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84. 記憶の奥底に眠る傷

 《聖道暦1112年7月5日》


 「エステリーナ、そろそろ食事にしよう。」

 「はい!あ、ルークさん、新しい荷物、届いていましたよ!」

 「そうか、ありがとう。」



 メルナの別荘に到着してから三日が経過した。


 初日は夕食をとりながら簡単な自己紹介を済ませ、その日の就寝前に『契約』を結んだ。


 『契約』はてっきり別の人物にお願いするのだと思っていたのだが、どうやらその能力を持っているのは当の本人だったらしい。


 相手に危害を加えないこと、ここであった出来事を誰にも話さないこと、相手の体に触れないこと、その三点を紙に書き記し、彼に『契約』の能力を発動してもらう。


 またそれとは別に、「祈りの効果を高めるため、ここでは極力能力を使わないでほしい」と彼にお願いしておいた。


 契約後、「念のため効果を試してみて」と促され、実際にエステルの方から彼に触れようと手を伸ばした。だがまるで二人の間に透明な壁があるかのようにそれは遮られ、彼には指一本触れることはできなかった。


 「これで安心してもらえたかな?」


 そう楽しそうに話す彼に、エステルも思わず微笑む。


 ちなみに彼はルークと名乗り、年齢は二十五歳とのこと。仕事に関しては詳細は言えないが、メルナと同じような仕事をしている、とだけ教えてくれた。彼女の従兄妹であることは間違いないようなので、メルナと同じく公爵家の人間なのだろう。



 翌日はまだぎこちない態度でルークに接していたエステルだったが、彼が儀式の時間以外、ありとあらゆる方法でエステルを楽しませようと動いてくれたため、その日の午後には二人はすっかり打ち解けていた。


 「そうそう、上手じゃないか!まさかこんなに早く上達するとは…」

 「ルークさんの教え方が上手だからですよ!でも、最終日までに仕上がるかしら?」


 ルークに誘われて始めた木工作業は、敷地の外に出られないエステルにとって、屋外で少しだけ開放的な気分を楽しめる最高の遊びだった。ちなみに今作っているのはベンチで、エステルは何とか最終日までに座ってみたいと思っている。


 それ以外にもルークは一緒に食事作りをしたり、お勧めの本を教えてくれたり、エステルの知らないゲームをしようと誘ってくれたりと、その豊富な知識と持ち前の明るさを散りばめながら、楽しい時間を提供してくれた。その姿は常に自然体で、エステルはどんどん肩の力が抜けていった。



 そして三日目となったこの日、午前中の祈りの時間を終えると、いつものように簡単な昼食作りを始めることになった。


 「エステル、そこのナイフを取ってくれないか?」

 「はい…って、え?」


 それまでずっとエステリーナと呼んでいた彼が突然呼び方を変えたことに驚き、エステルは手にしていたナイフを落としそうになる。


 「おっと危ない!」

 「はっ、はあ、危なかった…。でもルークさん、どうして突然『エステル』だなんて?」


 ナイフを慎重に手渡しながら、呼び方を変えた理由を尋ねると彼はこう言った。


 「昔…そう呼んだことがあったんだ。一度だけね。どうしても君ともっと仲良くなりたくてそう呼んでみたんだが、その頃照れ屋だった私の声が小さかったからか、君は気付いてくれなかった。」

 「そんなことが…ごめんなさい、気付かなくて。ちなみにそれって、ルークさんがあの黒髪の女の子だった時のことですよね?」


 ルークは優しい笑みを浮かべながら頷く。そして遠い過去を思い出すかのようにふっと目を細めると、ナイフを器用に動かして野菜を切りながら言った。


 「そう、そうだね。あの頃の話はあまりしたくないんだが…それでも一つだけ君に話しておきたいのは、今私がやっていることは、当時の君がしてくれたことなんだ、ってことかな。」

 「え?私、何かしましたか!?」


 自分がルークに何をしたか全く覚えていないエステルは、レタスをち千切りながら彼を見つめた。


 「ほらほら、そんなに細かくしたらパンに挟めないよ?」

 「あっ、本当だわ!もう、何しているのかしら私…」


 ルークはエステルの手元で細切れのように小さくなったレタスを手でまとめると、皿に移してエステルに新しいレタスを渡した。


 「これは後でサラダにしよう。……あの頃の君は、元気で明るくて、今よりもちょっとだけ抜けているところがあったかな?」


 面白そうにそう話す彼に、エステルはわざと膨れっ面をしてみせる。


 「もう!ルークさんたら!」

 「ははは!まあ冗談はさておき、君は当時私に色々な遊びを教えてくれたんだ。木の登り方、剣術を取り入れた遊び、草花を使った冠の作り方まで、ね。」


 エステルはそう言われてもほとんど思い出すことはできなかったが、ぼんやりとその夏の日の光景を想像する。


 「きっと、とても楽しかったのでしょうね。」

 「ああ。楽しかったし、新鮮だった。それまで一度もそんな遊びをしたことはなかったし、そうやって誰かに心から楽しませてもらうことはなかったから。」


 ルークはそこで突然「あっ!?」と声を上げた。エステルは驚いて彼の手元を見る。


 「どうしたんですか!?」

 「すごいな…ナイフで手を切るかと思ったら、全く当たらなかった。たった二日でこれとは恐れ入ったよ!」


 エステルは状況がわからず首を傾げていると、ルークはナイフを台の上に置いて言った。


 「君の『守りの祈り』が作用したんだ。今このナイフで危うく指を傷つけるところだったが、まるで何かに弾かれたかのように、ナイフが上に持ち上がったんだ。」

 「本当ですか!?そうなんだ、二日でこんな効果が出るなんて、すごいわ…」


 (研究所で試していた時よりも効果が上がっているのかしら?)


 うーんと言いながらエステルが考え込んでいると、ルークは目の前に置いてあったレタスを再び持っていってしまう。


 「あ、レタス…」

 「ふっ!ぼんやりしている君に任せておいたら、またレタスが小さくなってしまうからね!さあ、君はこっち。」

 「ルークさんの意地悪!」

 「ははは!ほら、パンにバターを塗って!塗りすぎないようにね?」

 「はーい!」


 こうしてエステルはルークに時々揶揄われながら、穏やかで優しい時間を過ごしていった。



 ― ― ―



 エステルが研究所に来なくなってから三日が経った。


 ラトはあの日以来研究所には行かず、メルナの依頼のために、とある兵舎に滞在していた。


 「失礼致します。ラト殿、今よろしいでしょうか?」


 大きくはないがリズミカルに叩かれたノックの音に反応しドアを開けると、そこには四十代位、白髪混じりの短い黒髪を持つ一人の兵士が立っていた。胸に付けている勲章や記章の数から見ても、それなりに上の地位にいる人物のようだ。


 「どうぞ、中へ。」


 その男性は隙のなさそうな動きを見せながら中に入ると、勧められた椅子にも座らず無表情で話し始めた。


 「本日よりラト殿の補佐となりましたジョルジュ・マースと申します。あなた様のことは、帝国軍総合情報局局長からある程度の情報をいただいております。もちろん、私以外の人物は何も知らされておりません。」

 

 抜け目のなさそうな男だなと思いながら、ラトはただ黙って立っている。反応が無いことに焦る様子もなく、少ししてジョルジュは続けた。


 「あの英雄ニコラ様ご本人と、こうして対面しお話できるなど、全く予想もしておりませんでした。お会いできて大変光栄です。」

 「そう…ですか。」


 (俺はそんな大層な人間じゃない。英雄?いや、俺はただの無能な男だ)


 心のこもっていない彼の言葉にラトもまた冷たくそう返したが、彼はそんな態度ですら全く気にしてはいないようだった。


 「今日はまず今後の流れをご説明させてただきます。よろしいでしょうか?」

 「ええ、お願いします。」


 ラトは再び過去と向き合わなければならない自分を憂いながら、黙ってジョルジュの説明を聞いていった。



 ― ― ―



 《聖道暦1112年7月8日》


 メルナの別荘に到着してから六日目。エステルの『守りの祈り』は、順調に効果を発揮し始めていた。


 ルークは何度か自分の手で自分を傷つけようとしてみたが、素手などで無い限り、どのような武器を手にしてもそれで自分自身を傷つけることはできなかった。


 そしてこの日、彼から一つ提案があった。


 「エステル、そろそろ試しておきたいことがあるんだが、いいかな。」


 ルークにしては言いにくそうにしているな、とエステルが不思議に思いながら頷くと、彼は徐に横にあるチェストの中から、手のひらより少し大きい箱を取り出した。その紺色の箱の表面には、金色の美麗な紋様が入っている。


 「それは?」

 「これは、『呪詛』が刻み込まれた腕輪だ。かなり弱い呪詛だが。」

 「呪詛…」


 エステルはごくりと喉を鳴らすと、箱の中に入っている物の醜悪さに思わず顔を顰めた。


 「うーん、弱いとはいえ、室内で試すのは危険かな。エステル、庭に出てみようか。」

 「はい。」


 今回の『守りの祈り』、この儀式の最終目標は、『呪詛』を無効化することだ。だが祈りの効果が弱い場合、完全には呪詛の効果を消すことができず、多少本人に害を与えてしまったり、周囲に弾き返すだけになってしまうこともあるらしい。


 「エステル、もし私に何かあったら、例の連絡用の機械を使ってメルを呼んでほしい。」

 「わかりました。」


 (本当はあと二日ほど儀式を続けたいけれど…きっとルークさんは一日も早く仕事に戻りたいのね)


 物が物だけに嫌な予感は尽きないが、エステルは覚悟を決めてルークと共に庭に出る。


 「さて、じゃあ蓋を開けるよ。」

 「は、はい。」


 箱の蓋がゆっくりと開き、中から金色の腕輪が姿を現した。それは日の光を反射してギラギラと光り、その光すら目に入れたくないと思うほど、派手で品が無いもののように見えた。


 エステルは祈りを捧げるかのように両手を組むと、ルークから少し離れ、緊張しながらその時を待つ。


 そして彼がついにその腕輪に、触れた。


 「…ん?」


 何事も起きなかった、と安堵しかけたその時、ルークが腕輪に触れたその手元から半透明の黒い何かが勢いよく放射状に飛び散った。エステルは当然それを避けきれず、黒い衝撃波をまともに食らう。


 「きゃあああっ!?」


 そしてその衝撃はエステルの全身を包み込み、その体を庭の端の方まで吹き飛ばした。


 「エステルっ!?」


 ルークの焦った声が遠くで聞こえる。だがその声はすぐに冷たい衝撃と水音の中に掻き消えていく。


 (ここは……池?)


 この別荘の庭には深く大きな池がある。エステルはここに来てからその池を無意識に避けており、一度も近付くことはなかった。それなのにまさかこんな形で池と触れ合おうとは…


 泡だった青い水面が頭上で揺れている。


 (あれ、私、どうやってあそこに行けばいいの?)


 怖い。


 怖い、怖い、沈む、沈められる、誰かが足を…


 (助けて!誰か、お願い、ラトさん…!!)


 「エステル!!」


 気を失いそうになったせいで力が抜けたのか、体が自然と浮き上がり、何とか水面に顔を出せた。だが恐怖に支配されてしまったエステルはただバシャバシャと水面を手で叩くばかりで前には進めず、顔は何度も浮き沈みする。


 焦れば焦るほど水を飲み、その度に咽せて苦しくなる。


 (もう駄目かも…)


 そんな思いが頭を過ったその時、再びルークが何かを叫んだ。その声の感じから、彼は思っていたよりエステルの近くにいる気がする。


 「…してくれ!!」


 (何?なんて言ったの?)


 「エステル!!契約を解除することに同意してくれ!!」


 (契約、解除…同意?)


 朦朧とする意識の中で、ルークが手を大きく伸ばしている様子が水滴に混ざって見える。そして彼はもう一度大声で叫んだ。


 「エステル!頼む!はい、と言ってくれ!!」

 「ぷはあっ……は、はいっ……」


 その瞬間、エステルは大きくしなやかなその手に、がっしりと手を掴まれていた。



 「はあ、はあ、はあ…」

 「良かった…本当に、無事で…」


 水浸しになったエステルは、池のすぐ横の芝生の上で息を整えていた。ルークはその様子を見ながら何度も深呼吸を繰り返していたが、何かを思い立ったかのように突然立ち上がり、エステルを軽々と抱え上げた。


 「えっ?あ、歩けます!」

 「うん。わかった。とにかく湯を準備するから。」

 「…」


 有無を言わさぬ雰囲気を醸し出すルークに、エステルは若干の威圧感のようなものを感じて口を噤む。


 彼はエステルを風呂場に連れていくと、「適当に着替えになるようなものを探してくる」と言って、目も合わさずにそこを離れた。


 (ルークさん、一体どうしたのかしら?)


 エステルは今まさに自分が溺れていたことなどすっかり忘れ、いつもは優しい同居人の異変に、微かな不安を感じ始めていた。


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