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86. 露わになった心

 《聖道暦1112年7月10日》


 エステルの『守りの祈り』の効果もだいぶ定着し、この日はとうとう『呪詛』の無効化にも成功した。


 エステルは大喜びし、これで安心して帰れると荷物を片付け始めていた矢先、ルークから思いもよらない言葉が飛び出した。



 それはその日の昼食後のことだった。エステルは上機嫌で皿を洗い、軽く水気を切ってから柔らかく清潔な布で拭きあげていく。


 「エステル、手伝うよ。」

 「ルークさん、あ、ありがとうございます。」


 数日前、『呪詛』の無効化に失敗したあの日、エステルはルークの正体を知ってしまった。


 (『変身』が使えるのは帝国皇帝の血筋のみ。幼い頃、物語のようにメルナから聞かされていたあの内緒話が、まさかここに繋がるだなんて…)


 いつものように穏やかな表情で丁寧に皿を拭いているルークを見ながら、若き皇帝陛下にこんなことをさせていていいのかしらと不安になる。


 だが正体を知ってしまったことを伝えれば、きっと彼は居心地が悪くなることだろう。


 エステルは彼に聞かれないよう小さなため息をつくと、キッチンの窓の外に目を向けた。


 「今日も暑そうね…」

 「そうだな。」

 「ひゃっ!?びっくりした!もう、突然耳元で話さないでください!」


 驚いて落としそうになった皿をルークが上手に受けとめてくれたが、その距離は思った以上に近かった。


 「うん。ところでエステル、『守りの祈り』の効果は問題なさそうだね。でも念のため、予定していた二日後まで儀式は続けてくれないか?」


 彼は手に持った皿をキッチン中央の台の上に静かに置くと、エステルの前方を塞ぐように窓際の台に手を置いて僅かに首を傾げた。金色の髪に北側からの柔らかな光が当たり、彫刻のような美しさを持つその顔に薄い影が浮かぶ。


 「あの、そうですね、ルークさんがそう望むなら…念のため?」


 (皇帝陛下のご依頼、拒絶などとてもできないわ!)


 エステルがそう答えると、彼は目を細めて手を伸ばした。そしてその大きな手は予想もしていなかった動きを見せ、エステルの髪に触れた。


 「え…」

 「よかった。拒否されたらどうしようかと思っていた。さあ、少し休憩したらベンチの仕上げに入ろうか。明日の晩はそこに一緒に座って、別れの酒でも飲もう。」


 別れ、と言う言葉にどこか寂しさを感じたが、それよりも今起きたことへの驚きの方が優った。だがエステルはその動揺を必死で隠すと、微笑みながら頷いた。


 「…ええ。それ、楽しそうですね!」

 「だろう?さあ、皿をしまったらリビングで休憩がてら本でも読もう。暑いから窓は開けてあるよ。」


 彼はそう言いながらエステルから離れ、テキパキと皿を片付け始めた。


 (どうして髪に触れたの、なんてとても聞けそうにない。よし、今日はルークさんから離れた場所で本を読もう!)


 赤くなっているかもしれない頬を押さえながら、エステルは残っている皿を片付け始めた。




 《聖道暦1112年7月11日》


 夕方の『守りの祈り』の儀式が終わり、エステルは閉じていた目をゆっくりと開いた。


 椅子に座る彼もまた目を瞑っている。


 「これで、終了です。」


 ルークが目を開けた。その紫色の視線にエステルは戸惑う。


 「ありがとう。」


 エステルは失礼にならない程度に目を逸らして、経典や自分の周囲の片付けを始めた。


 「私、夕食を作りますね。」

 「エステル、今日は私に作らせてくれないか?」

 「いいのですか?お疲れなのでは?」


 ルークは微笑んで首を横に振った。


 「私が最後の夕食を君に振る舞いたいだけなんだ。いいかな?」

 「はい、じゃあ、お願いします。」


 彼の料理は何度か食べてきたが、どれも美味しく彩りも美しかった。二度と会えないであろう友人からそんなもてなしを受けるなんて、これほど嬉しいことはない。


 昨日髪を触られてから変に意識をしてしまったことを申し訳なく思いながら、エステルは手早く片付けを済ませると、自分の部屋へと戻った。




 夕食は、まだ少し空が明るさを残している時間帯から始まった。


 ルークは窓を開け放ったダイニングルームに料理を準備し、酒らしき瓶も何本かテーブルに置いてエステルを迎え入れた。


 昼間の暑さが嘘のように、涼しく爽やかな風が入り込む。そして心地良い夜の静けさが、この別荘の周りにほとんど建物がないことをエステルに思い出させた。


 (まだ簡易鑑定を受ける前は、よくこの辺りを走り回って遊んでいたのよね…)


 そんな懐かしい記憶を振り返りながら、美味しい食事と気の利いた会話、そして初めて飲む酒の味を堪能する。


 (長いようで短かったこの十日間、来てよかった。素敵な思い出ができたわ!)


 「こらこら、飲みやすいからってそんなに一気に飲んだら…」

 「んー、美味しい!少しほろ苦くて、甘酸っぱい!」

 「はあ、全く。困ったお嬢さんだ。」

 「ふふっ!」


 ルークが用意してくれた果実酒が、グラスの中で揺れている。それは透明な赤い宝石のように蝋燭の光を吸いこんで、徐々にエステルを酔わせていく。


 そのグラスを今度は目線の高さまで持ち上げると、自分が揺れるたびに中で揺れる赤い液体をじっと眺める。だがその動きは眠気を誘い、これはまずいと、エステルはテーブルにグラスを置いた。


 「どうした?」


 ルークの穏やかな声が遠くから聞こえる。


 (ラトさんの声は、もっと透き通った感じの低い声。私の名前を呼ぶ時の声が、特に好き…)


 初めての「酔う」という体験にエステルはすっかり翻弄されていた。隠していた心が剥き出しになる感覚はとても新鮮だった。


 「大丈夫か?ほら、水も飲んで。」

 「うん…あっ、そうだ!ベンチ、ベンチに座りましょ?最後の晩に座ろうって話していたでしょう?ね!」


 (心配してくれている…この人は…ラトさん?)


 視界がぼやけ始める中、エステルはその水の入ったグラスを手にリビングへと向かう。その後をルークが急いで追いかける。


 「エステル、危ない!」


 エステルは支えようとする手を押しのけながらリビングのガラス戸を開け外に出ると、テラスには例のベンチが寂しそうにぽつんと置かれていた。


 (一人でこんな暗いところにいたのね…まるでラトさんみたいに)


 ラトはきっとこうして一人、長い長い時を生きてきたのだろう。部屋の中には温かな空間と光が溢れているのに、ラトはそこから漏れ出る光を背に孤独に生きていた人だった。愛が欲しいと願いながらもずっと得られずに生きてきた人…


 エステルはベンチにすとんと腰掛けると、空を見上げた。


 「欲しがるんじゃなく、もっと言ってあげればよかった。大好きだよって、私が…私が愛してあげますって。」


 じゃり、と動きを止めるような足音がして、エステルはその音がした方に顔を向ける。すると、小さな灯りを手にしたルークが姿を現した。


 「誰を愛してあげるの、エステル。」


 エステルは顔を前に向けると、手に持っていたグラスの水をゆっくり飲み干した。


 「ラトさんを。」

 「ラト……英雄ニコラ、か。」


 ルークの声に苦々しさが混じる。エステルは頷いた。


 「彼はずっと、孤独を受け入れて生きてきた人なんです。だからいつもどこか寂しそうで、でも飄々としている。馬鹿みたいに振る舞っていたかと思ったら、突然誰よりも真摯に物事に向き合ったりする。すごく変わってて、私のことを振り回してばかりで…それなのに、私、今でもあの人のことが好きなんです。」

 「エステル…」


 水を飲んだはずなのに、なぜか酔いがさらに回っていく。エステルはぐわんぐわんと世界が回るような感覚を受け入れながら、隣に腰掛けたルークに顔を向けた。


 「私のことをあんなに冷たく突き放したくせに、反省してまた近付いてきたあの人を、どうして私は嫌いになれないんだろうって、ずっと思っていたんです。でも、さっきここに置いてあったベンチを見てわかった。私、このベンチを昼間見て可愛いなと思った時も、今とても寂しそうだなと思った時も、どちらもすごく好きだった。理屈じゃなくて、すごくすごく、ただ大切なんだって、気付いたんです…」


 気がつくとエステルは、静かに涙を流していた。


 「泣いているのか?」

 「うん。」

 「そうか。」


 ルークはそれだけ言うと、エステルの頭をそっと腕で囲い込み、自分の肩の上に乗せて言った。


 「たくさん泣いていい。今夜だけは、私が…君の一番近くにいよう。」

 「…うん。」


 音もなくそよぐ柔らかな風が、庭の木々をカサカサと揺らして去っていく。その控えめな音がよりこの夜の静けさを引き立てて、沈黙はさらに深まっていく。


 だがルークは、その空気を自分の世界へと強引に引き込んだ。


 「エステル、ここで別れの酒を飲もうと話したこと、覚えているかい?」

 「うん。」


 水を飲んでもまだふわふわとした状態が続いているエステルは、子供のようにこくりと頷いた。ルークは抱えている手でエステルの髪をそっと撫でると、その手を軽く上に挙げて指を鳴らした。


 パチン


 その軽快な音を合図に、ベンチに座るエステルの前で色とりどりの光の玉が一斉に輝き出した。それはまるで虹色に光る大きな泡のように、淡い光を放ちゆったりと揺れながら浮いている。


 「きれい…」


 その幻想的な光景は、涙に濡れた瞳に滲んでエステルをさらに夢の世界に連れていく。


 「待っていて、今新しいグラスを持ってくる。」

 「…」


 暗闇に浮かぶ虹色の玉にすっかり魅了されたエステルは、ルークが酒を持って戻ってきたことにすら気付いていなかった。


 「さあ、グラスをどうぞ、お姫様。」

 「あ、ルークさん、ありがとうございます。」

 「おや、私のお姫様はだいぶ酔いが覚めてしまったかな?」

 「はい、でもまだ少しふわふわします…」

 「そう。じゃあ最後の一杯、付き合ってくれ。」


 エステルがグラスを受け取ると、彼は自分のグラスをそれに軽く当ててから自分の酒をゆっくりと飲み始めた。


 一口飲むごとに彼の逞しい喉元が規則的に揺れる。エステルは無意識のうちにその様子を目で追っていたようで、ルークに「こら、そんなに見つめるな」と言われて顔を赤くする。


 「ごめんなさい!お、美味しそうに飲むなあと思って!」


 そう言って顔を背けると、エステルもその酒を口にしてみる。


 「うわあ、良い香り…でも、ちょっと強い。」


 先ほどの果実酒とは違い、甘みはないが芳醇な香りを持つその酒は、別れの一杯に相応しい複雑で奥行きのある味わいだった。


 「強いからゆっくり飲んで。…最後の夜だから。」


 ルークの顔がぼやけて見える。少し飲んだだけなのにまたあのふわふわとした感覚が蘇る。本当に強い酒なのだろう。すると彼は微笑みながらこう言った。


 「エステル、私はニコラが羨ましい。この大陸、特に帝国では、能力の数と強さが序列を決める。それなら間違いなく今の私の地位に相応しいのはニコラだ。だが彼は私の地位ではなく、私が今一番欲しい場所にいる。それが……何より羨ましい。」


 彼はベンチの背もたれの上に腕を乗せ、そこから手を動かしてエステルの髪に触れた。


 「ルーク、さん?」

 「顔が赤いのは、酒のせいかな?それとも…」


 ぼんやりとルークを見つめながら今何を言われたのかを考えてみたが、酔っているエステルにはよくわからなかった。ただこの夜の彼がとても優しくて、無性に甘えてみたくなる。


 (ルークさん…素敵な人だった。再会できて、本当に嬉しかった…)


 「ルークさんと、会えて、良かった…」


 力が抜けてふにゃっと笑みを浮かべると、眠気に負けたエステルはとうとう意識を手放した。ルークはその手から落ちそうになったグラスを素早く奪うと、それをベンチの下に置いてエステルを抱き上げた。


 「触れるつもりはなかった。君が池に落ちなければ『契約』も解除せず、適切な距離を保っていられたはずだった。これまでだってずっと君に会うことを我慢してきた。」


 ルークはじっとエステルの顔を見つめると、悲痛な表情を見せて言った。


 「私は自分の役目を放棄することはできない。君もまた、私を選ぶことはないだろう。だが、もし……」


 ルークは強く唇を噛むと、そのまま二階に上がり自分の部屋に入った。広々としたベッドの上にエステルを寝かせてからサイドテーブルの上のランタンに火をつけた。


 「もし私が君を本気で欲しがったら、自由な君をこの国と私自身に縛り付けることになったとしても、きっと二度と手放せない。」


 体中の力が抜けて横たわるエステルの穏やかな寝顔が、仄かなランタンの灯りに照らされてその美しさを際立たせている、とルークは思う。


 「だからこれ以上私を惑わさないでくれ。このままぐっすり眠って、朝まで目を覚まさないでくれ。そして私のことは忘れ」

 「ラ……行か…ないで…」

 「!」


 その寝言が自分への呼びかけではないとわかってはいたが、あまりに時宜を得たその言葉に、ルークの中の何かが決壊した。


 「エステル、愛している。」


 彷徨うエステルの手を握り締め、ゆっくりと顔を近付ける。だが心の中の最後の躊躇いが、ルークのその動きを止めた。


 「ルーク兄様、それ以上は駄目だとわかっているでしょう?」


 その時、終わりを告げる使者が姿を現した。ドアが開いたままだったことを、ルークは悔やんだ。


 「ああ。……早い出迎えだな、メル。」

 「ええ。兄様に後悔させたくなかったから。」

 「…そうか。」


 ルークはよく眠っているエステルの頬を優しく撫でると、ベッドを離れ、髪をかき上げた。


 「先に戻る。エステリーナは酔って寝ている。…後は、頼んだ。」

 「承知いたしました、陛下。」


 メルナが恭しくそう答えると、ルークはスッと背筋を伸ばし、振り向くことなくその部屋を出て行った。


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