88. 集まっていく心
窓のある明るい廊下に戻ったエステルを待っていたのは、メルナではなくマテウスだった。彼はお疲れさま、と労いの言葉をくれはしたが、これまでにエステルの身に起こったことを詳しく聞こうとはしなかった。
エステルはそんな優しさに感謝しながら、今日最後の移動先だよと言われた場所へ、マテウスと共に『空間移動』していった。
そうして再び見覚えのない場所にやってきたエステルは、いきなり屋外の強い日差しに照らされて「うわっ」と小さな叫び声を上げた。そして眩しさから目を守ろうと額の上に手を置きながら、辺りを見回す。
少しずつ目が明るさに慣れ、二つの同じ形をした白く大きな建物と、そこを囲うように広がる整理された広場のような場所が確認できた。
「マテウスさん、ここは」
「エステリーナ、待っていたわ!」
「メルナ?ねえ、ここはどこ?今度は何を…」
だがその問いかけの言葉は、目の前に現れた二人の男性の姿を前に、一瞬で虚空へと消え去った。
「…カイザー、様?」
「エステリーナ!久しぶりだな!」
六十代後半とは思えない体格と壮健さ、そして体中に漲る活力。ピンと伸びたその背筋と隙の無さも相変わらずのようだ。
エステルは、嬉しそうに手を振るカイザーの元へ急いで駆け寄ると、その手を奪うように握りしめ、満面の笑みを見せた。
「師匠!お会いできて嬉しいです!!でも、どうしてここに?」
カイザーは握られていない方の手でエステルの手の甲をポンポンと優しく叩くと、今度はその手で最近すっかり白くなってしまった顎鬚を撫でながら答えた。
「うん。実はずっと再会したかった人物に『ぜひとも協力してほしい』と請われてね。嬉しくなってほいほいと来てしまったんだよ。」
彼はおちゃらけながらそう話したが、ローゼン王国の名誉騎士であり、今も第一線で活躍できるだけの実力がある彼を、同盟国と言えどもローゼンがおいそれと帝国に送り出すはずはない。きっとそこには何かしらの計り知れない動きがあったのだろう。
「再会したかった人、ですか?」
その人を無意識に目の端で捉えてしまう。
「彼だ、彼。後ろの彼だよ。」
そう言ってカイザーは親指で後ろを指差す。エステルは一瞬の躊躇いの後、彼の後方で佇む背の高い人物に目を向けた。
「ラトさん…」
穏やかに微笑む彼は二人から少し離れた場所に立ち、エステルとカイザーの再会を優しい目で見守っている。
(ラトさんのあんな顔、初めて見たかもしれない…)
エステルは自然と鼓動が速まっていくのを感じながら、もう一度カイザーに笑顔を向けた。
「詳しくお話をお聞きしても?」
「もちろんいいとも。ところで、私の大事な弟子はまだ昼食を食べていないんじゃないかね?せっかくだから食事をしながら話そう。だがその前に…」
悪戯っぽく微笑むカイザーが、エステルの背中を押した。
「積もる話があるんじゃないかね?彼と。」
「カイザー様…」
カイザーはそれだけ言うと、お茶目に手を振りながらメルナ達の方へと行ってしまう。残されたエステルは彼らの後ろ姿を見送ってから、ラトの方に顔を向けた。
「エステル」
(そう、聞きたかったのは、この声なの)
「ラトさん」
(会いたかった、すごく、あなたに)
ラトがゆっくりと近付いてくる。どうしてこれほどまでに彼に魅了されてしまうのか。なぜあの青緑色の瞳に見つめられると胸が高鳴るのか。
そして彼は目の前に立った。十日ぶりに会った彼は、何か覚悟を決めたような、それでいて穏やかな気迫を感じさせた。
「十日間、頑張ったな。うまくいったか?」
「うん、何とか。…ねえ、ラトさんが、カイザー様を招聘したの?」
ラトはゆっくりと頷いた。その瞳はエステルを優しく見つめている。
「ああ。君の剣を何度も見てきて、ずっとその技術の高さと俺達の知る型との違いが気になっていた。」
「私の剣?」
戸惑うエステルに彼は微笑みかける。そしてゆっくりと先ほど見えたあの白い建物に目を向けた。
「この場所は、俺も多少関わって結成された特殊部隊の駐屯地なんだ。彼らの訓練風景を見て、なぜかあと一歩が足りないと感じていた。その時にふと君の剣を思い出したんだ。あれは間違いなく、能力を持たない君のためにカイザー卿が編み出した対魔獣用の動きだ。あの動きがあったからこそ、俺は海で見たあの異常な形態の魔獣もあっさりと倒すことができた。」
「そうだったの…知らなかった。てっきりラトさんは、いつものように簡単に倒してしまったのだとばかり…」
ラトは再びエステルと目を合わせて首を振った。
「あの時は直前まで別の魔獣達と戦っていた。数が多かったから集中力も気力も下がっていたし、君を守りながらあの魔獣を倒すのは、君の剣がなければ厳しかっただろう。」
「…」
彼が一歩前に出る。適切だったはずの距離は、その一歩で一気に心をざわめかせる距離に変わった。
「四十年前、当時俺が率いていた特殊部隊は、リリアーヌが放った大量の魔獣達によって全滅した。」
淡々とそう語る内容のあまりの重さに、エステルは硬直する。
「その日俺達は遠征先の野営地にいた。リリアーヌは救護担当として遠征に同行していた。そしてその夜、俺は彼女に会いに行ったんだ。」
本当は聞きたくないのに、その先がどうしても知りたくて、エステルはじっと彼を見つめる。
「だが彼女は俺に気付かれないよう飲み物に薬を混ぜ、強制的に眠らせたんだ。そして俺が目を覚ました時には、すでに野営地は魔獣達に全て破壊された後だった。そして俺の部隊は……全滅していた。」
「そんな…」
そこでようやくラトの顔に僅かな悔しさが現れた。
「俺は少し離れた場所に寝かされていたので無事だった。だがそこでやっと理解したんだ。リリアーヌは最初からこの特殊部隊を潰すために俺に近付いてきたんだと。」
その時、エステルは周囲の物音に気を取られて辺りを見渡した。どうやら昼食を終えたばかりの兵士達が、少しずつ兵舎の外に出てきているようだ。
「だから俺はもう二度と、俺が関わった兵士達を死なせたくない。そのために出来ることを考えた時に君の剣が頭に浮かんだんだ。それでメルナさんにお願いして、君の師匠のお力を借りたいと願い出た。もちろんこの依頼は短期的なものだし、協定がなければ無理な話だったとは思うが…」
ラトのはにかむようなその表情に、エステルはつい見惚れてしまう。
(駄目駄目、しっかりしてエステル!周りには兵士達がいるのよ!?)
緩みそうな顔を必死で引き締めると、エステルは言った。
「そうだったんですね。でもまさかカイザー様がいらっしゃるなんて、本当に驚きました。」
「そうか、それなら良かった。俺は君を驚かせたかったんだ。それに君を喜ばせたかった。君が血の滲む思いで習得してきたその剣が、誰かを守りたいと願い行動する強さが、みんなの心を動かしたことを知って欲しかったから。もちろん、俺の心も。」
「ラトさん…」
ざわざわと周囲に人が集まりだしたことに気付いたラトは、エステルの耳元に「続きは後でゆっくり話そう」と囁くと、何人かの兵士達に声を掛けられながらその場を去っていった。
(ラトさんの何かが変わった。私も、変わっていかなければいけないのかもしれない…私の、私達の幸せのために)
エステルは兵士達に紛れて見えなくなったラトを想いながら、後ろを振り返りカイザー達が向かっていった兵舎の方へと歩き始めた。
― ― ―
ジュリアスはこの日珍しく上機嫌な様子で自室にこもっていた。現公爵である厳格な父も口煩い母も旅行中らしく、しばらく屋敷にはいない。その開放感とこれからの展望に期待する気持ちで心が浮き立っている。
「例の手紙は送った。これまでのように媚を売るような貴族からの贈り物じゃない。好きな女からの手紙なんだ。あの慎重な男と言えど、これだけは間違いなく開くだろう。そして最後まで目を通すはず!」
確かにこれまで散々送りつけてきた『呪詛』付きの贈り物は全て彼の手元に届くことはなかった。だがリリアーヌはそれも作戦のうちだから気にすることはないと言った。
「今になって思えば、あの女が言っていたことは正しかったな。しばらくは大人しく言うことを聞いておくか。ま、俺が皇帝になった後はうまく利用してやればいい。」
生意気な女だが抜け目は無い。下手なことをして今切り捨てられたら計画は破綻する。
(だが俺はそんな馬鹿なことはしない。皇帝としても人間としても、オーギュストよりも俺の方が断然格上なんだからな!)
常に両親から『お前こそがヘレナムア皇帝に相応しい』と言われ続けてきたジュリアスは、己の強さと賢さを実力以上のものと過信し続けてきた。だからこそ、この日の平穏がいとも簡単に崩れ去る時が来るかもしれないとは、全く考えもしていなかった。
ジュリアスは嬉しそうに笑みを浮かべると、窓の外に見えるヘレナムア城をじっと見つめる。
「いつかあの城を俺だけのものにする。帝国は俺のような男が支配するものだろ、なあ、オーギュスト?」
窓ガラス越しに城の最も高い塔を指で押してみる。頭の中で思い描く皇帝となった自分の姿は、誰よりも威厳に満ち、そして輝いていた。