79. 雨宿り②
店内に入ると、そこには異様な光景が広がっていた。
細い杭のようなものがあたり一面に打ち付けられており、本来であれば綺麗に陳列されているはずの帽子達が床に散乱するか、もしくはその杭のようなものに貫かれている。
エステルはふと気になって先ほど吹き飛んだドアを見てみると、そのドアにも、短く細い杭が何十本も刺さっていた。
ゾッとして前を向くと、あの耳に残る奇声が今度は奥の部屋から聞こえてくる。ラトに目配せをして先へ進むと、ひんやりとした空気の向こうに氷漬けとなった部屋が見えてきた。
「おっと!」
その瞬間、ヒュウと音を立てて、氷の玉がいくつもこちらを目掛けて飛んできた。ラトは能力を使って素早くその動きを止めると、さらに中へと進む。
エステルも彼を追って部屋の中に入ると、先ほどから聞こえていたあの奇声を発している女性の姿があった。店員や他の客の姿はない。裏口が開け放たれているので、おそらく彼らはそこから避難したのだろう。
奇声を発し続けているその女性は、床にべったりと座り、目からは黒い涙が流れている。貴族の女性なのだろうか、黄色いドレスも帽子もアクセサリーも、身につけているものはどれも高級品のようだ。だがそのほとんどが破れたり壊れたりしているようで、ここで相当暴れたことが見てとれた。
「あ、首筋にあの線が…」
「危ない!!」
黄色いドレスの女性は首だけをエステルの方に向けると、手を振ってあの杭のようなものを何本も生み出して投げつけてくる。
ラトがエステルを抱きかかえるように避けてくれたので難を逃れたが、もし一歩でも動きが遅れていたら、今頃体中にあの杭が突き刺さっていただろう。
エステルは寝不足で回らない頭を必死に奮い起こし、持ち歩いている例の精霊道具入れから『拘束の木』を取り出した。ところがそれすらも、再び投げつけてきた杭によりあっさりと吹き飛ばされてしまう。
だがラトはその隙に彼女の視界の外に回り込み、額に手を当てて何かを呟いた。
その瞬間、まるですぐ近くに雷が落ちたかのような衝撃と音が鳴り響き、部屋全体が強烈な青い光に包まれた後、ドサッという音がエステルの耳に届いた。
そして、すっと音が消えた。
数十秒後。その静けさは、ぴちゃっ、ぴちゃっという水音に占拠され、呆然としていたエステルの意識もはっきりしていく。
今の閃光で眩んでいた目もようやく元に戻り、パッと瞼を開いた。
「あ…」
しかし目の前にはラトの背中があり、女性の姿は見えなかった。
(もしかしてラトさん、私の盾になってくれていたの?)
胸に押し寄せる彼への想いに狼狽えながら、目を擦って彼の横から女性の様子を確認してみる。ラトもエステルのその動きに気付いたのか、顔を動かしてこう言った。
「エステル、今彼女は気絶している。今のうちに例のあれ、試してみてもらえないか?」
彼の目の色は少し濃くなっていたが、今回は心配するほどではなさそうだ。エステルはラトの状態に問題がないことを確かめて安堵すると、「わかったわ」と言って倒れている女性に近付いた。
そして、最近経典で学んだばかりの『祈り』を口にする。
「名もなき神よ、リナンの巫女、エステリカ・イーファが祈ります。苦しむあなたの民を、どうかあるべき姿へと導きたまえ……」
覚えたばかりの文言にはまだ続きがあり、エステルはそれを口ずさみながらそこに思いを込めた。
(どうかこの女性が以前の元気な姿を取り戻せますように…)
すると以前感じたものよりも少し強い風がその場に巻き起こり、女性の周囲が白く光ったかと思うと、風と同時にその光も弱まり消えていった。
ほっとしてふと部屋を見渡すと、あれほど凍りついていた部屋の壁も床もすっかり溶けて、床は水浸しになっていた。そんな床の上でまるで昼寝でもするかのようにスウスウと寝息を立てている女性の首筋には、もうあの悍ましい赤紫色の線は一本も残ってはいなかった。
「終わったか。エステル、怪我は?」
ラトはその場から動かず、視線だけでエステルの返事を待っている。
「大丈夫。ラトさんは、平気?」
心配してもらえるなんて思ってもみなかった、という表情を見せた彼は、少しだけ苦しげな笑みを浮かべるとゆっくりと首を横に振った。
その数分後、この店には大勢の兵士達が騒ぎを聞きつけてやってきたため、戻ってきた店主や店員達、そしてラトが事情を説明することになった。
騒動が騒動なので調書を取るのに時間が掛かるらしく、エステルはラトと店主に了承をもらい、店の裏手にある屋根付きの荷物置き場で休ませてもらうことにした。
そこには壁はなく、太い柱が大きな屋根を支えているだけの開放的な場所だった。荷物置き場といっても大事なものは何もなく、荷運び用の台車のようなものや、大きな木箱などが置かれていた。
「疲れた…それに、眠い……」
ここ数日の寝不足がピークに達したのだろう。エステルの瞼は「もう開けたくない」と我儘を言い、濡れた体は襲いくる眠気をさらに後押しする。
大きな木箱の上にどうにか腰を据えると、頭を柱の一つにもたれかけるようにして目を瞑る。
(ラトさん、来てくれたんだ…もっと、話してから…眠る…)
だがそこでエステルの意識は、ぷつりと切れてしまった。
― ― ―
「あれ、エステル?……寝てるのか。」
兵士達に事情を説明し終えて外に出たラトは、エステルが木箱の上で器用に眠っている姿を見て苦笑していた。
「疲れていたんだな。しかもこんなに濡れて…」
軽く額を指で叩いて手を動かすと、水を操る能力を使い、エステルの体を覆うように付着していた水分のほとんどを取り除いた。そして無意識にその柔らかそうな頬に触れようとして、必死で思いとどまる。
(駄目だ。勝手に触れるのはやめると決めただろ!)
伸ばした手を戻してぎゅっと握りしめると、ラトは首を軽く傾げながらエステルの寝顔をじっと見つめた。
「可愛いな…でも、少し痩せたか?」
こんなに愛おしいと思える存在は他にはいない。リリアーヌとの間にも確かに胸を焦がすような感情はあった。だがそれは、エステルを想う時の切なくて愛おしくて、ただ見ているだけでも幸せな気持ちになる感覚とは全く違うものだった。
(たとえこの手で触れられなくても、それでも、君が大切なんだ)
ラトがそんな風に自分の感情と向き合っていると、エステルの頭が寄りかかっていた柱からずれ始める。このままでは頭を打ってしまうかもと、ラトは慌てて手を差し伸べた。
予想よりもずしっと重いその頭の感覚は、まるで彼女の命の重さのように、ラトの手のひらにぐっとのしかかる。しかしそれは決して嫌な感覚ではなく、むしろこの大切な命を守り抜きたいという決意の重さとして、ラトの胸に刻み込まれた。
手のひらで優しく彼女の頭を支えながら、音を立てないようにそっと横に座る。本当は抱きしめて腕の中で寝かせてあげたいと思うが、当然それは叶わない。
どうしようかと少し考えてから、ラトは器用に体勢を変え、エステルの頭を自分の右腕に寄りかかるように移動させた。
多少苦しい体勢になったが、それも今は心地良い。
「なあエステル、早く、晴れると良いな。」
ラトは一度だけ優しく彼女の髪に触れると前を向き、弱くなり始めた雨を見つめた。
眠気を誘う柔らかなその雨音の中で、今この瞬間だけはエステルの一番近くにいる。奇跡のように幸せなその時間を、ラトはしみじみと噛み締めていた。
― ― ―
《聖道暦1112年6月29日夜》
エステルが目を覚ましたのは、なぜか見慣れた馬車の中だった。
外はもうすっかり暗くなっており、どの辺りを走っているのかすらわからない。
「確かあのお店の裏で眠くなって…」
そこまでの記憶は何とか思い出せたが、その先に何があったのかは全く覚えていない。
(あ、もしかして、ラトさんが私を馬車まで運んでくれたのかしら?)
そうだとしたら嬉しいと、素直に今はそう思える。
「明日聞いてみよう、かな。」
こちらから歩み寄ることが正解なのかはまだわからない。それでも何もしないでただ悩み続けるのはもう嫌だと、心が強く主張している。
エステルはゴトゴトと揺れる音を全身で受けとめながら、二人の間の何かが少しだけ前に進み始めているような、そんな予感を感じていた。