69. 聖なる山へ
《聖道暦1112年5月17日》
ザビナムの首都『イサ』に戻ったエステル達は、一旦ユノの別宅に戻って一晩体を休めると、翌朝早くにそこを出発した。
「イサは泉が多くて町がかなり広いから、今日行くのは諦めて、明日早めに出よう!」と前日にユノに提案されていたからだ。
実際、教えてもらったヘリサ・ラディという人の家は、イサの中でも最も南側にある地域にあるようで、歩きでは厳しいからと昨日借りたナグーに乗って移動することになった。
二人が三十分ほどゆらゆらと町を進んでいくと、大きな泉を遠巻きに囲うように、白い壁の小さな家々が隙間を空けて建てられている場所が見えてきた。
その泉の周囲には、水を汲む人、景色を楽しむように座っている人、簡易的な店を開いて何か食べ物を売っている人などがいて、彼らは皆ゆったりと流れるこの町での時間を思い思いに過ごしているようだった。
「ここは道らしい道もないし、住所は一応あるけど実際の場所はわかりにくいから、ちょっとあの店の人に聞いてくるよ。」
「うん。ありがとう!」
ユノはヒラヒラと手を振ると、すぐに近くの店の男性に家の場所を尋ねにいく。少しして彼は戻ってきたが、なぜか浮かない顔をしていた。
「どうもここじゃないらしい。もっと泉から離れてるって。多分あの辺りだと思うけど…とりあえず大体の場所はわかったから、とにかく行ってみよう。」
そうして二人は早速、男性に教えてもらった場所へと移動する。
しかし到着したその地域は、先ほどとは全く違う雰囲気を漂わせていた。
「これは…」
「え、どうしてこんなに荒れているの?」
家々の壁は白さを失い、欠けたり剥がれたりしている。道と思われる場所にはかなりのごみが落ちていて、エステルはその強烈な匂いに思わず顔を顰めてしまう。
ユノは辺りをぐるりと見渡すと、珍しくため息をついてから黙って前に進みだした。エステルも急いでその後を追う。
目的の家まで歩いている間にも、破れた服を着て疲れ切った表情で座りこむ男性や、ごみの中から何かを見つけようと必死に歩いている子供達の姿など、胸が痛くなるような光景に何度か出くわした。
「ここは確かに以前から貧民街ではあったんだけど、俺が西の大陸に行く前はこんなに酷い状態じゃなかった。どうしてこんなことに…!」
「ユノ…」
彼が深く心を痛めていることがその声や横顔から伝わってくる。エステルは何も言うことができず、ただただ黙って彼の背を優しく叩いた。
「あっ、エステル、ごめん。今は君の調査に集中しないとな。」
「どうして謝るの?あなたがこの国を心から大切に思っていること、私はもう知っているわ。だからもしあなたがここに残って何かしたいことがあるなら、私は一人でも平気よ?」
するとユノは子供のように首をブンブンと勢いよく振ってから言った。
「いや、いいんだ。今はエステルの方を優先したい。ほら、あの一番外れにある家だと思う。さあ行こう。」
「…うん。」
(本当はこの町のことをもっと調べたいのね。よし、急いで手掛かりを掴んで、彼をできるだけ早く解放してあげなければ!)
ユノのまっすぐ伸びた背中を見ながら、エステルは頼りすぎている自分を密かに反省していた。
ヘリサ・ラディという名の女性は、三十代半ばと思われる細身の女性だった。ほつれたまとめ髪や着ているものの様子からして、厳しい生活を余儀なくされていることが見てとれた。
ユノの通訳によると、彼女の母親は十五年前までは確かにあの孤児院で院長を務めていたらしい。
しかし様々な問題が起こり孤児院は閉鎖、その精神的苦痛のせいで彼女は重い病を患い、数年前に亡くなってしまったとのことだった。
院長の不幸の始まりは、当時あの町の泉が少しずつ小さくなってしまったせいで、孤児院への水の供給が徐々に難しくなってしまったことから始まった。
そこに追い打ちをかけるようになぜか院長が孤児院の子供達を売買しているというよからぬ噂が広まってしまい、あっという間に孤児院は閉鎖に追い込まれてしまったらしい。
「自分の母親はそんなことをする人じゃなかった。でも確かに一人だけ、不本意な形で養子として出してしまった子がいるって。」
ユノの言葉にエステルは俯いていた顔を上げた。彼は引き続き話を聞きだす。
「王国で管理されている孤児院では、寄付以外のお金を受け取ることは禁止されていた。だけど別の大陸から来ていた女性が、髪が黒く肌が白いという理由だけである女の子を連れ去って、しかも彼女は勝手に大金を置いていったらしいって、言ってる。それが悪い噂に繋がったようだな。」
「名前は、その子の名前は覚えていますか?もしくは記録は残っていますか!?」
言葉が通じないとわかっていても、つい必死に問いかけてしまう。戸惑いながら何かを呟いて奥に入っていく彼女を目で追いながら、ユノが説明をする。
「今、調べてくれるって。」
「あ、うん。」
彼の静かな声に、エステルも冷静さを取り戻す。そして十分ほどしてからヘリサは何かを抱えて戻ってきた。
それは大きな木でできた箱で、蓋を開けると中には様々な書類が雑多に入っていた。エステルはこの国の言葉が読めないため、ユノが許可を貰って一つ一つ中身を確認していく。
十分、十五分、時間が経つのが遅く感じる。
だが二十分が経過しようとしていたその時、ユノが何かに気付いてパッと顔を上げた。
「エステル、これ、君のことじゃないかな?書かれている年代的にもほぼ間違いないと思うし、名前は少し違うけど、似てる。それにこの女の子、『リナン』出身の子だね。」
「リナン…今は無いって言っていたあの国?」
エステルは混乱しながらユノに尋ねる。
「そう。東の大陸の東側に『ザビナム』、北に『レーネン』、南に『モリネア』、そして砂漠の西側には北側から連なる山脈と高原地帯があって、そこが『リナン』だった。リナンは元々高地にあるし小さな国だったんだけど、多くの人々がその厳しい環境に耐えきれなくなって、人々が他の国に流れたせいで国が徐々に消滅していった、って聞いてるよ。」
その説明を終えたユノは、ゆっくりと手に持っていた紙をエステルの前に差し出した。
「リナンに『イーファ』という名の聖なる山がある。そこが前に教えた精霊が多く住まう山なんだ。そしてこの紙に書かれている名前は…」
ユノの瞳が意味ありげにエステルを見つめる。
「エステリカ・イーファ、そしてイーファの名を持てたのは、リナンに住んでいた巫女達だけだ。」
「え?」
情報量の多さと複雑さにエステルが動揺していると、ヘリサが何かを身振り手振りで伝えているのが見えた。ユノが話を聞くと、彼女は必死に何かを訴えかけている。
「エステル、彼女は当時十代半ばで、このエステリカという女の子を見たことがあったんだって。しかもそれ、その女の子の母親らしき人がハール孤児院に連れてきた時だったみたい。」
「えっ!どんな、どんな人だったか覚えていますか!?」
エステルが思わず縋り付くようにヘリサに問いかけると、彼女は悲しげに目を伏せてから何かを呟いた。
「何か重い病気を抱えているように見えたって。でも、ザビナムでは見かけない白い肌と、黒くまっすぐな髪が綺麗だったから覚えているって。…ちょうど、君みたいな。」
「そう、そうだったの…」
エステルの胸に熱い想いがこみ上げる。嬉しいのか悲しいのかわからない、ぐちゃぐちゃになった感情が、今にも溢れ出しそうになっている。
するとヘリサはエステルのそんな気持ちを汲み取ってくれたのか、優しく手を取り、何かを話し始めた。
「そうか、そうだな。エステル、ヘリサさんがね、イーファ山に行ってみたらどうかって。この紙には君の名前、年齢と母上の名前、ええと、メフィ・イーファって書いてある!今はこれしか書いていないけど、この名前ならリナンの巫女だったことは間違いない。どうする?行ってみるかい?」
ユノとヘリサの何かを期待するような視線に一瞬戸惑ったエステルだったが、すぐに覚悟を決めて頷いた。
「ええ。行くわ。きっとそこに、母の手掛かりがあるはず。」
「わかった!じゃあ、俺も行く。」
「でも、ユノはこの町のことが気になっているんでしょう?これ以上迷惑は掛けられないわ。」
エステルがそ言うと、ユノは珍しく怒気を含んだ声で言った。
「俺は約束したことを反故にしたりする男じゃない。最後まで君の調査に付き合うと約束したんだ。どうか俺に、その約束を守らせてくれないか?」
彼の迫力に圧倒され、エステルは何も言えずにただ頷いた。
その時奇しくも彼の肩越しに見えていたのは、遠くに連なる山々の、あまりにも神々しいその姿だった。