76. 距離
エステルが船室に閉じこもってから二時間ほどが経過した。今はドアに背を預けて床に座り込み、持っていたハンカチを目に当てて上を向いている。もうすっかり涙は止まっていたが、目元は腫れていてまだ少し熱い。
(ハンカチを水で濡らしたいけれど、まだ外に出ない方がいいかしら…)
昨夜からの疲れが一気に押し寄せ、立ち上がることもままならない。とりあえずドアの外の様子でも見てみようかと、エステルは後ろ手に鍵を開けた。
その瞬間、寄りかかっていたドアがガチャリと音を立てて外へと開き、エステルは廊下に寝転ぶような形で後ろに倒れた。
「ひゃあっ!?」
(確か前にも似たようなことが…)
おかしな状況に思考がついていかず、寝転がった状態でぼんやりと上を見上げる。するとそこには、自分を見下ろし驚いた表情を浮かべるラトの顔があった。
エステルは彼の視線に気付くと、持っていたハンカチで慌てて顔を隠す。
「あー、その、悪い。」
「…」
ラトの声には以前のような張りはなく、どこか疲れているようにも感じられた。エステルがハンカチを少しだけずらして上を見ると、何か大きな荷物を腕に抱え、手助けすべきかどうか迷っている様子のラトの顔が見えた。
エステルは自力で体を起こすと、手をついてゆっくりと立ち上がり、彼に背を向ける。
「あの、何かご用ですか?」
そうしたくはないのに、どうしても冷たい反応をしてしまう自分がいる。
ラトは無言でエステルに近付くと、腕に抱えていた大きな荷物を横に置いて、後ろにさがった。
「無事でよかった。」
背後から聞こえたその言葉に、エステルは黙って頷く。
「それ、例の男から、君の荷物を預かってきた。」
「そうですか。」
「…」
(ああ、私、どうしてこんな言い方しかできないの?)
ただ荷物を受け渡すだけのこの時間でさえも、二人の間には越えることのできない大きな壁が立ちはだかっている。
無意識にハンカチを握りしめ唇を強く噛んでいると、ラトが大きく息を吸い込む音が聞こえ、エステルは思わず身構えた。
「エステル、俺は」
「あの、助けてくださってありがとうございました。荷物のことも、わざわざすみません。」
「え?あ、ああ。」
(聞きたくない、もうこれ以上、あなたの拒絶の言葉で傷付きたくない)
「でも私は、ザビナムにあなたが来た理由も、今言おうとしているその言葉も、何一つ知りたくないんです。」
「…」
エステルは床に置かれた荷物を奥に移動させると、ラトから顔を背けたまま、軽い会釈をして船室のドアを閉めた。
(助けに来てくれたことは本当に嬉しかった。もう一度会えたことだって泣くほど嬉しかった。それでも…)
一度突き放されてしまったこの気持ちは、そう簡単に元には戻れない。
彼のことを理解した気になって大人ぶっていたけれど、こうして再会してみて初めて、思っていた以上に彼の言葉に傷付いていたのだと知る。
(もし今ラトさんにもう一度別れを告げられたら、私はきっと二度と立ち直れない…)
珍しく弱気になったエステルは、届けてもらった荷物の中身を確かめもせず、ベッドの上に突っ伏して眠りについた。
― ― ―
ドアが静かに閉まり、エステルの後ろ姿が見えなくなると、ラトは項垂れながら廊下の壁に寄りかかった。
わかっていたことだった。彼女を守るためと自分に言い訳し、散々酷いことを言って突き放したのだ。こうなることは当然予想できたはずで、淡い期待など持つことすら烏滸がましい。
(逃げるなラト。追い縋るのもやめろ。とにかく近くから彼女を守っていればいい。それが、最低なことをしたお前の今やるべきことだろ?)
ラトは自分の心に強くそう言い聞かせると、顔を上げ、狭い廊下の先へと進んでいった。
― ― ―
その後の数日間、エステルは一切ラトと言葉を交わすことはなかった。時々船内で姿を見かけることはあったが、彼もまた話しかけてこようとはしなかった。
その分ヒューイットとは、たっぷり時間のある今だからこそしっかり話し合おうと言って、毎晩のように語り合った。
初めはぎこちない会話が続いていたが、次第に以前のような気楽なやり取りが出来るようになり、数日も経つとまるで幼い頃に戻ったかのような楽しい時間が戻ってきた。
そしてその時間の中で、彼がエステルへの想いを少しずつ過去のものにしようと頑張っていることも知った。
「今はまだ領地のことで頭がいっぱいですが、少しずつ自分のことも考えていこうと思っているんです。将来の、伴侶のことも。」
ヒューイットのその前向きな言葉がエステルの心に優しく染み渡り、思わず笑顔が溢れる。これからも大切な家族として助け合っていこう、そんな風にお互いが素直に口にできたことを、エステルは何より嬉しく感じていた。
エマともまた、今回長い時間話す機会ができたことで、二人の絆はさらに深まっていった。女性同士だからこそ出来る楽しいその語らいは、時には武器の話など物騒な話題が紛れこんではいたものの、常に笑顔の溢れる楽しい時間となっていた。
だがそんな穏やかで、時に賑やかな時間も、あっという間に過ぎ去っていく。
《聖道暦1112年6月12日》
もうあと二日ほどで帝都の港に到着する、エマとそんな話をしていたその日の夜。
エステルは珍しく船の甲板に出て、ほぼ暗闇の中で風を感じながら、穏やかな海と空を眺めていた。
「あと二日、これで、本当にさよならなのかな。」
暖かく湿った潮風が優しく頬を撫でていく。夏がもうそこまで迫っているのを肌で感じながら、エステルはため息をついた。
ラトの視線を時々感じていた船内での日々。だが結局彼とはあの荷物を受け取った日から一度も話せてはいない。
(帝都に到着したらローレンさんやメルナ、先生にも会って、お別れの挨拶をしよう。ヒューイットと一度ローゼンに戻って、そこから先のことはそこでゆっくり考えればいいわ)
ヒューイットと相談し、帝都を離れる決断をしたことを後悔はしていない。だがエステルの心の中にはまだ、ラトへの断ち切れない想いが潜んでいる。
(せめてお別れの言葉だけでも伝えておくべきかしら…)
直接会うのは怖いくせに、どこかで彼と接点を持っていたいと願ってしまう。
「はあ、しっかりしないと!」
エステルはペチペチと軽く頬を叩くと、部屋に戻ろうと勢いよく振り返った。
「ぶっ!?」
だが進もうとした先で柔らかく温かな壁とぶつかり、鼻を強く打ってしまう。
「痛っ!」
「あっ、すまない、大丈夫か?」
「え!?」
暗がりの中で上を向くと、星あかりの下で僅かに見えたのは、見覚えのあるラトの輪郭だった。
驚きと突然の接触に息が止まりそうになりながら、エステルはポケットの中から例のブローチを取り出し、手の中で光を溢れさせる。
仄かな光が辺りを照らす。そしてラトの慈しむような視線に気付いたエステルは、急いで目を逸らした。
「暗くて見えなかったので…ぶつかってしまってごめんなさい。」
そう言って彼の横を通り抜け、その場を離れようとした。しかしラトの手はそれを阻むように、エステルの肩にそっと触れた。
「エステル」
(お願い、そんな風に優しく触れないで)
「やめて」
「話があるんだ」
(怖い、知りたくない、これ以上…)
「聞きたくない」
「エステル」
ラトの声が、甘く切なく耳に届く。
「どうか放っておいてください!」
「…」
エステルのその強い拒絶の言葉は、彼の気持ちも、肩に置かれたその手も遠ざける。そして彼は苦しい胸の内を覆い隠すように目を閉じると、静かに息を吐き出した。
だがその表情は、エステルがこれまで溜め込んできた様々な思いを一気に爆発させた。
「ラトさん、あなたはきっと、私があなたと一緒にいることで傷付くことを恐れて、私を突き放したんですよね?」
ラトの目が大きく開き、懐かしいあの青緑色の瞳がエステルに向けられる。美しいその瞳に吸い込まれそうになる気持ちを必死で抑える。
「あれからずっと、多分そうじゃないかなって思っていました。それに、あの海での出来事だけじゃない何かが、あなたを恐怖の中に縛り付けているような気がしたんです。だからあの日私は、あなたのあの言葉を言葉通りに受けとめた。」
エステルは、手の中で光を放つラトから貰ったブローチを、少しだけ下に向けた。彼の苦しそうな表情が目に入らないようにと…
「でもそのせいで私は、自分でも気付かない間にあなたのあの言葉に苦しめられていた。たとえ命を狙われていても、私はラトさんと一緒に立ち向かっていきたかった。あなたが私よりずっと年上でも、時々強引でも、私を振り回してばかりいても、あなたのことが本当に好きで…ずっとずっと、ただ一緒にいたかっただけなのに、それだけだったのに、あなたは…!!」
何かに突き動かされるように吐き出したその言葉を、ラトは身動き一つせず黙って聞いていた。エステルはそこで一度大きく息を吸ってそれを吐き出すと、低い声で最後にこう告げた。
「だから、私はもうあなたの話は聞きたくない。あの別れの言葉をもう二度と聞きたくはないし、思い出したくもないから。」
そしてエステルはラトに背を向けると、一歩前に進む。そうして二人の間に生まれた距離は、まるで二人の心の距離のように遠く、遠く感じられた。
「わかった。」
後ろからラトの声が聞こえ、そこで立ち止まる。
「でも俺は、いつでも君を見守ってるから。おやすみ、エステル。」
「…」
エステルは遠ざかっていくラトの足音に耳を傾けながら再び空を見上げた。
そして雲が晴れ、よりその輝きを増す星空に、彼の心もまた早く癒されますようにと、そっと祈りを捧げていた。