81. 近付いて離れて
《聖道暦1112年6月30日》
雨が止んだ後の澄んだ空気が辺りを包み、鳥の囀りや葉からこぼれ落ちる水滴の音までもがその爽やかな朝を彩っている。
「エステル、支度はできた?」
待ちきれないと言いたげなアランタリアの表情を見ながら、エステルも笑顔を見せる。
「ええ。エマ、昼食は私が持っていくから、こっちの袋を持っていてね。」
そう言って大きく膨らんだ袋をエマに手渡すと、思っていたより軽かったのか、彼女は不自然な動きでそれを受け取った。
「軽いっ!?…まあ、エステリーナ様、もしかしてそのバスケットの方が重いのでは?さあ、そちらも私に任せてください!エステリーナ様に持たせるなんて」
「エマ、いいよ。そっちは俺が持つから。ほらエステル、それを貸して。」
「でも…」
結局優しく奪い取られてしまったバスケットを恨めしそうに見つめていると、エマが嬉しそうに微笑み、その柔らかく大きな袋でエステルの背中を押した。
「さあ行きましょう。今日は私がしっかりとお二人をお守りしますから、今日はゆっくりと楽しんでくださいね!」
「エマ、ありがとう。でも今日はエマも一緒に三人で楽しむのよ?」
「いいのですか!?ありがとうございます!では、ご一緒させてください!」
いつも当たり前のように守ってくれているエマに今日くらいは何かお返しがしたいと、エステルは早朝から張り切って厨房に立った。
メルナの屋敷の料理長から使用する許可はもらっていたので、ウキウキしながらサンドイッチを作り、丁寧に淹れた冷たいお茶もたくさん瓶に詰めた。
窓の外にはすっかり日も出て、朝から暑くなりそうな空が広がっている。執事のレイクに氷をたくさん出してもらい、それを丈夫な皮袋に入れてバスケットに放り込んだので、温くなる心配もなさそうだ。
「うん、これで暑くても大丈夫そうね!」
今から三人が向かうのは帝都で最も大きな公園だ。緑豊かで広々とした芝生の広場や、子ども達が遊べるような可愛らしい遊具もたくさんあるらしい。今日はその公園で屋外昼食会をしないかと、昨夜アランタリアから提案があったのだ。
エステルが「行きたいけれど…」と渋っていると、彼はエマも誘ってみたらどうかと言ってくれた。二人っきりでの外出には抵抗があったが、エマも一緒なら安心だ。
もちろん以前の彼と違い、今のアランタリアはとても紳士的にエステルに接してくれている。だがまだ心のどこかで「ラトに疑われるようなことはしたくない」などと考えてしまう。
(昨日のこともまだラトさんと話せていないし…)
離れていた心の距離を縮めるためにも、今は英気を養っておきたい。勇気を出して、ラトに向き合いたい。
そんな思いに耽っていたエステルを、目の前の二人が早く早くと手招きしている。
「待って!」
(とにかく今日は楽しまないと、ね!)
眩しい日差しを手で遮りながら、エステルは二人の元へ駆けて行った。
ー ー ー
ラトはこの日、憂鬱な気持ちで目が覚めた。
前日見てしまった光景が、今も頭から離れない。
「あんな見え透いた手…どうせふりだけだろ?」
メルナの屋敷の玄関先で昨夜目撃したのは、エステルの顔にまるで唇を近付けたようなアランタリアの姿だった。
あれがキスでないことなど重々承知だ。だがそれでも、愛する女性に触れている男に腹が立たない訳がない。
「それとも、エステルはああいう男がいいのか?」
最近のエステルの対応を見る限りでは、ラトに気持ちを残しているなどとはとても言えない。むしろ自分が突き放すようなことを言った後にあの男がエステルを慰め、距離を縮めていたとしても決しておかしくはない。
「あーっ、もう!くだらないことを考えるな!!」
言っていて悲しくなるな、などと思いながら身支度を済ませて外に出る。
この日ラトは、久々にメルナに呼び出されていた。
「屋敷はまずいからここに来て」
数日前そう言われて手渡されたのは、行ったことのない地域の住所だった。
ありがたいことにどうにか宿から歩ける距離ではあったため、強くなってきた日差しを建物の影を使ってうまく避けながらそこに向かっていった。
そうして三十分ほど歩いて辿り着いたその場所は、至って普通の一軒家だった。この辺りは平民が暮らす住宅街のようで、派手さはないが、日々の暮らしを十分支えてくれそうな活気のある商店街や広々とした公園なども近くにあるようだ。
「…入るか。」
気乗りはしないが、メルナは拗れてしまったエステルとの関係を修復するために手を貸してくれた大恩人だ。その恩はしっかりと返さなければならない。
ラトは軽く頭を振ってから、その質素な木のドアをノックした。
― ― ―
「わあ!広いわね!」
公園の中に入ると、三人はまずなだらかな起伏のある芝生の広場に出た。そこは高い木々に囲まれていて、周囲には涼めそうな良い木陰がたくさんある。その中でも特に座り心地の良さそうな場所を探し、そこを昼食会の場所にしようと決めた。
エステルは持っていた袋を開くと、中から地面に敷くための防水布と、いくつかの小さなクッションを取り出した。
「ははは!まさかあなたがそんな物を準備していたとは思わなかったよ!快適に過ごすことに一生懸命過ぎないかい?」
アランタリアがそう言って再び楽しそうに笑う。むう、と拗ねた顔をしてみるが、効果は無いようだ。
「ええ、ええ、そうですよ!だって今日はどうしても、エマとアランと気持ちよく休日を過ごしたかったんですもの!」
「まあ、エステリーナ様ったら…」
エマはうるうると目を潤ませ、アランタリアは優しく微笑んだ。昔はあんなに無表情だったのに、とエステルは数ヶ月前のことを懐かしく思う。
「さあ、始めようか。」
「ええ!」
そうして三人は最高の天気に恵まれた素晴らしい公園の中で、小さな小さな昼食会を始めていった。
あれほど眩しかった日の光が少し柔らかな色に変わってきた頃、エステル達は楽しかった時間を惜しみながら片付けを始めていった。
クッションは凹み、下に敷いていた布も草が付いて汚れてしまったけれど、そんなことは全く気にならないくらい最高の一日だった。
荷物を抱え、三人で迎えの馬車が待っている場所へと歩く。だがその途中、エステルは飲み終わった後の瓶を置いてきてしまったことに気付いた。
そして荷物を持つ二人に「先に行っていて」と声をかけ、先ほどの場所に戻った。
瓶を拾い、二人の後を追う。
だがエステルはそこで、その日の楽しかった気分が台無しになるような光景を目撃した。
ベンチに座る男女。女性の方が男性の手を上からしっかりと握り、目を瞑っている。男性の方はそれに抗うでもなく、静かに隣に座っていた。
「どうしてラトさんとシルフィさんが…」
何をしているのかはわからない。だが二人が手を繋いでいるのは、間違いない。
エステルが太い木に隠れてしばらく様子を窺っていると、シルフィは目を開けてラトに何かを呟いた。それを聞いた彼は首を傾げてはいたが、手を離す素振りは見られない。
(こんなこともうやめよう。シルフィさんはしっかりとした女性だし、悪い人じゃない。サーシャさんの時みたいに探りを入れているわけじゃないなら、きっと二人は……。それに、ラトさんが誰と手を繋いでいようと、私にはもう、関係ない)
エステルは持っていた瓶を強く握りしめると、足音を立てないように注意しながらその場を離れた。
― ― ―
メルナの話は、ラトの心を大きく揺さぶるものだった。
「あなたに、もう一度帝国軍に戻ってきて欲しいの。」
ラトはこれを即座に断った。だがメルナは簡単には引き下がらない。
「あなたが戻りたくない理由はわかっているわ。……リリアーヌに、あなたが率いていた特殊部隊が全滅させられたからよね?」
ラトは怒りの感情を内に秘めたまま黙って目を逸らしたが、メルナはその雰囲気にも怯まずに続ける。
「その事件のことは確かに一般には知られていない。でも帝国管理の禁書庫には、あの魔獣戦争についての詳細な記録が全て残されているの。」
「…」
確かに以前、ラトはメルナにその正体をあっさり見抜かれていた上に、リリアーヌとのことも知られていた。その話を聞いても素直に頷くことができずに黙っていると、メルナは静かにこう続けた。
「エステリーナを本当に守るためには、『開くもの』、つまり魔人達との決着をつけるしかないのよ。『閉じるもの』としての契約をしてほしい、なんて言うつもりはないわ。このことはあくまでも、私とあなたとの信頼関係に頼ってお願いするしかないと思っている。」
(信頼関係、ねえ…)
ラトは無言のまま、壁に向けていた視線をメルナに戻す。
「もし軍に戻るのが嫌なら外部顧問という形でも構わないわ。あなたが四十年前に育てた特殊部隊がどれだけ優秀だったか私は知っている。今はあの時ほど実力がある部隊はまだ無いの。だからせめて、特殊部隊を育て上げるために力を貸して!」
メルナがここまで強く何かをお願いしてきたことはこれまで一度もなかった。その必死さから、現在の帝国がいかに追い込まれた状況なのかがわかる。
ラトは大きくため息をつくと、腕を組み、目を瞑って言った。
「わかった。だがエステルの護衛が第一優先。だからそれほど時間は取れない。それでもいいか?」
メルナのハッという息遣いが聞こえて目を開くと、彼女の嬉しそうな顔が見えた。
「実はね、エステリーナにはこれからしばらくの間とある仕事を依頼する予定なのよ。ある重要な人物を守るための儀式をしてもらいたいと思っているの。でもその場所は誰にも知らせることはできないし、建物の周辺にはむしろ注意を引くような人物を置きたくないの。兵士一人も置くつもりはない。」
「なるほど。つまり対象者はよほどの人物、ということだな。」
「ええ。『契約』能力を応用して、その人物の居場所は絶対に漏れないようにする予定なの。だから護衛は要らない。」
ラトはテーブルの上に置かれた自分の右手にぼんやりと目をやると、その中指でトントンとそこを叩いた。
「だからその間に、俺に指導をしてほしいと?」
メルナはゆっくりと頷き、微笑んだ。
「指導だけじゃないわ。人選も任せる。あなたの実力を見せれば、きっと我こそはという実力者が集まるはずよ。」
「はあ、また面倒なことを…」
「あら、私がせっかくあなたをエステリーナの護衛に」
「やらせていただきます。」
「ふふふ!そうこなくちゃ!では、日程が決まったらお知らせするわね。」
「…はあ。」
惚れた弱みを本人ではなくその友人に握られてしまうなんてと嘆きながら、ラトは重たい足取りで帰路についた。
そしてその帰り道、予想もしなかった人物と出会した。
「ラトさん!」
「え、シルフィさん?どうしてこんな場所に…」
ラトを後ろから呼びとめたのは、研究所で知り合ったシルフィという女性研究員だった。
「実はこの先の住宅街に、知り合いの女性が住んでいるんです。ラトさんはどちらに?」
「あー、まあ、俺もそんな感じです。」
適当に話を合わせて早く帰ろうなどと思っていると、シルフィが唐突にラトに頭を下げた。
「あの!お願いがあるんです!!」
「え、はい?ちょっと、落ち着いてください!」
何事かと焦ったラトに、シルフィは勢いよく顔を上げて言った。
「あなたの能力の発動、研究所だとかなり抑えてもらってますよね?でも本当はもっと強く発動した状態を確かめたいんです!よければ今、観察させてはもらえませんか!?」
「ええ…?」
突然のことに困惑したラトだったが、彼女の必死さに負けて「一回だけなら」と渋々了承した。
だがこの決断が、少しずつ近付いていたエステルとの距離を再び遠ざけてしまうことを、この時のラトはまだ知らなかった。