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74. 会いたい、会えない

 《聖道暦1112年5月27日早朝》


 波打ち際に打ち寄せる白い泡が、虹色に輝く真珠のようにキラキラと朝日を反射しては消えていく。


 ラトはその美しい砂浜を歩きながら、胸がかきむしられるような辛い報告を受けていた。


 エステルは、彼女の母親の情報を苦心しながらも得られたこと、だが協力してもらっていた男性がここザビナムの王子で、なぜか彼の婚約者にさせられそうになっていること…


 「エステリーナ様はご無事です。お側に仕えている者の一人から、毎日少しずつではありますが状況を知らせてもらっています。ですが…」


 エマはそこで表情を暗くして言葉を濁した。ラトは立ち止まり、エマに詰め寄る。


 「ですが、何?何かまずいことでも?」


 エマは口を開き、一旦閉じる。そしてラトから目を逸らすと静かに続きを話しだした。


 「どうやら明日にはもう婚約式が行われてしまうようで…エステリーナ様はお気持ちを強く持っていらっしゃいますが、お辛いのでしょう、だいぶお痩せになってしまったと。」

 「そうか…どうにかして今日中には彼女を救い出したい。エマさん、悪いが…」


 するとエマは突然敬礼の姿勢をとり、はっきりとした口調でこう言った。


 「ラト様には十分すぎるほどの報酬をいただいています。ですが報酬など関係なく、私もあの方をお助けしたい!エステリーナ様がかつてどんな厳しい訓練をされてきたか、どれほど優秀だったか、よく知っております。そしてそんな素晴らしい方なのに、いつも私に気さくに優しく接してくださいました。ですから彼女を助けるのは当然です!どうか何でも仰ってください!」


 エステルの、常に誰かを思いやって動くあの人柄が、きっと周りの人を惹きつけてやまないのだろう。エマもまたその一人であり、彼女は心から彼女を助けたいと思っている。


 (でも俺は、そんなエステルを突き放した)


 誰に対しても愛情深い彼女が『特別』だと選んでくれた自分。


 そこに甘えて、怖がって、逃げた自分。


 「ありがとう。それなら一つ、お願いがあるんだ。」


 (もう逃げはしない。自分の運命からも、リリアーヌからも!)


 

 ― ― ―



 「エステリカ様、おはようございます。」

 「…おはよう。」


 みるみるうちに現実味を帯びていく美しい朝焼けを惜しみながら、エステルは窓辺から振り返って挨拶を返した。


 ここ数日自分の世話をしてくれているその女性は、この場所で唯一言葉が通じる使用人だった。


 「洗顔用にお水を用意いたしました。」


 ここには風呂や手洗い場などは無い。身を清める場所は部屋の外にあり、そこへ行く場合には彼女ともう一人、言葉の通じない見張りの女性がつくことになっている。


 「そう、ありがとう。」


 大きな桶の中にたっぷりと入れられた水。その横には先ほどの女性が、清潔な布を二枚ほど腕に持って立っている。


 (ユノは私を逃すつもりはなさそうね。でも、まだ諦めるわけにはいかない。たとえ私を待っている人が…大切だったあの人がもう居ないとしても)


 エステルはキリキリと痛む胸を押さえながら、込み上げてくる涙も一緒にその桶の水で洗い流していった。



 ― ― ―



 《聖道暦1112年5月27日夜》


 「もし攻撃されてもそのまま突き進んで欲しい。俺が援護する。」

 「はい、わかりました。剣は持っていきませんので、どうか宜しくお願いします。」

 「ああ。それと逃走経路はどちらを選んでもいい。その代わり必ずヒューイットの元へ連れていってあげて欲しい。」

 「もちろんです、お任せください。」


 ラトはそこで一呼吸置いてから再び口を開いた。


 「それと、エステルにはくれぐれも俺のことは内緒で頼む。」


 エマは二回ほどゆっくり瞬きをすると、そっと微笑んだ。


 「はい。あの、事情をよく知らない部外者の私が言うことでもないとは思うのですが、ラト様、いつか必ず、エステリーナ様のお心を取り戻してくださいませ。」

 「え?」


 どういうことだろう、とラトは怪訝な顔でエマを見つめる。


 「エステリーナ様はあの海での事件の後、おそらくラト様が去っていかれた後だと思うのですが、お一人でいらっしゃる時にこんなことを仰っていたんです。」


 エマの目が遠くを見つめている。


 「『馬鹿な人。私を守ろうとして自分を傷付けるなんて…本当に馬鹿なんだから。私は、仕方なくあなたに騙されてあげるんだからね。だから、だからどうかもう傷付かないで……』と。立ち聞きしたわけではないのですが、ちょうど耳に入ってしまって…」

 「…」


 そう言って目と閉じたエマに、ラトは何一つ返す言葉が見つからなかった。


 (俺は馬鹿だった。本当に馬鹿だった。エステルは俺の浅はかな考えなど全て見抜いた上で、俺のことを思って身を引いてくれたんだ…)


 大粒の涙が音もなく頬を滑り落ちていく。その様子をエマが見ないでいてくれたことを、ラトは心の中で小さく感謝していた。



 ― ― ―



 《聖道暦1112年5月27日深夜》


 エステルは夜中に目を覚ますと、喉の渇きを覚えてサイドテーブルに手を伸ばした。


 「暗くて見えない。明かりはどこかしら。」


 寝ぼけたまま探すのは危険だ。目が暗闇に慣れるまで待って、ベッドを降りようと窓の方に目を向けた。


 だがそこには窓ではなく、なぜか人の輪郭のような影がぼんやりと見える。そして同時に何かの香りも辺りに漂い始めた。


 ドキッとして慌てて飛び起きると、小さな光が少しずつ部屋の様子を見せていき、徐々にその光が大きくなっていった。


 「エステル」

 「え…まさか、ユノ?どうしてここに!?あっ痛っ!」


 驚いたエステルはベッドの端に左足をぶつけて顔を顰める。するとユノが持っていた明かりを床に置くと、エステルの足元に近寄り、跪いてぶつけた箇所に手を当てた。


 「ユノ、平気だから」

 「いいから。」

 「…」


 そして彼は『治癒』を使ってエステルの足の痛みをすぐに鎮めた。


 「ありがとう。」

 「いいんだ。」


 ユノの手が、まだエステルのくるぶし辺りに触れている。先ほどよりも、あの不思議な香りが強くなっている。


 「ユノ、もう痛くないわ。」

 「エステル、明日は婚約式だね。」

 「…私は、受け入れていない。」

 「うん。わかってる。」

 「ねえ、本当はあなただって、こんなの間違っているとわかっているのでしょう?」


 そう話しながら彼の手から逃れようと左足を動かす。だが彼はむしろ手でしっかりとそこを掴んでしまい、エステルは身動きが取れなくなって焦り始めた。


 「間違っている、とは思う。それでも、俺は…」


 彼はその右手で大きくスリットの入っている左足を上へ上へとなぞりながら、ゆっくりと立ち上がった。


 「ひっ、やだ!何する…」


 予想もしていなかった彼の行動に気が動転したエステルは、抵抗する間もなくユノの両手でベッドに押し倒された。


 「君と出会って、心を奪われた。君と再会して、一時的な気持ちではなくなった。君がこの国の服を着てここにいるのを見て、もう俺だけの君になったのだと錯覚した。」

 「ユノ!?」


 ユノのあの砂色の髪が、エステルの頬にかかる。押し返そうとしてみたが、思うような力が出ない。


 「きっと君は俺の前から逃げようとするはず。明日の婚約式のためにこの部屋を出た時が好機だと思ってるんじゃない?」


 エステルは朦朧とし始めた頭で、必死にこの状況から逃れる術を考える。


 (どうしてこんなにぼーっとするのかしら…あ、もしかしてこの匂い、お香?まさか、昔あの変な宿に置いてあった…)


 うまく働かない思考が導き出した結論に、エステルはさらに焦りを募らせる。だがユノは、そんなエステルを追い込むようにこう言った。


 「だからもう錯覚じゃなく、本当に俺だけのエステルになってもらえばいいよね?」

 「だ、駄目!!」


 ユノは胸元に当てていた顔を少し上げ、エステルの顔を見下ろした。その顔には申し訳なさと後悔と欲望とが複雑に入り混じっていて、エステルは戸惑う。


 「こんなに君を逃がしてあげたいのに、どうしても逃がしたくない自分がいる。俺、俺は…」

 「ユノ…」


 エステルの頬に、彼の熱を帯びた手がそっと触れた。


 「あなたには心から感謝しています。もし…もしもあなたがゆっくりと私と友情を育んでくれていたら、違う道もあったかもしれない。でもこんなことになってしまった以上、私はもうあなたの傍には居られない。」

 「今から、俺のものになるのに?」


 その強気な言葉とは裏腹に、頬を撫でる彼の手は震えている。エステルは気力を奮い立たせると、強い口調でこう言った。


 「ならないわ。あなたに、もうそんな顔をさせたくないもの。」

 「エステル…?」

 「だから、ごめんなさい。……ペカロちゃん!!」


 その名を呼んだ瞬間、室内に強烈な圧力のようなものが充満する。


 「うわっ!?」


 その衝撃に驚いたユノの手の力がふっと弱まると、エステルは全力で彼を突き飛ばした。そしてベッドを転がり落ちるように彼から離れると、部屋の中でうっすらと光を放ち、毛を逆立てて立つペカロに急いで駆け寄った。


 (エステル、大丈夫?)


 明らかに怒りを体から放っているペカロの首筋を撫でて落ち着かせると、能力を発動しようと手を上げたユノに、エステルは穏やかな口調で告げた。


 「もうやめて。それにここで能力は発動できないわ。」

 「本当だ!なぜ…?」


 ユノの焦る表情が影を帯びる。


 「ペカロちゃんに精霊達の力を借りてきてもらったの。食事をあまり摂らなかったのは、精霊達へのお願いに集中するため。あなたには見えないかも知れないけれど、今ここには精霊達の力が満ちているの。」

 「…」


 そして無言で打ちひしがれる彼に、エステルは別れの言葉を伝えた。


 「ユノ、ありがとう。でも、もう会わないわ。」

 「エステル…!?」

 「さようなら」


 エステルはペカロの力で彼の背中へと移動すると、一瞬でその部屋から消え去っていった。



 ― ― ―



 「ラト様大変です!エステリーナ様が部屋から消えたと!」

 「はあ?何でそんなことに!?」


 エマが青ざめた顔で伝えた内容は、待機していたラトを混乱させた。


 エマにはこの日、彼女の内通者に依頼して後宮内に忍び込んでもらっていた。万が一顔を見られても疑われないよう化粧を施し、使用人用の制服も借りて、準備は万端だった。


 しかし…


 「ユノ殿下が部屋に入られた後、何か騒ぎが起こったようです。今は後宮内がかなりバタバタしていて…この状況で怪しまれるとまずいので、一旦そこを離れて参りました。エステリーナ様は一体どうやってあの部屋から…」


 ラトはふと何かの気配に気付き、暗い空を見上げた。


 「あれは!?」

 「まあ!何か飛んでいます!!」


 二人が見上げた先には、白く柔らかな光を纏う大きな何かが、かなり上空を飛んでいる。しかしそれは流れ星のように暗闇を駆け抜けたかと思うと、そのまま闇に紛れて消えていった。


 「まさか…エステル?」

 「ですがあれは何か獣のようにも見えましたが…」

 「…」

 「…」


 二人は顔を見合わせて今見たものについて考えていたが、どちらからともなく顔を背けた。


 (俺の勘が、あれはエステルだったと言っている。でも一体どこに消えたのか…)


 途方にくれたラトは星一つ見えないその暗い空をもう一度見上げると、小さくため息をついた。


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