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85. 君が喜ぶこと

 温かい湯にゆっくり浸かってすっかり元気になったエステルは、髪をタオルで乾かしながら鏡台の前に座り、先ほどのルークのことを思い返していた。


 (確かに大事件ではあったけれど、あんなに別人のようになってしまうなんて…)


 優しいお兄さんといった雰囲気だったルークが一瞬にして上官のような威圧感を放ったあの瞬間、エステルは何とも言えない寂しさを感じていた。


 (どうして寂しいなんて感じてしまうのかしら?)


 幼馴染のような存在だと思っていた彼だが、よくよく考えてみれば彼とは数回しか会っていない上、その後十年以上消息すら知らなかった人なのだ。彼がどんな人なのか知りもしないのに、勝手に寂しさを感じるなんておかしな話だ。


 「今までがとても優しかったから、雰囲気の違いに心が追いつかなかっただけよね。それに、あと数日だけのお友達ですもの。彼がどんな人でも気にせず、気持ちを切り替えて楽しく過ごしましょう!」


 エステルは鏡の前でにっこりと笑顔を作ると、髪を丁寧に纏め上げてから自分の部屋を出た。




 広さはそれほど無いが、いつもつい寛いでしまう大好きなリビングに入ると、そこには難しい顔をして腕を組み、ソファーに深く腰掛けているルークがいた。


 「ルークさん、さっきはありがとうございました、助けていただいて。」


 ルークはハッとして立ち上がると、エステルに近寄り心配そうに顔を覗き込んだ。


 「いや、礼なんていい。むしろ無理を言って君を危険な目に合わせてしまった。本当にすまなかった。怪我はないようだが…その、精神的には、どうかな?」


 エステルは彼の言葉の意味がいまいち掴めず、視線を下に向けて考えこんだ。


 (精神的に、ってどういうことかしら?あ、もしかして水が怖いことに気付かれたの?)


 無言になってしまったエステルに何か思うところがあったのか、彼は神妙な面持ちでこう言った。


 「エステル、大事な話がある。そこに座ってくれないか。」

 「え?あ、はい。」


 あの少し威圧感のあるルークが再び顔を出す。言葉は優しく、気遣いも感じられるが、彼が醸し出す何かが、以前とは違うように思う。


 座り慣れたちょうど良い硬さのソファーに腰を下ろすと、エステルの目の前に座った彼は真剣な表情で言った。


 「思い出させることがいいことかどうか、私には正直わからない。だが、思い出して欲しいという私の我儘だと思って聞いて欲しい。」

 「あ…はい。」


 一体何の話だろう、とエステルが緊張しながら彼の話の続きを待っていると、ルークはいつもの柔らかな低音で語り始めた。


 「十代に入ってから、私の周囲では後継者争いが始まった。」


 ふと見ると、彼の手は強く握られている。


 「私が父の後を継ぐことはほぼ確定していた。血筋もだが能力的にも問題はなかった。当時でさえ、私は誰にも文句を言わせないだけの実力は持っていた。だがそのことが、跡目争いをむしろ深刻化させてしまったんだ。簡単にいうと、私は命を狙われ始めた。」

 「えっ!?」


 力のある家柄の場合、そういうことが起こりうるのだろうか。エステルも貴族の端くれではあるが、ローゼンではそこまでの状況になった貴族の話などほとんど聞いたことがなかった。


 ルークの表情が僅かに曇る。


 「父は、自分の機嫌を良くしてくれる人には甘い人だった。威厳はあったが、隙もあった。私はそんな父を反面教師にして学び続けたし、本当に大事なことは祖父から教わっていた。そして十四になったあの夏、祖父が亡くなり、一気に命の危機が迫ってきた。」


 彼の年齢から考えて、それは十一年前の出来事、ということなのだろう。確かその頃はよくメルナと遊んでいたな、とエステルはぼんやりと当時のことを思い出す。ルークは続けた。


 「メルの家を筆頭に、私を守ろうとしてくれる人は当時もそれなりにいた。だがまだ力の足りない子供だった私は、政治的な力を、そして味方を多くつけるために、一旦身を隠したんだ。それが、君がこの別荘で見た私だ。」


 エステルは一瞬考えてから、形になった違和感を言葉に変える。


 「でも、私が見たのは確かに女の子でした。しかも黒髪だったし…それに年齢だって、私より四つも上には見えませんでしたが…」


 ルークはそんな疑問が投げかけられることなどとっくに予想していたのだろう。表情を一切崩さず、彼はこう言った。


 「それは我が家に代々伝わる、『変身』の能力によるものだ。」


 エステルはその時ようやく、目の前の人物が誰なのかをはっきりと理解した。


 (まさか、ルークって……)


 だがその気付きを口にも表情にも出すことはなく、冷静に問いかける。


 「ではやはりあの子は、あなただった、と?」

 「そうだ。」

 「…」


 急に黙りこんだエステルをじっと見つめながら、ルークは大きく息を吸って再び口を開いた。


 「そしてあの年の夏、君は暗殺者に狙われていた私を、命懸けで助けてくれた。」


 俯き気味だったエステルは、その言葉に驚き勢いよく顔を上げた。


 「えっ?」


 薄い紫色の瞳がこちらをじっと見つめている。


 「あの日、庭に潜んでいた不審者になぜか君だけが気付いた。そしてその不審者が誰を見ていたのかも。これは私の勝手な推測だが、幼かった君は今よりも強く精霊達の加護を受けていたから、庭にいた精霊達の警戒心が伝わったのだろうと思う。だがそのせいで君は、密かに私を守ろうと行動してしまった。その日私が着ていた服や帽子に似たものを着用し、勝手に囮となって……そして潜んでいた暗殺者に、あの池に引き摺り込まれたんだ。」


 頭の中が真っ白になる、というのはこういうことなのか。


 エステルは呆然とルークの顔を見つめ、彼が顔の前で大きく手を振るまで全く動くことができなかった。


 「エステル?」

 「あ…はい」

 「あの時の君の勇敢な行動のお陰で私やメル、周囲の大人達が一気に動くことができたからこそ、安全に暗殺者を排除できた。だが君にとっては辛い記憶なのだから、無理に思い出そうとしなくていい。たださっきの様子を見ていて、今の君なら、いつか自分の過去に向き合いたいと思う日が来るのではないかと思ったんだ。そしてそれを伝えるのは、命を救ってもらった私の役目だと。」


 (あの時、池の中で蘇った断片的な記憶は事実だった。でも、なぜかその話を聞いても怖くはない…)


 沈黙の中で一つの答えに辿り着くと、エステルは微かな笑みを浮かべて言った。


 「教えてくれてありがとうございます。あなたの命が助かったことを知れて、本当に良かった。」

 「…っ!」


 この時エステルは初めて、いつも冷静沈着なルークが動揺する姿を目撃した。


 「エステル、君はすごいな。」

 「すごくなんてありません。ただ、今日あれほどのことがあってもその日のことを完全には思い出せなくて……だから、あなたがこうして今生きているなら、それでいいかなと思っただけです。」


 ルークは目を大きく開くと、途端にその顔をくしゃくしゃと歪ませ、今にも泣きだしそうな笑顔を見せた。


 「あの時は命を助けてくれて本当にありがとう。いつか君には、絶対にあの時の礼がしたかったんだ。本当に、本当にありがとう。」


 何度も感謝の気持ちを伝えてくれる彼からは、もう先ほどまでのあの威圧感は感じられなかった。エステルはその穏やかな彼に安堵しつつも、極力水場には近付かないようにしよう、と自分に言い聞かせていた。



 ― ― ―



 その日ラトの元に集められた兵士達はおよそ二百人、そしてその中からいくつもの試験や模擬訓練を経て、最終的に二十人まで絞りこむのが今日のラトの役目だ。


 『精鋭部隊』をもう一度作ることになろうとは夢にも思わなかったラトだが、現時点で、すでに昔の兵士達とは違う何かを感じていた。


 (以前は魔獣に関する知識が足りず怪我をする者が多かったが、あれから四十年の間に兵士達の意識も大きく変わったんだな。だいぶ技術も意識も向上している!)


 ラトは最終選考に残った四十人の兵士達を見ながら、その動きの素早さや安定感、そして魔獣の動きに対する理解の深さにすっかり感心していた。


 「これなら互いに命を守れる…可能性は、高い。」


 そう無意識に口にした言葉を、隣にいたメルナが聞いていた。


 「そうね。兵士達には定期的に魔獣の討伐をするよう陛下が指示を出していたから、おそらく四十年前よりは多少動きが改善されているのではないかしら。でもそれも、過去の尊い犠牲があったからこそ。」

 「……ああ、そうだな。」


 そうして二人は、前を向いたまま沈黙する。


 (ここからさらに能力の発動時間を短縮できれば、ぐっと生存確率が上がるはずだ。それが、今の俺にできることなら…)


 ラトはその時ふと、エステルの戦いぶりを思い出していた。


 特殊能力を持たないエステルにとって、剣の腕を極限まで高めることは必須の課題だったのだろう。そして彼女の剣には学ぶことが多くあった。あの動きができる者が増えれば、完全な能力発動の機会が増える…


 「メルナさん、ちょっと調べて欲しいことがあるんだが、いいか?」


 唐突なその問いかけに、メルナは驚いた顔で振り向く。


 「珍しいこともあるものね。いいわ、あなたには協力してもらっているんだもの。何でも調べましょう?」


 ラトはそれなら、と大きく頷くと、メルナにとある人物について調べて欲しいと告げて、再び前を向いた。するとメルナは素早くそこを離れる。


 「きっとこれが突破口になる。彼女の積み重ねてきた努力がたくさんの人の命を救えるきっかけになった、と知ったら…きっと喜ぶだろうな、エステルなら…」


 目の前で繰り広げられる模擬訓練の様子を見つめながら、ラトは遠く離れた大切な人の優しさと強さを思い出して、微笑んでいた。


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