83. 過去との邂逅
研究所を飛び出したエステル達はそこから十分ほど歩き、今はもう営業していない様子の古びたカフェの前で足を止めた。
その店の前には小さなベンチが置かれている。埃を被り、明らかに長いこと使われていない状態だとわかったが、なぜかラトはそのベンチに近付いていこうとする。
そしてベンチの前に立つと、彼は能力を発動してその椅子の汚れを器用に取り除き、手で安全を確かめた上でエステルをそこに座らせた。
「ほら、ここに座って話そう。」
「…うん。」
目立った商店や大きな施設などが周りに無いせいか、目の前の細い通りに人は全く通らない。しかもベンチに座っても、ラトはすぐに話を始めようとはしなかった。
逃げ場の無い静けさだけが続く状況に耐えきれず、エステルは無意識に手を動かしていたらしい。だがラトに「ベンチが削れるぞ」と言われるまで、自分がその端の部分を爪で引っ掻いていることにすら気付いてはいなかった。
その時、一羽の白い小鳥が目の前の地面に降り立った。その鳥と目が合った気がしてじっと見つめていると、ラトがその重い口を開いた。
「エステル、あの日俺が君を突き放したのは、君がリリアーヌという魔人に命を狙われていると確信したからだ。」
ぼんやりと見つめていた鳥が、その瞬間バサバサ、と羽音を立てて飛び立った。
「…そう。」
(なぜだろう、それを聞いても、何か違うとしか思えない)
ラトは目も合わせないエステルの様子に不安になったのか、そっと手を伸ばし、まだベンチの端を引っ掻いているエステルの手を握った。
エステルの手の動きが止まった。
「だからってあんなことを言うべきじゃなかった。俺は、君の覚悟を全くわかっていなかった。俺と一緒に立ち向かっていきたかったってあの船の上で君が言った時、俺は…」
握られた手がラトの大きな手の中に包まれていく。それが嬉しいのに切なくて、エステルは目を瞑った。
「いや、俺の気持ちなんてどうでもいい。ただ、今更なのも我儘なのも図々しいことを言ってるのも十分わかってるけど……あの時の俺の言葉を、どうか撤回させてほしい。」
(違う、違うの。我儘なのは私。聞きたい言葉は、それじゃない)
エステルは船で話したあの日から、胸の中ですっと燻り続けてきた言葉をもう一度飲み込んで、ラトに言った。
「…シルフィさん、さっき、顔を赤くしていたわ。」
「え?」
思っていたのと違う言葉が返ってきたからか、ラトは困惑している。エステルは瞼を開いてようやく彼の顔をしっかりと見つめた。
「前は公園で、手だって握ってた。」
「いや、だからそれは」
「ねえラトさん。私が今欲しい言葉が何か、わかりますか?」
「欲しい、言葉?」
彼の瞳が微かに揺れているのが見える。きっと彼は今、欲しい言葉とは何だろうと頭を悩ませているのだろう。
シルフィのことも、本気でラトが彼女のことを好きだなんて思ってはいない。だが、たった一つの欲しい言葉をくれない彼に、そしてそれを強請ることすらできない自分に、エステルは苛立っていた。
(私はただ、前みたいに「好きだよ」って言って欲しかっただけ。シルフィさんとのことだって、好きな人がいるからと言ってもっと拒絶して欲しかっただけ。たとえそれが、私の我儘だとしても…)
しかしそれを口にできるほど、エステルはまだ今のラトに心から甘え切ることはできなかった。
「ラトさん、私明日からある人の『守りの祈り』の儀式のために、しばらく研究所には行けないことになりました。」
突然切り替わった話題に、ラトはハッとした表情を見せた。
「え?あ、ああ、メルナさんから聞いてる。」
「そう、ですか。だからこの機会によく考えてみます。私が、これからどうしたいのか。」
その含みのある言い方に何か危機感を感じたのか、ラトは青ざめた顔でエステルの手を強く握りしめた。
「どういう意味?」
「わからない。でも今、私すごく我儘なことを考えているんです。それに自分のことなのに、自分の気持ちがよくわからないの。だからあなたともう一度離れて、これからどうしたいのかを考えてみます。」
「エステル…」
彼の苦しそうな顔が、その柔らかな髪に隠れて見えなくなっていく。彼の頭は徐々に下がり、その額がエステルの肩にそっと触れた。
(本当ならこの髪に触れて、彼の苦しみを全て取り除いて抱きしめてあげたい。でも今の我儘な私は、どうしてもあなたからの「好き」がないと、何もできそうにない…)
頭を撫でてあげたい衝動をグッと堪えて、エステルは彼が落ち着くまでこの状態でいてあげようと、密かに決めていた。
《聖道暦1112年7月3日夕方》
「エステル、荷物はこれで全部かな?」
大きな荷物を馬車に運び入れてくれたのは休暇中のアランタリアだった。わざわざ自宅からエステルの荷運びのためだけに来てくれたんだ、と彼は言った。
「ええ、ありがとう。アラン、何だか気を遣わせてしまったみたいで、ごめんなさい。」
エステルがそう言って軽く頭を下げると、彼はエステルの肩に軽く手を置いて言った。
「俺がそうしたかったんだから謝らないで。しばらく会えないから、その前にあなたに会っておきたかった。俺も休暇が終わればまた忙しくなるからね。」
「そうなのね。でも、ありがとう。」
彼はそれから何か言いたげに口を開いたが、結局それは無言の笑顔になり、二人は静かに手を振って別れた。
馬車に乗って向かった先は、エステルには全く見当もつかないような場所だった。馬車の窓は全て隠されていた上、何度も入り組んだ道を通って進んでいったため、方向感覚など一切役に立たなくなっていた。
そうこうしているうちに眠くなり、馬車の音を子守唄のように感じながらうとうととしていると、ゆっくりと速度を落とした馬車が静かに停車した。
「エステリーナ様、到着しました。」
馬車ではなく馬に乗ってエステルの警護に当たっていたエマが、馬車のドアをノックしながらそう告げた。エステルは自分の手で鍵を開けて馬車の外に出る。
外はすっかり日も落ちて、周囲には街灯もなく、かなり暗く感じる。エマがランタンを手にしながらエステルを先導し、馬車を降りてからさらに十分ほど歩いたところで、そのランタンと紙を手渡された。
「エステリーナ様、私が案内できるのはここまでです。周囲には誰もいないことを確認済みですが、念のためあの建物に入るまでは見守っております。小さな灯りが玄関に掛かっている、あの家です。」
エステルが黙って頷くと、エマは話を続けた。
「お荷物は後ほどお届けしますのでご安心を。それと先ほどお渡しした紙は、指示があるまで開かずに持っていてください。」
エマの顔には緊張した笑顔が浮かんでいる。エステルにもその緊張感が移ってしまったのか、急に心臓がドキドキし始めた。
「わ、わかったわ。エマ、帰り道、灯りがなくて大丈夫?」
「エステリーナ様、私は夜目が効きますのでご安心ください。もう、こんな時までお優しいのですから…」
責任重大な仕事を抱え、これまでにない重圧を感じているエステルにとって、エマの裏表のない笑顔が今はとてもありがたい。
「じゃあ、行くわね。」
「はい。どうかご無理なさらないように。」
「ええ、ありがとう!」
エステルはランタンを上に掲げると、エマに言われた通りに目印の灯りを目指して歩き始めた。
そして五分後。
真っ暗な中にぽつんと光る玄関のランタンを見つめながら、エステルはドアをノックした。
するとそのドアは音もなく開き、内部の柔らかな明るさがドアの外に漏れる。それすら眩しいなとエステルが思っていると、聞き覚えのある声の持ち主が、眩しさに慣れたエステルの視界に入った。
「マテウスさん?」
「入って。」
エステルが急いで中に入ると、ドアが勝手に閉まる。どうやらマテウスには物体を動かす力もあるらしい。
「早速奥の部屋に行こう。あまりここも長居はできないからね。」
マテウスにそう言われて素直に奥の部屋に進むと、そこには家具どころか、他のドアや窓すら見当たらなかった。
「さあ、エマさんにもらった紙を開いて?あ、私には見せなくていいからね。」
「わかりました。」
手に握りしめていたその紙を開くと、何やら数字が七つほど並んでいる。
「今からそこに書いてある数字を暗記して欲しい。完璧に覚えたら、目を瞑って頭の中で何度も唱えていてくれ。その間にあなたを目的地までお送りしよう。」
「空間魔法、ですか?」
マテウスはにっこりと微笑んで頷いた。
「そうだよ。私はこの能力があるからメルの婚約者に選ばれた、と言っても大袈裟ではないんだよ。物を移動させるだけの能力持ちは多いけど、自分に繋がっていない人物を移動させられるのは、少なくともこの大陸では私だけじゃないかな。」
「えっ?そうなのですね!すごい…」
ザビナム王国のコウですら、自分に触れている人物しか『空間移動』はできないと言っていた。そう考えると、マテウスがどれほど希少な能力の持ち主なのかがわかる。
「さあ、時間が無い。急いで覚えて!」
「はい!」
急かされるままにその数字を必死で覚えると、マテウスに合図をして目を瞑った。
(7025369、7025369、7025369…)
何度も何度も、頭の中でその七つの数字を読み上げていく。すると次第に瞼に当たっていたはずの光が消えていき、すぐに目の前は真っ暗になっていった。
何分経過したのだろう。エステルはふと自分の周りがとても明るくなっていることに気付き、恐る恐る目を開けた。
「眩しい…」
先ほどの場所よりさらに明るいその場所に目が慣れず、エステルは再びギュッと目を瞑って眉を顰めた。
「そんなに強く目を閉じたら、目が痛くなってしまうよ?」
突然聞こえたその声に驚いたエステルは、後退りしながら勢いよく瞼を開いた。
「わっ、あ、あの!失礼いたしました!!」
そして開いた目に入ってきたのは、メルナと同じ金色の髪と薄い紫色の瞳を持つ、逞しい体の男性だった。
彼は優しい笑顔をエステルに向けると、ゆっくりと歩み寄り、その低く柔らかな声で言った。
「やっと再会できた…エステリーナ。」
「え?」
男性の言葉の意味がわからず困惑していると、彼は少し寂しそうな笑顔を見せた。
「君は覚えていないのだろうが、実は私達は幼い頃何度か遊んだことがあるんだよ。」
エステルは必死で記憶を手繰り寄せようとしてみたが、金髪の男の子と遊んだ記憶など一つも思い出せない。
「あの、別の方とお間違えでは…」
小さな声でそう言うと、男性は大きく首を振った。
「いや、間違いなく君だよ。私達はこのメルの別荘で出会ったんだ。」
「あ…確かにここ、見覚えが…」
そう言われて初めて周囲に目を向けたエステルは、そこがメルナの別荘の中に設られた子供用の遊び部屋だったことに、ようやく気付いた。
(そうだわ、私以前何度かここに来て、メルナとお人形遊びをしたんだった!でも男の子と遊んだ記憶なんて…あれ、そういえば黒い髪の女の子だったら…)
「君の考えていることを当てようか?『黒髪の可愛い女の子となら遊んだ記憶があるのに』?」
「は、はい。確かその時その子はメルナの従姉妹だって…え、もしかして!?」
男性は嬉しそうに大きく頷くと、驚きすぎて顎が外れそうなほど大きな口を開けたエステルを見て噴き出した。
「ぶふっ…おっと、笑ったりしてすまない!でも今の驚いた顔、とても可愛らしかったよ。さあ、とにかく再会を祝して、今から夕食でもどうかな?」
「は、はい…」
まだ頭の中は若干混乱していたが、エステルはとにかく同居人と仲良くならなければと、その食事の誘いをありがたく受けることに決めた。