の肩を押してダミアンから距離を取らせる。その普段はしないような行動に違和感を感じたエステルは、ラトに問いかけた。


 「ラトさん、一体どうしたんですか?」


 よく見ると彼の表情がいつになく硬い。それは怒りでも不安でもなく、何か諦めにも似た、悲痛な表情に見えた。


 「エステルちゃん。彼は俺が連れていく。この診療所では対処できないだろうから。」

 「ちょ、ちょっと待ってください!こんな青い顔をした子供をどこに連れて行くおつもりですか!?」


 エステルが何かを言う前に、ユマがその言葉に反応して大きな声で彼を引き留める。だがラトは一切動じず、ユマを無視してダミアンを抱き上げようと手を伸ばした。


 しかしその手は、なぜか途中で動きを止めた。


 そして次の瞬間、エステルはダミアンの体に、見たこともないような恐ろしい変化が起こっているのを目撃してしまう。


 「え、待って、首筋が振動しているわ!?」

 「…間に合わなかったか。」


 ラトの言葉の意味も、目の前で起きている現象の理由もわからず、エステルは混乱していた。その間にもダミアンの顔は青さを通り越して真っ白になり、先ほどよりも明らかに苦しそうな表情に変わっている。


 そして最も奇妙だったのは、彼の首筋に暗い赤や紫色の蠢く筋が何本も現れ始めたことだった。それはまるで突然皮膚の表面に浮き出た血管のようにドクドクと波打ちながら上に伸びていき、顎の部分からさらに上へ上へと、細い筋をいくつも枝分かれさせながら広がっていく。


 この異常な光景を目の当たりにしたエステルは、無意識に彼に駆け寄ると、ラトの制止の手すら振り払い、その細く小さな体を強く強く抱きしめた。


 (ああ、どうしてこんな…これまでもきっと苦しみの中で生きてきたこの子が、どうしてまた苦しまなければならないの!?)


 その強い思いはエステル自身が経験してきた辛い子供時代の記憶と重なって、まるで何かに助けを求めるかのように、深く静かな祈りへと変わっていった。


 「どうか神様…これ以上彼を苦しめないでください。彼に今必要な愛を、助けを、どうか、どうか…」


 その祈りを遮るように、ラトが大声で叫びながらエステルをダミアンから引き離そうとする。


 「エステル!今は駄目だ!頼むから今は彼から離れてくれ!!エステル!?」


 だがエステルはそれでも彼から離れまいと、ラトの強い力に必死で抗ってその両手を伸ばし、ダミアンの冷たくなっていく頬に、そっと、触れた。


 その瞬間、二人の周りにふわっ、と柔らかな風が吹いた。


 目を開けていられず、思わず目を瞑る。


 「どういうことだ…何が起きた!?」


 その時背後からラトの困惑するような声が聞こえ、エステルはハッとしてダミアンの顔を凝視した。すると先ほどまで首筋に広がっていたあの毒々しい色の筋が、元から何もなかったかのように綺麗さっぱり消え去っていたのだ。よく見ると、あれほど青白かった顔色もだいぶ赤みを取り戻している。


 「さあ、とにかく先生に診ていただきましょう!」


 そこで何かしら状況が変わったことを察知したのか、ユマがダミアンを抱き上げ診療所の中に連れていった。そして残されたエステルは地面にペタッと座り込み、ぼんやりと植え込みを眺めた状態で放心してしまった。


 「エステル」


 ラトの声が震えている気がする。


 「今のは…何だ?」


 怖い。いつもと違う彼の声。エステルは振り向くこともできず、ただ呆然と前を見ていた。だがそんなエステルをラトは放っておいてはくれなかった。


 彼はエステルの背後からその肩を掴み、無理やり後ろを振り向かせて言った。


 「何をした?今のは、何だ!?」


 静かな低い声の中には殺気のようなものすら感じられる。しかし動揺したエステルが何かを言いかけたその時、突然二人を呼ぶ声がそれを遮った。


 「あっ、ラトさん、エステルさん!!」


 二人が声のした方を見ると、そこには血相を変えて走ってくる神官ゲルトの姿があった。


 「どうしたんです、そんなに焦って?」


 とラトが尋ねると、彼はしどろもどろになりながらも必死に状況を説明し始めた。


 「大変なんです、ああ、あの、子供達が、は、働いているお屋敷で、暴れて、暴れていると!!」


 その後のゲルトの話によると、この町に来る目的にもなっていたあの孤児院出身の子供達三人のうち二人が、彼らの働いている屋敷内でなぜか暴れているらしいとのことだった。そして昨日この辺りでエステル達を見かけたと聞いた彼が、その騒ぎを知ってここに助けを求めにきた、ということだった。


 「関係の無いお二人にお願いするのは大変心苦しいのですが、今日は友人も町を離れていて、頼れる方があなた方しか居ないのです!どうか、どうか一緒にお屋敷に行ってはいただけないでしょうか?」


 ラトはまだ何かエステルに言いたげではあったが、ふぅ、と大きく息を吐き出すと、エステルの手を上に引っ張り上げながら言った。


 「君のことだからきっと助けに行くんだろう?今朝俺は護衛の仕事をサボってたんだから、君には午後俺を使う権利がある。どうする?」


 エステルはラトの手ですっくと立ち上がると、顔を上げてそれにしっかりと答えた。


 「行きます。」


 エステルの目に生気が戻るのを確認したラトは「急ごう」とだけ言ってその手首をさっと掴む。思いがけない行動に一瞬動揺してしまったが、エステルはなぜか不思議な安心感も感じていた。


 そうして二人は再び大きな騒動に巻き込まれることを予感しながら、ゲルトの案内で件の屋敷へと急ぎ向かっていった。


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