72. 残されていた愛
《聖道暦1112年5月20日》
エステル達がイーファ山の山頂に到達していた頃。
ラトはヒューイットが用意してくれた船の上で、船室の小さな窓から海を眺めながら、一人物思いに耽っていた。
「あと数日、か。」
ザビナムに到着するまでの日数を指折り数えてはため息をつく。そんな自分に苛立ちを感じながらも、再びエステルの姿をこの目で見られるかもしれないという期待で、心は自然と浮き立っていた。
(会いたい、エステル…)
直接会えないのは百も承知だが、それでも一目会いたいという気持ちは抑えられるようなものではなかった。
声が聞きたい。あの優しい笑顔が見たい。叶うなら全力で抱きしめて、ずっと自分の腕の中に閉じ込めておきたい。
「でももう自分勝手な愛情の押し付けはしない。近くにいて、困った時に手助けはしても姿は見せない。今は彼女の進む道を信じて見守るんだ。」
自分に言い聞かせるように頷きながらそう呟くと、ラトは再び海に目を向けた。少し前までは荒れて暗く見えていた海が、なぜか今は少しだけ穏やかに、そして明るい青に変わっているように見えた。
― ― ―
「これは…日記かしら?知らない文字だし、こっちの本は何なのか全くわからないわ…」
祭壇の中に隠されていた布に包まれていたのは、何らかの文章がびっちりと書き込まれた本が数冊と、日記らしき薄い冊子二冊だった。手に取った二冊はどちらも知らない文字で書かれており、エステルには全く読めないものだった。
「見せてもらってもいい?」
「ええ。」
ユノにその中から本を一冊選んで手渡すと、彼は首を傾げて言った。
「うーん、これは確かに読めないな。古いリナン語だとしたら俺もわからない。音や文法はかなり似てるから聞けばほぼわかるんだけど、読めないんだよな。でもザビナムに戻ればリナン出身の人はいるから、コウに調べてもらって会いに行ってみようか?」
エステルは本をユノから返してもらうと、深く頷いた。そして日記帳らしき冊子の二冊目を何気なく開いた。
「あ…これ、こっちは東の大陸の言葉で書かれているわ!」
「えっ?本当に?」
エステルがその最初のページに戻って読んでみると、そこには驚くべきことが書かれていた。
『これをいつか読むであろう私の愛する娘、エステリカへ。
あなたを守るためとはいえ、孤児院に預けるようなことになってしまってごめんなさい。
きっととても傷付いたことでしょう。母を恨んでいることでしょう。
私はとある高貴な身分の方から依頼を受けて、この世界を守るために欠かせない方の命と心を、祈りによって守っています。このイーファ山の神殿で、最後の巫女としての役目を果たしています。
ですがそれは、魔人達にとっては喜ばしくないこと。そして治る見込みのない病に罹った私の残り時間は、もうあと僅かなのです。しかし病のために下山すれば、今度は魔人に命を狙われることでしょう。
だから私は祈りを終えた後、巫女の血を継いだあなたを隠すことにしました。イーファの名から離れ、普通の人として暮らす。そうすれば幼いあなたが、巫女の血筋だからと言う理由で狙われることはありません。
この血筋の女性達には代々『呪い』が掛かっていません。だからあなたにも『呪い』『特殊能力』は無い。それがこれから先の人生で時にはあなたを苦しめるかもしれない。
それでも、どうか生きてください。生き抜いて、どうか幸せになってください。
でも、この日記を見つけてしまったということは神様に導かれて来たということでしょう。神というのは名前の知られているあの四柱のことではありません。彼らは神の使い、天使達。私達巫女が古くから崇め奉っている方は、名のない神様のことです。
そしてその神様に導かれてここまで来たあなたは、きっと巫女としての役割を求められているのでしょう。母としては心配ではありますが、大人になった今なら、あなたもその役目を果たせるはずです。
経典をこの日記と一緒に残しておきます。でもごめんね、時間と体力がもうあまり残っていなくて、翻訳しておくことはできなかった。不甲斐ない母を許してください。
この日記と経典が少しでもあなたの役に立ちますように。
導かれた運命の先に、素晴らしい未来が待っていますように。
あなたを愛する母、メフィ・イーファより』
(母の言葉、私への言葉が確かにここにあった。会うことはもう叶わないけれど、私は本当の母に愛されていた…)
日記の最初の頁を読み終えたエステルは、呆然とそこに立ち尽くし、ユノが声をかけてくれるまで放心状態になっていた。
「エステル、大丈夫?」
「…うん、平気」
コウも心配そうにこちらの様子を窺っている。そして再びユノが口を開いた。
「とにかく一旦山を降りよう。他の読めない本の翻訳もしたいだろうし。そう、そうだ!古いリナン語がわかる人をコウに探してもらおう!」
ユノが珍しく狼狽えているのがわかり、エステルもようやく冷静になった。これ以上彼に気を遣わせてはいけない。
「ありがとう。そうね、翻訳の件、ぜひお願いしたいわ!」
その時チラッと見たコウの顔には、何か迷いがあるような、落ち着かない気持ちが現れているようにエステルには思えた。
その後、足に負担のない範囲でかつて町だったであろう場所を探索し、持参したパンで腹を満たした三人は、荷物を整理してから下山を始めた。
途中まで後ろを守るようについてきてくれていたペカロは、出会った場所に近付くと、エステルを呼びとめて言った。
(エステル、僕は大人の聖獣になったからあまり長くは地上にいられないんだ。もう安全みたいだし、一度上に戻るよ。でも何か困ったことがあったらいつでも僕の名を心の中で呼んでね。必ず助けに来るから!)
エステルは振り返り、大きくなってしまったペカロの顔の辺りに抱きついて言った。
「うん、ありがとう。あなたと話せただけでも嬉しかったのに、また会えると思うと本当に嬉しいわ!ペカロちゃん、本当にありがとう!」
ペカロはゆっくりとした瞬きでそれに応えると、エステルから離れて山の奥へと消えていった。
「すごかったな!あの生き物は一体何だったんだろうな?」
ユノの興味津々という顔が面白くて、エステルはつい笑ってしまう。
「ふふふ!何かしらね?でも、素晴らしい体験だったわ。さあ、あと少し!頑張って下山しましょう?」
「うん、そうだね!」
そうして三人は再び麓に向かって歩き始めた。
ところが、十分ほど経った時のこと。例の古びた小屋が見えてきた所で、エステルはユノの様子がおかしいことに気が付いた。
彼の口数が減っていたことにはもっと前から気付いていたが、徐々にそれはふらつきとなって行動にも変化が見られ、とうとう先頭を歩くコウに追いつけなくなり立ち止まってしまった。
「ユノ、どうしたの!?」
「ユノ様、体調が悪いのですか?」
ユノは木に寄りかかりながら浅い呼吸をしている。そして小さく何かを呟いた。
「え?」
「……眠い」
「ユノ様!?」
彼はそのままずるずるとそこに座り込み、あっという間に深い眠りに落ちてしまったようだ。
「コウさん、どうしましょう!?」
「仕方ないですね、あの小屋に一旦私が連れて行きます。」
そう言って彼は軽々とユノを持ち上げると、エステルが先回りして開いた小屋のドアを通り抜け、中にある木のベッドに横たえた。
「どうしましょう、これから?ユノの体調が心配だし、助けをもとめるにしてもこのままここに居たら日が暮れてしまうわ。」
エステルが小屋に一つだけ付いている小さな窓から外を見てそう言うと、コウが唐突にエステルに近付いて手を握った。
「な、何」
「エステルさん、申し訳ない。ですがこれもユノ様の為なのです。お許しください。」
「はい?何を仰って…」
だがエステルのその言葉は、彼の手にあった布のようなものに覆われた途端、意識と共に徐々に薄れて消えていった。
― ― ―
「うう…あれ、あれっ!?俺、寝てた?ここは…」
「ユノ様」
ユノが目を覚ますと、すぐ横にコウが暗い表情で立っているのが目に入った。
「コウ、どうしたんだ?それにエステルは?」
硬いベッドの感触を手で受けとめながら体を起こすと、コウの顔が苦しげに歪んでいるのに気付いた。彼のすぐ横に見える窓の外は、先ほどより少し暗く感じる。
「ユノ様、申し訳ございません。実は私はユノ様のお母上の命を受け、あなた様のお世話を仰せつかっておりました。そしてエステル様のことも……お話ししてしまいました。」
彼の思わぬ告白に、ユノが血相を変えて立ち上がった。
「どうしてそんなことを!?」
「ユノ様、エステル様がリナンの巫女の血筋とわかった以上、あの方ほどあなた様の伴侶に相応しい方はいらっしゃいません。」
「なっ…!?」
言葉を失ったユノは、ただじっとコウを睨みつける。
「過去最もザビナムが栄えた時代、王妃は大抵『リナンの巫女』でありました。リナン王国が消え去ってしまった今、エステルさんをユノ様の伴侶としてお迎えするのは当然のことでございます。第二王妃様もそれを心から望んでいらっしゃる。あなた様が、王になるために。」
「エステルをどうしたんだ。」
「ユノ様、どうかご理解ください。」
「エステルをどうしたと聞いている!!」
コウはその剣幕に圧倒され、跪いて答えた。
「…ユノ様のために設えた後宮にお連れしました。」
ユノは身体中の血が沸騰するかのような怒りに駆られ、全身から炎を噴き出した。
「ユノ様!?おやめください!小屋が燃えてしまいます!!」
「うるさい!!コウ、急いで後宮に連れて行け!!勝手な真似をしたこと、許すつもりはないぞ!!」
「も、申し訳ございません!!ですが」
「早くしろ!!」
コウは黙って頷くと、今度はユノの手から大量に放たれた水に濡れながら小屋の外へと転がり出た。
(エステル、俺のせいで本当にすまない…すぐに助けに行くから!)
ユノは額を濡らす汗なのか水なのかわからない水分を腕で拭い取ると、コウを従えて急いで麓へと降りていった。