⒎ 虫
《聖道暦1112年3月10日》
エステル達は前日の午後にハイミラの町を出発し、あの屋根のない壊れかけの馬車に三人で揺られながら、夕方遅くに隣町の『アンセラ』に無事到着した。
神官ゲルトとはそこで別れる予定だったのだが、彼の友人だという人の強い勧めで、その日はゲルトと共にその人の家に宿泊することとなった。
そして翌朝、朝食までご馳走になりすっかり寛いでしまったエステル達は、またあの馬車の旅に出るのかと憂鬱な気分を感じながら、その家を後にした。
ラトによると、どうもここから先はしばらく町らしい町は通らないとのこと。それなら再び始まる野営の日々にしっかり備えなければと、エステルは張り切って買い物に出かけた。服やテントなどが入っている大きな鞄は、馬車を預けた店で一緒に預かってもらうことにした。
アンセラの町は一つ前のハイミラとは雰囲気がだいぶ異なり、様々な工場が立ち並ぶ不思議な活気のある町だった。
この町で暮らす住民達のほとんどがどこかの工場で働いているようで、道ですれ違う人々の多くが、動きやすい作業着のような服装で歩いている。
中心地に並ぶ店も、持ち帰りできそうな食べ物を売っている店や、工場で使いそうな道具などを扱っている店が多かった。
だいぶ町の中を歩き回って空腹に襲われたエステルは、後ろを歩いているラトに声を掛け、近くのパン屋に立ち寄った。
(ここで買い物をしたらそろそろ町を出ないと…)
だが、午後からの予定をぼんやりと想像しながら買い物を済ませ店の外に出たところで、揉め事が発生している場面に鉢合わせてしまった。
「ちょっと!見なさいよこれ!このパンの袋の中に虫が入っていたのよ!?こんなもの食べられるわけないじゃないの!!ほら、早く交換して!お金も返せ!!」
「お、お客様、ちょっと落ち着いてください!」
どうやらこの店で購入したパンの袋の中に虫が混入していたらしい。困り果てている男性店員に向かって大声で叫び、怒り狂っているその大柄な女性は、片手でパンの袋を持ち、もう片方の手で幼い男の子の手を握りしめていた。そのことに気付いたエステルがふと男の子の方を見てみると、ゾッとするほど感情の無い痩せこけた顔がそこにあった。
(え…何かしらあの表情?しかも痩せすぎでは?何だかとても嫌な感じが…)
そんなことを考えている間にさらに激昂したその女性は、突然手に持っていた紙袋を逆さまにして、勢いよく中身のパンを地面にぶちまけた。
三個ほどのパンと、その横にコロンと転がっていく小さな黒い点。目を凝らしてよく見てみると、それは真っ黒な体と羽を持ち、その羽に赤い斑点を散らす、見たこともない虫だった。
「ほらっ!これよこれ!!こんな気持ちの悪い虫…あっ、ちょっとお前、そんなものに触るんじゃないよ!?」
母親らしき女性がそう止めたのも無理はない。先ほどまで手を繋いでいたあの痩せた男の子がその手を離れ、地面に転がった黒い虫に手を伸ばしていたからだ。
そしてそれは、突然始まった。
死んだように見えていたその虫がブブブブブと羽音を立てて動き出し、次の瞬間にはそこから湧き出るかのように同じ虫が急激に増殖し始めたのだ。
「な、何あれ!?」
「エステル、下がってろ。」
それまで静かに見守っていたはずのラトが、気が付いた時にはエステルの前に立っていた。そしてその手で少し後ろに押し返され、エステルは彼の体の隙間から状況を探る。
だがその間にも容赦なく虫は増え続け、その恐ろしい出来事に遭遇した例の女性は、「ぎゃー!!」という身も凍るような叫び声を上げながら逃げ回り始めた。
周囲の人々もその異常な状況に気付いたようで、大量の黒い虫が辺りを飛び交い、一人の女性を集中的に襲っている様子に、辺りはすぐに大混乱となっていった。しかも一部の虫達は他の人にも襲いかかるようになり、あちらこちらから「痛い!!」「うわあっ!?」と言った叫び声も飛び交い始めた。
辺りが阿鼻叫喚の状況となっていく中、人々はその大量に沸いた虫を能力を使って火で追い払ったり、風で吹き飛ばしたりもしていたが、ほとんど効果は無かった。
その時エステルはふと思い立ち、腰の袋の中からラトに貰ったあのブローチを取り出した。そしてそれを口元に当て、急いで集中を始める。
すると白い石の部分から徐々に光が生まれ、それはさらに強くなり、最後には目を開けていられないほどの強い光となって辺りを照らしだした。
「エステル!!」
黒い虫をその光で自分の方に引きつけようという意図でやってみた行動だったが、それはむしろ彼らの忌避する光だったらしい。
ラトの声で目を開けたエステルが見たものは、空高く舞い上がって薄れゆく、黒いモヤのようなものだった。
「もういい。それは早くしまうんだ。」
「え、ええ。あ、あの子と女性は!?」
エステルが慌てて女性の方を確認すると、彼女は地面に倒れ、顔や腕など肌が露出した部分が真っ赤に腫れ上がっていた。だが不思議なことにその隣にしゃがみ込んでいる男の子の方は全くの無傷だった。
とにかく彼女を助け起こそうと近寄ると、周りにいた人達もエステルに手を貸してくれた。ラトがそれを遮るように女性を抱え上げると、突然の虫の襲撃で負傷している数人の住民達に案内されながら近くの診療所へと駆け込む。
彼女を医者に任せて待合室のような場所で待っていると、ラトが静かにエステルの横に座り、穏やかな声で話しかけた。
「エステル、大丈夫か?」
「…ええ。ちょっと疲れただけ。ラトさん、今日はもう休んでください。護衛の仕事、今日の報酬分はとっくに終わってるでしょう?」
自分が今明らかに嫌なことを言っているとエステルは自覚していた。それでも今はどうしても、心の中に溜まった何かを、どこかにぶつけずにはいられなかった。
ラトはそんなエステルの気持ちを汲み取ったのか、黙って肩にそっと手を置くと、そのまま立ち上がってそこを離れていった。
どれほど時間が経っただろうか。しばらくしてあの女性が入っていった病室から、二人ほど医師の助手らしき女性達が出てくるのが見えた。そのうちの一人はあの無表情の男の子と一緒に待合室の方へと歩いてくる。
エステルは思わずその子に近寄ると、少し屈んでから優しく話しかけた。
「大丈夫?痛いところはない?」
男の子は黙ったまま頷き、隣に立つ女性は不安そうにその様子を見つめている。エステルはここでこれ以上の話を聞くのはまずいと思い、そのまま彼女が男の子を連れてそこを離れていくのを見送ると、もう一人の女性の方に声をかけた。
「あの、先ほどの女性は…」
すると彼女は口をキュッと結び、ゆっくりと首を横に振った。その意味を理解したエステルはただ小さく頭を下げて待合室の椅子に戻った。
(こんなことに遭遇してしまうなんて…)
何とも言えない複雑で暗い気持ちがエステルを覆っていく。自分が結局何もできなかった事実も、さらに重く心にのしかかっていく。
その後誰も居なくなるまでそこに座っていたエステルは、夕日が沈みかけていることに気付き、ようやく腰を上げ動き出した。
(ラトさん、どこに行ったのかしら…ううん、今日はこちらから突き放しちゃったんだもの、探しても仕方ないわ。今夜は町の外まで行ってテントで寝よう)
結局気持ちの切り替えがうまくいかなかったエステルは、宿を探すことも諦め、馬車を預けた例の店へと重い足を引き摺るように戻っていった。
「お、帰ってきたか。」
「ラトさん?」
だいぶ空が暗くなってきた頃、エステルが荷物を預けた店に到着すると、その入り口でラトが腕を組んで待っていた。
「今日はどうせテントで寝ようと思ってたんだろ?準備してあるから行くぞ。」
どうやらラトには全てお見通しだったらしい。エステルはなぜかそれが心地良くて、ふっと微笑んだ。
「ラトさんてやっぱり、護衛以外のことはちゃんとしてくれるんですね?」
彼の後ろを歩きながらそんな風に茶化していると、ラトは足を止めエステルの頭に手を置いて言った。
「ほら、もういいから行くぞ。うまい飯、作ってやるから。」
「…はい。」
人に頼ることはあっても甘えることの苦手なエステルは、何だかとても彼に甘やかされている気がして、あのずっしりと重かった心が少しだけ軽くなっていくのを感じていた。