87. 幸せを願って
《聖道暦1112年7月12日》
その朝、エステルは強い頭の痛みで目を覚ました。
カーテンが開いた窓から曇り空が見える。それほど強くないその日差しですら眩しくて、目を細めて頭を押さえながらベッドから出た。
「昨夜はあの後どうしたんだっけ…」
ルークのもてなしで夕食を楽しみ、酒を飲んだところまでは覚えている。いや、その後ベンチに座って…
「あいたた…とりあえず顔でも洗って、それから考えよう。」
頭の痛みに思考が遮られてしまったエステルは、顔を洗い、身支度を整えてリビングに向かった。
「あら、あれは…」
部屋には誰も居なかった。だがテーブルの上には、透かしの入った明らかに高級品だとわかる封筒が一通置いてあった。それがルークからのものだと一目でわかったエステルは、急いで手に取り、封を開けた。
「え…これだけ?」
手紙には、世話になったということと報酬はメルナから受け取るようにということしか書かれておらず、彼らしい優しい言葉どころか、別れの言葉すら入ってはいなかった。
「仕方ないか、忙しい方だものね。」
エステルは寂しい気持ちをため息と共に吐き出すと、手紙を丁寧に封筒に戻し、それを持ったまま帰り支度を始めた。
二時間後、全ての片付けや荷物整理を終えたエステルは、メルナから荷物と一緒に届いていた手紙を見ながら、最初にここに来た時に入ったあの子供用の遊び部屋に足を踏み入れた。
「わっ!?びっくりした!!メルナ、どうしたの?」
当然誰もいないと思っていたその部屋に、なぜかメルナが立っていた。
「エステリーナ、お迎えに来たわ。」
「うん、ありがとう。でも手紙にはお迎えのことは書いていなかったから、ちょっと驚いたわ。」
「ええ、実はちょっと予定が変わってしまってね。」
メルナはそこでチラッとエステルを見ると、言いにくそうに口を開いた。
「ねえエステリーナ、今から向かう場所はね、私含め数人しか知らない特別な場所なの。だから今回は同行させてもらいたいのだけれど、いいかしら?」
エステルはどこに行くのか検討もつかなかったが、瞬きを数回繰り返すと黙って頷いた。メルナのことだ、何か事情があるのだろう。
「ありがとう。では行きましょうか。そろそろマテウスに能力を発動してもらう時間ね。さあ、この数字を覚えて。」
この別荘に来た時のように、メルナに手渡された紙に書かれた七桁の数字を必死に覚える。そして彼女の合図で急いで目を瞑った。
「時間よ。」
「うん。」
そうして二人は同時に、とある場所へと『空間移動』していった。
― ― ―
ラトが関わって作り上げた新たな精鋭部隊は、『帝国軍魔獣対策特殊部隊』として、ジョルジュを中心に動き始めた。
ラト自身はあくまでも顧問という形なので、基本的に日常の業務や遠征などに直接関わることはほぼない。しかしジョルジュからは何度か訓練の指導依頼を受けているため、近日中には顔を出さなければと思っていた矢先、メルナから『第七駐屯地に来て』と連絡があった。
どうも、以前メルナに依頼していた話がいよいよ形になりそうだと聞き、この日は駐屯地に向かう準備をしながら、ラトは朝からそわそわしていた。
(このことをエステルが知ったら、きっと驚くだろうな…)
彼女の喜ぶ顔が見たい、ただそれだけのことが、今はとても難しい。
(だけど諦めたくはない。俺も今できることをやろう、エステルが、いつもそうしていたように)
ラトの中で何かが、少しずつ変わり始めていた。
― ― ―
「ここは、一体…?」
相変わらず時間の経過がよくわからないまま辿り着いたその場所は、高い天井といくつもの小さなシャンデリア、そして全ての窓にレースのカーテンが掛かった長い長い廊下だった。壁には美しい装飾の付いた白い腰壁と、薄い灰色に銀色の上品な模様が入った壁紙が続く。
「場所については何も言えないわ。さあ、とにかく行きましょう。」
「え、ええ。」
メルナに案内されるがままにその廊下を進んでいく。左側にはいくつかの白いドアが続き、右側の壁には窓が規則的に並んでいて、外の景色が少しだけ見える。だが今いる階はどうやらかなり高さがあるのか、そこから見える景色は空と遠くに見える山々だけだった。
廊下の突き当たり少し手前まで辿り着くと、暗い色のドアらしきものの前でメルナは立ち止まった。
「え?ドアノブが無い…?」
エステルの呟きにメルナは小さく笑う。そしてその表面に手を当てて何らかの能力を発動すると、少ししてから何も言わずにそのドアらしき場所を押し開いた。
ドアの向こうにはさらに廊下が続いていたが、そこは手前の廊下とは雰囲気が全く異なる、重厚だが飾り気のない焦茶色と赤を基調とした空間となっていた。
メルナは再び静かにそこを進んでいく。柔らかな絨毯が足音を吸収し、エステルは不思議な気持ちでその無音の世界を歩いていった。
そして十数歩歩いたところで、彼女は再び立ち止まる。
「エステリーナ、ここよ。」
「ここは…」
「お別れを、きちんとしていなかったでしょう?彼のために、彼が前へと進むために、どうか、最後の我儘を聞いてあげて?」
「メルナ…」
それだけ言うと、メルナは悲しげな笑みを見せてからエステルを置いてそこを離れた。彼女が先ほどの不思議なドアの向こうへ戻ってしまったのを見届けてから、エステルは目の前のドアをノックする。
「入りなさい。」
(ああ、この声は…)
「失礼します。」
ドアを開ける。薄暗い廊下にいたエステルの目には、真正面にある窓の光はとても眩しかった。そしてその光を背に、逆光で顔がよく見えない誰かが立っていた。
「エステリーナ、…いや、エステル」
「ルークさん…」
だが明るさに慣れた目が捉えたのは、ルークなのに全く別人のような姿の凛々しい男性だった。
華美な装飾の付いた黒い軍服、後ろにざっくりと掻き上げられた金色の髪。それはあのメルナの別荘でエステルと共にゆったりとした時間を過ごしていたルークとは全く違う人物のように見えた。
エステルは、帝国式の礼法に則り挨拶をしようと一歩後ろに下がったが、ルークはそれを許してはくれなかった。
「よしてくれ。君にそんなことをさせるつもりはない。」
「ですが、陛下!」
「エステル、知っていたんだね、私が何者なのか。」
「…はい。」
俯いたエステルの頬に手を当てたルークは、寂しそうな笑顔を見せて言った。
「そうか。気を遣わせてしまったかな。」
服装や見た目が違っていても、その目にはあの時と同じ、何もかも包みこんでくれるような優しさが宿っていた。
「いえ、そんなことは…」
触れた手を名残惜しそうに頬から離すと、近くにあったソファーへとエステルを座らせる。そして彼もまたその隣に腰を下ろすと、ゆっくりと息を吸いこんでから再び話し始めた。
「今日は、君にお願いがあってここに来てもらったんだ。」
「お願い、ですか?」
「ああ。今から十五分だけ、メルに君といる時間を貰った。この時間だけでいい。君との別れを惜しむ時間をくれないか?」
「陛下…」
ルークは苦しそうな表情を浮かべてエステルの手を取った。
「時間が無いんだ。陛下と呼ぶのはやめてくれ。最後に君と、一人の男として向き合いたいんだ。」
「え…?」
その瞬間、エステルの頭の中に忘れていた昨夜の記憶がぽつぽつと蘇った。
なぜかベンチで髪に触れられたこと、美しい泡状の光を見せてもらったこと、そして…
(え、もしかして夢の中で聞いたあの言葉って、現実だった?)
夢の中で誰かから「愛している」と言われたことを朧げながら覚えていたエステルは、今の彼の発言と繋がったことで一気に動揺し始めた。
「あ、あの、陛…いえ、ルークさん、私は」
「落ち着いて、エステル。わかっている、君が別の人を愛していることは。」
「…」
ルークは握りしめたエステルの手を今度は両手で包み込むと、静かな声で続けた。
「もし君に能力があれば、私は間違いなく君を妃として望んだことだろう。」
エステルは彼の薄紫色の瞳に魅入られながら、黙って彼の話を聞いていた。
「だが君には能力が無い。私は…皇帝として、君を選ぶことはできない。そして君もまた、私を選ばないと知っている。」
「ルークさん」
「もう二度とこうして会うことはできない。だから最後に聞かせてくれ。エステル、少しは私のことも意識してくれたかい?」
「それ、は…」
温かく優しく、いつだって楽しい時間を与えてくれたルーク。一緒にいる時間は心地良くて、夢のように穏やかな気持ちになれて、そして甘えてしまいたくなる人だった。
エステルは彼の目をしっかりと見て、答えた。
「意識しなかったと言ったら、嘘になるかもしれません。でも…」
「そうか。…それが聞けただけで十分だ。」
ルークの手が、エステルの手を解放する。
「そろそろ時間か。エステル、最後に君とこうして手を握り、ほんの僅かでも想いを交わせたことを、私は忘れない。」
「私も、忘れません。」
「さあ、お互いの世界に帰る時間だ。」
「…はい。」
ソファーから立ち上がり、エステルは彼に背を向けた。
だがその時、心の中にたくさんの思い出がまるで走馬灯のように蘇り、幼い頃あの庭で、蔦のようなものに足を取られてずるずると池の中に引き摺り込まれた記憶まで思い出してしまった。
(あの後、溺れかけた私を、何度もごめんと言いながら引っ張り上げてくれたあの少年は、ルークさんだったんだ…)
あの時から繋がっていた縁。もう一度彼の助けになれたこと。そしてたくさんの癒しと楽しい時間を貰ったこと。
エステルは微笑みながら静かに一筋の涙を流す。そして数歩歩いてドアに近付くと、振り向かずに言った。
「さようなら、ルーク…」
その瞬間、エステルは大きな体に後ろから抱きすくめられた。
「ひゃっ!?」
「ルークと呼んでくれてありがとう、エステル。その名を呼び捨てにしていいのは、これまでもこれから先も君だけだ。」
温かく特別なその言葉に、エステルの心が震えた。
「そしてこれだけは最後に伝えておく。君は私だけでなく、もう十分に多くの人を助け、幸せにしてきた。だからこれからは、君が誰よりも幸せになりなさい。いいね?」
「……はい!」
ルークは素直に頷いたエステルの髪に、耳に、小さなキスを何度も降り注ぐ。その言葉にならない彼の気持ちが、エステルの心をかき乱していく。
そして真っ赤になったエステルがぎゅっと目を瞑ったその時、彼はドアを開け、エステルの背をそっと押した。
「行きなさい、エステリーナ。」
それは間違いなく、決別を意味する言葉だった。
パタン
静かにドアは閉まり、エステルは静かな廊下に一人残された。数歩前に進んでから、今出てきたドアを振り返る。
それはただの一枚のドアでしかなかったが、もう二度と戻れない境界のようにしっかりと閉まり、見えない威圧感を醸し出していた。
「ありがとう、ルーク。」
今度こそ自分も幸せになるために、そして大切な人と生き抜くために、エステルは前だけを見て明るい世界に向かって歩き始めた。