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70. 前に進む二人

 《聖道暦1112年5月20日》


 エステル達がイーファ山に向かうことを決めてから、数日が経った。


 山に入るための準備が必要だったこと、リナンという国がもう無いとはいえ、ザビナムの国境を出るために一応手続きが必要だったことが、日数を必要とした主な理由だ。


 そうして全ての準備が整い、とうとう出発の日がやってきた。



 「エステル、準備はどう?」

 「ええ、問題ないわ。」


 大きな荷物を背中に背負った二人は、互いの荷物の大きさを見て笑い合う。


 「重そうだね。エステルが後ろに倒れてしまわないか心配だよ。」

 「ユノこそ!倒れそうになったら荷物はすぐに捨てるのよ?」


 そんなたわいもないやりとりをしてから、隣に控えていたコウにも挨拶を済ませた。



 今回の旅ではコウの協力は欠かせない。彼は能力の数こそ三つと多くはないが、この王国唯一の能力を保持している。


 それは『空間移動』という能力だ。


 名前だけ聞くとどこにでも行けそうに思えるがそうではなく、彼が行ったことのある場所で、かつ彼の能力を発動させたことのある場所にしか移動はできない。


 今回でいえば、彼は以前調査のために砂漠を超えてイーファ山の麓まで行ったことがあるらしい。そこに能力の痕跡を残してあるため、今いるユノの別宅から一気に移動できるとのことだった。


 「ですが当時私は山には入らなかったので、麓までしかお送りできませんよ?」


 数日前エステルは、コウから何度もそう念押しされた。


 (なぜユノじゃなく、私に言うのかしら?)


 その意図がわからず困惑していると、彼はさらに意味不明な質問をエステルに投げかけた。


 「エステルさんは、ザビナムでの暮らしをどうお思いですか?」

 「暮らし、ですか?」

 「ええ。どうです、気に入っていただけましたか?」

 「あ、ええ!もちろんです!文化も人も景色も素晴らしくて…」

 「そうですか!それならば、よかった。」


 声も態度も至って冷静だが、彼が何かにとても満足していることが窺えた。


 (まあ、自分の国が褒められたら嬉しいわよね…)


 何か違和感は感じていたものの、その日はそれで話は終わってしまったため、その後はすっかりその出来事を忘れていた。



 「さあ、では移動しましょうか。」


 ふとその時のことを思い出したエステルの思考を遮るように、コウが爽やかに出発を宣言した。



 ― ― ―



 《聖道暦1112年5月10日》


 「いいですか、姉上の調査が終わるまでは、絶対に直接接触しないでくださいね?」

 「ああ、わかってる。」

 「現地では、何かあったら必ず僕に報告をしてください。」

 「約束する。」

 「それで、あなたはなぜ姉上を突き放すような真似を?」


 メルナの屋敷に滞在中のヒューイットの元を二日ぶりに訪れたラトは、この日彼と共に東の大陸に向かうための打ち合わせをしていた。そしてこの唐突な問いかけのせいで、ラトは少し前にあったことを思い出していた。



 この二日前、ラトはヒューイットに平身低頭の姿勢で謝罪を述べていた。


 彼の姉であるエステルに対し、互いに惹かれ合い恋人同士になったこと。彼女を失いたくないという身勝手な思いから、むしろ突き放すような行動をしてしまったこと。そしてそのせいで彼女を一人で東の大陸に向かわせてしまったこと…それら全てに関して申し訳なかったと丁寧に謝罪する。


 ヒューイットは無言でじっとその言葉を聞いていたが、全て聞き終えると、その時手に持っていた本を思いっきり壁に投げつけた。


 ゴン、グシャッ…


 ヒューイットの長いため息が聞こえる。そして部屋に静けさが訪れると、彼はラトの目を見つめて言った。


 「姉上を誑かしただけでも許せないのに、手酷く傷付けて捨てるなんて許せるはずがないでしょう!言い訳と謝罪を言いに来ただけならもう帰っていただきたい!」

 「もちろん、許してもらえるとは思っていない。だが…図々しいのは承知でお願いがある。ローレンさんから、あなたが東の大陸に向かうと聞いた。頼む、俺も同行させてもらえないか?」


 ヒューイットの怒りがその表情からひしひしと伝わってくる。だがラトはここで引き下がるわけにはいかなかった。


 「実は予めエマを…ここにいる時に俺の代わりにエステルの護衛をしてくれていた女性を、先に彼女の元に送っている。優秀な人だし、信頼していないわけじゃない。だけど、俺は…」


 ラトは伏せがちだった顔を上げてはっきりとこう言った。


 「俺自身が彼女を傍で見守っていたいんだ。会えなくていい。話せなくていいから、彼女が覚悟を決めて頑張っている姿を応援したい。彼女が自分の力で切り開く未来を、俺にも、守らせてくれないか?」


 床に落ち、ぐしゃぐしゃになった本をゆっくりと拾い上げたヒューイットは、それを机の上に置きながらラトに背を向けて言った。


 「二日後に、もう一度ここに来てください。」

 「…無理を言って済まない。ありがとう。恩に着る。」


 振り返ることも反応することもない彼に頭を下げると、ラトはすぐにその部屋を出た。



 そしてその二日後の今日、ヒューイットからの追求に対し、ラトは戸惑いつつも今の正直な思いを彼に伝えていた。


 「それで、あなたはなぜ姉上を突き放すような真似を?」


 ラトは一瞬言葉を失ったが、少し悩んでから静かに語り始めた。


 「俺は、ずっと昔からある女に狙われている。美しいが危険で、執念深くて、俺自身ではなく俺の周りの人間を殺そうとするような女だ。おそらくだが、俺のことはもうメルナさんから聞いて知っているんだろう?」

 「ええ、大体は。」


 ラトは自分の手のひらをじっと見つめた。


 「能力が高いからこそ、もし俺が憎しみに心を奪われて魔人化してしまえば、彼女の思う壺だ。だからこそ彼女は…リリアーヌは俺を殺さず、俺の大事な人の命を奪おうとする。」

 「はあ。僕としては何も無いとしてもあなたには姉上に近付いてほしくないのですが、そんな事情であれば尚さら接触させたくありませんね。」


 ヒューイットは硬く手を握りしめ、唇を噛む。


 「ですが、姉上があなたを本当に…本当に好きだったというなら、一度だけ機会をあげます。不本意ではありますが。」


 ラトは顔を上げた。


 「ありがとう。もちろん約束通り、彼女の調査が終わるまでは絶対に姿を見せないし、どんな形であれ接触はしない。」

 「そうしてください。異国にいる姉上はきっと大変な思いをしているはずです。これ以上気を揉ませたくない。」

 「…」


 二人はそれぞれに同じ人を思い、その場には暫しの沈黙が訪れた。



 ― ― ―



 麓から見るイーファ山の姿は、まるで薄い紗が全体に掛かったかのように霧に煙り、遠くで見ていた時よりもずっと神秘的な場所に見えた。


 エステルはその姿に圧倒され、しばらくは首が痛くなるほど上を見上げて山頂を眺めていたが、ユノがぽんぽんと優しく肩を叩いたことでハッとして笑顔を向けた。


 「ごめんなさい!つい夢中になって眺めてしまったわ!」

 「あはは!わかるよ。俺も初めてここに来た時、エステルと同じようにずっと上を見上げてて、コウに怒られたんだ!」

 「人聞きの悪いことを仰らないでください。私は口が開いておりますと申し上げただけですよ。」

 「ふふ!口、開けっぱなしだったの、ユノ?」


 エステルが思わずその姿を想像して笑っていると、ユノが頬を赤らめながらエステルの頭をわしゃわしゃと撫でて「揶揄うな!」と笑った。


 「ちょっと、やめてよ!もう、子供っぽいことしないで!」


 エステルもまたそう言って笑っていると、コウがなぜか少し顔を背けて微笑んでいるのがチラッと目に入った。


 (コウさん、一体どんな人なのかしら…不思議な人ね)


 彼の『空間移動』の能力は言葉には言い表せないような特別な体験だった。


 能力が及ぶ範囲は手を繋いでいる人間だけ、とのことで、ユノとエステルは彼と手を繋ぎ、能力の発動を待った。


 コウはしばらく目を瞑り集中していたが、数分経った頃、ゆっくりと目を開けて「行きます」と呟くと、エステルの視界が一瞬で暗転した。


 そこからはほとんど記憶が無い。何時間も経ったのか、それともほんの一瞬のことだったのかすら体感では全くわからなかった。とにかく目の前が徐々に明るくなり、そこがさっきと全く違う環境であることだけは全身の感覚で理解できた、と言う感じだ。


 「うわあ、何だかふらふらするわ!」

 「おっと、大丈夫?初めてだとそうなるかも。」


 ユノがすかさずエステルの腕を支えてくれたお陰で、ふらついてはいたが倒れることだけは免れた。


 「ありがとう。どのくらい時間が経ったの?」


 すると今度はコウが話し始めた。


 「おおよそですがこの距離ですと五分ほどですね。」

 「すごいわ…あんなに遠くに見えていたのに!」


 エステルは再び目の前に聳え立つ神聖な山を見上げると、荷物をしっかりと背負い直し、この山での最初の一歩を踏み出した。


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