77. 帝国に迫る危機
《聖道暦1112年6月14日》
帝都の空はこの日、全体的に薄い雲がかかり、少し蒸し暑かった。ここを出発した時からだいぶ時が経ったことを、エステルは改めて実感している。
二時間ほど前に帝都の港に到着してから、エステルはまずローレンに会ってお礼を言い、ヒューイット、エマと共に食事を済ませた。
そして食事を終えるとすぐに、メルナの元へと向かう。
馬車から見える風景に、特に大きな変化はない。だがエステルは、以前とはどこか違う空気が流れているような印象を受けた。
(服装が違う?それとも人が少ないような気がするから?)
自分の中に生じた違和感の理由を何度も探ってみたが、結局メルナの屋敷に到着するまで、何一つ理由らしきものは見つからなかった。
その後メルナと感動の再会を果たしたエステルだったが、そこで、この一ヶ月ほどの間に帝都周辺で起きた出来事を知ることになる。
「えっ、そんなことが起きていたの!?」
エステルは持っていたカップからお茶をこぼしそうになり、慌ててそれをテーブルの上に置いた。メルナは苦笑しながら腕を組むと、先ほどまで話していた内容にさらに情報を付け加える。
「帝都、いえ、帝国やその周辺の国でも例の薬による暴動事件は度々起きているわ。まだ魔人化した人がいるという情報は入っていないけれど、貴族達のように能力が高い人は危険かもしれないわね。もちろん様々な対策は取っているけれど。」
沈痛な表情で深く背もたれに寄りかかるメルナを見て、エステルは自分の話をどう切り出そうかと悩んでいた。
だがそれを察したらしいメルナは、今度はソファーから身を乗り出して笑顔を向けた。
「まあ他にも色々あったけれど、一旦こちらの話は終了よ。帰ってきて早々にこんな嫌な話ばかりでごめんなさい!それで、あなたの方はどうだったの?」
「あー、うん、私も色々あったかな。」
そうしてエステルは、東の大陸で起きた出来事の全てを包み隠さずメルナに話した。旅の終わりにラトと再会し、本音をぶつけてしまったことも。
「そう、そんなことがあったの…辛かったわね。ねえ、まずラトさんのことだけれど、その話だと、今もあなたは彼のことを想っているということよね?」
そのまっすぐな問いかけにエステルは一瞬戸惑い、そして頷いた。メルナは無言の答えを噛み締めるように受けとめて続けた。
「でも、あの日の衝撃的な言葉に傷付いた心はまだ癒やされていない。それなのにラトさんが再び近付いてきて、あなたはどうしたらいいのかわからないのよね…きっと。」
最後はまるで自分に言い聞かせるようにそう呟いたメルナは、自分のお茶を一気に飲み干すと、そのカップを握りしめてこう言った。
「よし!そういう時は徹底的に別のことをやってみましょう?そうだわ、さっきのあなたのお母様の話を聞いてちょっと思いついたことがあるの!」
「えっ!?う、うん。あの、でもメルナ、そのカップはとりあえず一旦テーブルに置いてみたら?」
勢いよく立ち上がり、カップを振り上げて立つメルナを見上げると、エステルは恐る恐るそう提案してみる。メルナは頬を赤らめてそっとカップを置いた。
「あら、はしたなかったわね、ごめんなさい。とにかく、そのお母様が残してくれていた経典について調べてみましょう!古いリナン語を翻訳できる人なら一人当てがあるの。私に任せておいて!」
「さすがメルナね、ありがとう。」
「お礼なんていいの。さあ、ザビナムの話をもっと聞かせて!」
二人はここでようやく自然な笑顔を取り戻し、今度は長かった旅の楽しかった思い出だけを、メルナと共有していった。
《聖道暦1112年6月16日》
メルナの屋敷に滞在して二日目のことだった。
エステルはこの二日間思う存分のんびりと過ごせたことで、心身ともにすっかり元気を取り戻していた。
「はー、気持ちのいい天気ね!」
外に出て空を見上げる。昨日は曇りだったが、今日は朝から澄み渡った青空が広がっていて、風も爽やかだ。
庭の木々はさらに鮮やかさを増し、所々に植えられた花々がその美しさを競い合っている。エステルはそんな場所を緩やかに通り抜ける小径を歩きながら、自然と笑顔になっていた。
低木の茂みを通り抜けてテラスのある方に抜ける。いつもより三十分ほど遅い朝食をとろうとテラスのガラス戸に手をかけた時、誰かの気配を感じてゆっくりと振り返った。
「おはようございます。」
するとそこに立っていたのは、見たことのない黒髪の男性だった。
「お、おはようございます。ええと、私はこの家に滞在しておりますエステリーナ・ルー・クレイデンと申します。あの、お名前をお伺いしても?」
エステルは若干警戒しつつも、無闇に外部から入り込めないこの屋敷にいる人物に、さほど危険性は感じていなかった。男性は綺麗なその切長の目を細めて微笑むと、丁寧に自己紹介を始めた。
「初めまして。私はメルリアンの婚約者で、マテウス・ヨル・フランセスと申します。やあ、やっと会えたね!あなたの話はよくメルから聞いていたんだが、想像していたよりずっとお美しい。」
「ありがとうございます。」
社交辞令ということは百も承知だが、そうだとしてもその話し方にはとても品があり、こちらを良い気持ちにさせるのが上手な人だな、とエステルは感じた。
「さて、それで我が婚約者はもう起きているかな?何だか随分早い時間から呼び出されたんだけど、ここで待っていてと言われた時間から早二十分…」
「大変!!シーラ早く髪を…!?」
二人は同時に上を見上げ、開いている窓を確認する。
「…なるほど。」
「あはは…あ、そうだわ、朝食はお済みですか?私はこれからなんです。よければお待ちになっている間、ご一緒にいかがですか?」
おそらく寝坊してしまったのであろうメルナのために、エステルはにっこりと微笑み、助け舟を出した。
「ええ、ぜひ。」
こうして二人は最高の天気と朝食を堪能しながら、メルナの登場を待った。
二十分後。
いつもの余裕の表情などすっかり消し飛んだメルナが、申し訳なさそうにテラスにやってきた。
「マテウス、ごめんなさい!!昨夜は結構書類仕事が溜まっていて、寝坊してしまうなんて何年ぶりかしら…」
「メル、おはよう。あれ、いつもの挨拶のキスは?」
飄々とそう言い放つマテウスに、メルナが顔を赤くして睨む。
「私達普段そんなこと一切しないじゃない!もう!」
(なるほど、マテウスさんてこんな感じの方だったのね。それにしても、メルナがこんな風に動揺するなんて意外だったわ)
エステルがニヤニヤと二人のやり取りを眺めていると、マテウスは肩をすくめて立ち上がり、憤慨しているメルナの頬に軽いキスをすると、席に戻って足を組んだ。
「さて、言葉通り挨拶も済ませたところで、メル、早速話をしようか。」
自分が寝坊したことが原因なのでそれ以上強くは言えないのだろう。メルナは黙って頷くと、空いている席に座って話し始めた。
「だいぶお待たせしてしまったからすぐに本題に入るわね。エステリーナ、もうお互いに紹介は済んでいるかもしれないけれど、彼は私の婚約者であるマテウス・ヨル・フランセス。リリム王国の北部にある『リンドラル王国』の公爵家子息なの。今はもうこちらに定住していて、帝国内での重要な仕事に関わってもらっているわ。」
なるほど、とエステルが頷くと、メルナは一気に前のめりになった。目の前の丸テーブルが、どん、と置かれたメルナの手で揺れる。
「彼はね、優秀なの!能力も素晴らしいけれど、こと知識に関しては彼の右に出るものはいないわ!だから今回、例の経典について翻訳をお願いしていたの!」
「おお、うん、わかったけれど、メルナ、落ち着いて?」
興奮の理由がわからずエステルはおろおろと彼女に手を伸ばす。するとメルナはその手をぎゅっと握って言った。
「エステリーナ、よく聞いて。まだ経典の全てを翻訳し終えた訳ではないけれど、マテウスが調べてくれた中にすごい情報があったの!」
横でメルナの様子を見ていたマテウスが苦笑しながら口を挟む。
「ほらほらメル、落ち着いて。俺から話すよ。エステリーナさん、よく聞いてね。私が翻訳した部分は五分の一にも満たないが、その中にリナンの巫女にしかできない『祈り』の項目があったんだ。」
「祈り、ですか?」
エステルは首を傾げながらその話に集中していく。
「うん。そこにはこう記されていた。『魔人化を防ぐ祈り、呪いを弱める祈り、守りの祈り』…まだまだいくつも続いていたけれど、現時点で気になったものはこの三つだ。」
「守りの祈り…」
エステルがそう呟くと、彼は面白そうに目を細めながら言った。
「あなたが気になったのはそれなんだね。なるほど。メルの言った通りだ。」
「ね、そうなのよ、こういう人なの。ねえエステリーナ、ここからが本当に本題なの。マテウスと一緒に経典を翻訳しながら、同時進行でその祈りを試してみてもらえないかしら?」
「えっ!?」
メルナの表情は真剣そのものだ。確かに今の帝国の状況を考えれば、これらの祈りが本当に効果のあるものなら試したいと思うのは当然のことだろう。
エステルは数十秒悩んだが、すぐに顔を上げて頷いた。
「ええ、わかったわ。やってみる。」
「エステリーナ、ありがとう!あなたはね、私達の希望なの。もちろん経典だけでこんなことをお願いしたわけではないわ。あなたには何人もの人を救ってきたという実績がある。だからお願いするのよ?それと…」
メルナはそこで一旦言葉を切り、言いづらそうにしながら再び口を開いた。
「より一層あなたを守らなければならないのだから、しっかりとした護衛をつけないと、ね?」
その言い方に含みを感じたエステルは、ハッとして後ろを振り返った。
「ラトさん…」
少し遠い場所に立って辺りを窺っている彼の綺麗な横顔が、エステルの胸を締め付ける。
「心配しないで、基本離れた場所からの護衛だから。でも、彼以外に適任者はいないのよ。…今この危機を乗り越えるために、あなた達の力がどうしても必要なの。」
メルナの方に顔を戻したエステルは、彼女の少し青ざめた表情を見て心を決めた。その抱えるものの重さを想像すると、こちらも身が引き締まる。
「わかったわ。実はね、今日あなたに『ローゼンに戻る』って伝えようと思っていたの。でも、私ここに残るわ。あなたのために私にできることがあるなら、やってみたい。」
「エステリーナ…」
その時、テラスにスーッと涼しい風が吹き抜けた。エステルはそれがまるで精霊達の応援のように感じて、自然と笑顔を浮かべる。
「ラトさんの護衛についても今は受け入れるわ。とにかく、まずは『祈り』を試してみないとね!」
元気な声でそう宣言すると、メルナとマテウスは顔を見合わせて微笑んだ。
(そう、私は私のできることをする。彼らの笑顔がもし私の力で少しでも守れるなら…)
そして再び後ろを振り返ったエステルは、一瞬だけラトと目が合った気がして息を呑んだ。
しかしすぐに彼は後ろを向き、その場を離れてしまう。
エステルはその背中を目で追いながら、心の中に渦巻く複雑な感情とどう向き合っていけばいいか、真剣に考え始めていた。