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78. 雨宿り①

 《聖道暦1112年6月22日》


 弱い雨の日が続いている帝都では、色とりどりの傘で忙しなく歩く人達だけが、そのモノクロームの景色に彩りを添えている。


 エステルは数日前にメルナの婚約者であるマテウスと知り合い、それ以降毎日のように彼の職場である『帝国特殊能力研究所』に通っている。


 目的は主に三つ。


 一つ、翻訳する前の経典をできるだけ古いリナン語のまま読むこと。


 二つ、翻訳後の経典をエステルが使う言語で読むこと。


 三つ、その効果をそれぞれに確認すること。


 これらは研究する環境が整っている場所で確かめるのがいいだろうと、メルナとマテウスに許可証をもらいここに通ってきている。


 当然ながら、護衛にはラトがついている。


 ただ以前と違うのは、彼は必ず少し離れた場所から警護してくれているという点だ。


 (ラトさんは一体どんな気持ちで引き受けてくれたんだろう…)


 彼があの船の上で言おうとしていたことは、きっとあの日、エステルとの関係を解消すると言った言葉についての話だろう。だがそれが謝罪なのか、それともさらに突き放すようなことを言われるのかあの時は判断がつかず、つい冷たくあしらってしまった。


 (逃げないでもう一度向き合っていたら、何かが変わっていたのかしら?)


 メルナは言う。「あの人は長い時間生きてきたかもしれないけれど、人と深く関わってきた時間はそう長くはないのよ。むしろ若い頃はあまり人と触れ合わない生活をしていたようだから、意外と不器用な人なんじゃないかしら」と。


 それはきっとそうなのだろう。彼の生い立ちを考えれば確かにあり得そうな話だ。


 そして自分自身もまた彼と同様に、不器用な人間なのかもしれない。


 「はあ、考えても仕方がないわ。今は目の前のことに集中しましょう。」


 その独り言で無理やり気持ちを切り替えたエステルは、小さいが快適な乗り心地のメルナの家の馬車に揺られながら、いつものように研究所へと向かっていった。




 研究所に入ると、いつものようにガヤガヤと人が話し合う声が聞こえてきた。ここの研究員達は皆どこかの貴族出身らしく、品があって身なりもいいが、自分達の研究に没頭しがちな性格の人ばかりのようで、常にどこかの部屋で激論が交わされていた。


 「あー、またやってるよ。シルフィさん、相変わらず強気だねえ。」

 「おはようございます、マテウスさん。」

 「ああ、おはよう。ラトさんも。」

 「おはようございます。」


 珍しく近い場所にいたラトに驚き、エステルは目を見開いて振り返った。彼は「今日は中に来るようにと言われたから」と、言い訳のようにそう呟く。


 二人の間の微妙な空気に気付いたのか、マテウスは笑顔を見せるとエステルに手で合図をする。


 「ほら、今日はあの部屋に入って。いつもと違うことがしたいからね。ああ、ちょっと準備をしてくるから、ラトさんも一緒に入って待っていてくれ。」


 エステル達が頷くと、彼は颯爽とその場を去っていく。二人はそれを見届けると黙って部屋の中に入った。


 静まり返った室内のせいか、それとも思っていたより狭い空間だったからか、エステルは入って早々に落ち着かない気持ちになっていた。


 以前なら簡単に手の届くところにいた彼が、今は誰よりも遠い場所にいる。それでも、同じ空間にいられるだけで心は浮き立つ。


 (こんな状況になってまで、一緒にいるのが嬉しいだなんて、私どうかしている…)


 近くに彼の気配を感じる。そんな些細なことで鼓動は早まる。だが彼はエステルのそんな気持ちなど当然知る由もなく、近寄ったら嫌がられるだろうと思っているのか、ドアの近くに立ったままだった。


 そんな気まずい空気を打ち破るように、マテウスは大量の資料を抱え、意気揚々と部屋に入ってきた。その後ろには眼鏡を掛け髪をキュッときつめに纏めた女性が立っている。


 「やあ、お待たせしたね!さて、今日はいよいよ実践編だ。これまでにわかったことを元に、エステリーナさんにはいくつか試してもらいたいことがある。ああ、それとこちらはシルフィ・ルスコ研究員だ。今回私の助手をしてもらう。シルフィさん、エステリーナ嬢のことは知っているね?」

 「はい。存じ上げております。」

 「よろしくお願いします、シルフィさん。」

 「はい。」


 (真面目で大人しそうな方ね。でもさっきあちらで強い口調で話していたのはこの人だったような…)


 二面性があるのかしらと不思議に思っていると、マテウスはラトのことも紹介する。するとシルフィはなぜかビクッと体を震わせてから硬直したように動かなくなった。


 (頬が赤い…え、そういうこと?)


 だがもしシルフィがラトの容姿に見惚れてしまったのだとしても、今のエステルにできることは何もない。ラトとの間にはもう、護衛と護衛対象という事務的な関係しか残されていないのだ。


 心の中に湧き上がる不快感をぐっと奥に押し込んで、エステルは「始めましょうか!」と明るく宣言し、マテウスの指示通りに動き始めた。



 「実践編」と言われたその実験内容は至って単純なものだった。


 ラトの能力の高さと数の多さを活かし、彼が発動した能力をマテウスが受けとめてシルフィが計測、観察する。そして次に、エステルが各能力の発動前に『祈り』を捧げた場合にはどう違いがあるのかを調べていく、というものだ。


 シルフィは研究者としても優秀だが、彼女自身も身体の変化を読み取る特殊能力を持っているらしく、感覚的にもその違いを観察できるからと、今回の助手に抜擢されたらしい。


 

 初日は多少の効果があったとシルフィは報告してくれたが、まだその力は未知数だとマテウスは語っていた。


 そうしてこの実験は、この日から一週間ほど続いた。




 《聖道暦1112年6月29日》


 ここ数日は少し晴れていたのに、この日は朝から大雨が降っていた。


 最近寝不足気味のエステルは、いつものように一人で馬車に乗り、重い頭を横の壁にもたれかけながら研究所へと向かっていた。


 (シルフィさん、ラトさんとかなり仲良くしていたよね…)


 この一週間、ほぼ四人で過ごしていたせいか、エステルはマテウスともシルフィともだいぶ打ち解けてきていた。それと同時にシルフィとラトの仲も少しずつ深まっているように思えた。


 シルフィは、あれから時々ラトと二人で資料を運んだり、休憩時に積極的に話しかけていたりと、どんどん彼との接点を作ろうと行動しているようだ。


 対してラトの方は何も気にしていないのか、シルフィにもマテウスにも同じような態度で接しながら淡々と日々を過ごしている。


 だがエステルの気持ちは複雑だった。


 (二人の間に何もないとわかっていても、嫌なものは嫌。でも今の私は、二人に何か言える立場じゃない)


 キリキリと締め付けられるような胸の痛みは、結局その日の実験が終わるまでずっと続いていた。



 その日の帰り道。


 研究所の外に出ると、雨だけでなく風も強まっていた。傘は役に立たなそうだと入り口で立ち止まっていると、後ろから研究員の一人がやってきてエステルを呼びとめた。


 「エステリーナさん、お伝えするのを忘れていました!実は先ほどメルリアン様から連絡があって、馬車が故障してしまったためお迎えが遅くなりそう、とのことです!」


 連絡、というのはおそらく、帝国内の上層部でだけやり取りのできる『空間移動』を使って届いたものだろう。ザビナムでコウが持っていたあの能力だ。


 (それならきっとすぐにはこちらに来られないわね…辻馬車を拾おうかしら?)


 空模様は思わしくないが、この辺りの店は時間的にも天候的にも閉店してしまっているようだ。


 嵐の中を歩くのは心許なかったが、エステルには早くここを離れたい理由があった。ふと気になって、研究所の方に目を向ける。


 (今もまだラトさんは、シルフィさんのお手伝いをしているはず。さっきはあんなに楽しそうに話していたし、シルフィさんは最近さらに綺麗になったし、もしかしたら…)


 嫌な想像が頭の中を駆け巡る。振り切っても振り切っても浮かんでしまうその無意味な考えに疲れ、エステルは傘も持たずに勢いよく道に飛び出した。



 雨は強かったが、時々屋根のある部分で雨宿りをして軽く水気を払いながら、大通りへと向かう。


 ところが通りに出る直前、小さな店舗の横を通りかかった瞬間にその店舗のドアが吹き飛び、エステルのいる方へと向かってきた。突然の出来事に反応が遅れ、腕で頭を防御して地面に伏せるが、このままでは避けられないと直感的に感じる。


 「…え?」


 ところが衝撃どころかドアが落ちる音すら聞こえない。恐る恐る顔を上げると、エステルの目の前には不自然に動きを止めたドアが、宙に浮いていた。


 「何、これ!?」


 すると唖然としているエステルの前でドアが急に動きだし、地面に大きな音を立てて落ちた。と同時に遠くから水音の混じった足音が聞こえ、無意識にその方向に目を向ける。


 「エステル!!」

 「ラトさん、どうして…」


 彼が自分の護衛だということなどすっかり頭から抜け落ちていたエステルは、ここにいないはずと思っていた彼が姿を現したことに心底驚いていた。


 「今のは危なかった…ほら、立てるか?」


 ラトの手が上から伸びてくる。彼の髪から滴る雨を見つめながら、思わずその手を掴んだ。


 「怪我は無いか?」


 ずぶ濡れになりながら立ち上がり頷くと、彼はほっとしたように、口元に一瞬だけ笑みを見せた。


 二人が手を繋いだままドアの吹き飛んだ店舗に目をやると、中からキイイイイ、という聞いたこともない奇声が漏れてくるのに気付いた。


 「エステル」


 ラトの視線が何かを待っている。


 「行ってもいいの?」


 ああ、どうしてこの人の笑顔はこんなに…


 「うん、いいよ。行こう。」


 その瞬間、心の中に蓄積されてきた澱みのようなものが一気に晴れていくのがわかった。エステルは黙って頷くと、まだ奇声が続くその店内に、ラトと共に足を踏み入れていった。


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