⒍ 子供達の行方
《聖道暦1112年3月9日》
大きな窓から明るく差し込む光で目が覚めたエステルは、うーんと言いながら大きく伸びをしてベッドから体を起こした。
昨夜は結局ラトが外に出かけてくれたことでゆっくりと部屋の風呂に入ることができた上、久しぶりの柔らかなベッドで心地よい眠りを堪能できた。
ふと気になって、だいぶ離れた場所に移動したラトのベッドの方を見てみると、彼はまだスウスウと寝息を立てて寝ているようだった。エステルは起こさないように注意しながら自分のベッドを出ると、部屋に付いている化粧室で身支度を始めていった。
― ― ―
エステルが化粧室に入ると、ラトは狸寝入りをやめて小さくため息をついた。
昨夜はあの後無理やり食堂に連れて行かれ、まあそれなりに美味しい夕食を取った後、ベッドを移動してからエステルに「ちょっと出かけるところがあるからその間に風呂に入れば」と勧めて夜の町に繰り出した。
だがしばらく時間を潰してから部屋に戻ると、彼女はまだ風呂を楽しんでいる様子で…
(いやいやいや、まずいだろこれは!エステルに気付かれないうちに出よう!)
風呂に繋がる扉はガラス戸だ。もっと奥に入れば何かしらが見えてしまう可能性もある。
ラトは素早く踵を返して部屋を出る。そして何も目にしなかった自分を心から褒め称えつつ、もう一杯飲んでから帰ろうと決めて再び外へと出かけて行った。
しかし。
夜遅く戻ってきたラトに、もう一つの試練が待っていた。
部屋の明かりは最新式の燃料を使った小型ランタンだったのだが、部屋に戻るとその明かりがエステルの枕元で柔らかな光を放っていた。
「消して寝ないと危ないぞ」と聞こえるはずのない説教をしつつ彼女のベッドに近寄ると、「うーん」と言いながら寝返りを打つエステルの上半身が見えた。
「!!いや…俺は見てない。何も見てない。」
だがその言葉とは裏腹に、彼女の胸元は用意されていた緩めの寝衣のせいで、僅かにはだけてしまっていた。
ラトは次から次へと訪れる試練に苛立ちを感じながら急いで明かりを消すと、自分のベッドをさらに遠くへ押しやって、勢いよく布団に潜りこんだのだった。
― ― ―
エステルが朝食を終えて部屋に戻ると、ラトが眠そうな顔でベッドにぼんやりと腰掛けていた。どうしたのだろうと思いつつも、声をかけていいものか悩む。
(昨夜は眠れなかったのかしら?ああ、もしかして朝まで飲んでいたとか?)
だが余計なことを言ってもっと疲れさせるのはよそうと考えたエステルは、黙って自分の荷造りに取り掛かった。
宿を出る少し前、言われた通りに部屋の感想や紹介文を書いてそれを手渡すと、宿の主人にしつこいくらいのお礼を聞かされ、さらにいくつものお土産が入った袋を押し付けられた。
「へえ、この辺り名産の果物が入ったお菓子ですって。あ、これは何かしら?」
宿を出たエステルが歩きながらそのお土産袋の中身を覗いていると、横に並んで大あくびをしていたラトが「楽しそうだねえ」と呟いた。
エステルは袋の中身を確認するのをやめ、彼の方に顔を向けてこう尋ねた。
「もしかして昨夜は帰ってくるのが遅かったんですか?あまり眠れませんでした?」
ラトは一瞬だけ恨めしそうにエステルを見た後、すぐに前を向いて「まあそんな感じだな」と答えたきり黙ってしまう。
その様子を見て「もしかしたら自分のせいでは?」と考えたエステルは、少し前を歩くラトの袖を掴み、立ち止まってから言った。
「ラトさん、ごめんなさい。私がお風呂に入りたいなんて言ったから、気を遣わせちゃったんですよね?」
するとラトは無表情のまま黙ってエステルに向き合うと、突然その頭頂部をガシガシと手で撫で回し始めた。
「え?ちょっとやめてください!」
「全く、大人になったばかりのお子ちゃまがそんなこと気にする必要はないから。風呂は最高だったんだろ?よく眠れたか?」
「…はい。」
エステルがボサボサになった髪を直しながらそう答えると、ラトはうっすらと笑みを浮かべた。
「そうか。ほら、それよりも早く子供達に会いに行くぞ。」
そう言って彼は再び前へと歩き始める。その後ろ姿をまるで年の離れた優しい兄のように感じながら、エステルも急いで彼の後を追って歩いて行った。
それからしばらくしてラトに連れられて向かったのは、この町の役人や兵士達が所属する王国管理の施設だった。賑やかな温泉街から離れた場所にあるそこは、周囲を民家や商店など雑多な家々に囲まれている。かなり治安の良い町のようで、兵士達も住民達も穏やかに過ごしている様子があちこちで見受けられた。
その施設の入り口でラトが知り合いらしき兵士と話をつけると、エステルは導かれるままに中へと入っていく。入ってすぐの開けた場所では、兵士達二十人ほどが何かの訓練をしており、その横を役人達が書類を抱えて忙しなく行き交っている。
そしてそんな役人のうちの一人が、ラトに気付いて近寄ってくるのが見えた。
「おお、来たか!ちょうど今朝あの子供達を、この町の孤児院に預けてきたところなんだ。神殿が管理しているんだがあそこの神官はいい奴でね。今から一緒に見に行ってみるかい?」
「昨日はどうも。ええ、ぜひ案内をお願いしたい。」
その男性はラトよりも少し年上に見える優しそうな人で、エステルに気付くと軽く会釈をしてくれた。エステルもまた会釈を返し、男性が何かを言いかけたその時、若い兵士の一人が慌ただしく駆け寄ってきて言った。
「ロジオ副局長、局長が火急の問題で副局長をお呼びです!」
ロジオと呼ばれたその男は、一瞬苦い表情を見せたが、すぐに笑顔に戻る。そしてラトに向かって申し訳なさそうに言った。
「いやあすまない。今日は付き添いはできそうもないらしい。別の者に孤児院の住所と地図を用意するように指示しておくから、もし今日行きたいのであれば二人で行ってもらえるかな?」
「ええ、もちろんです。」
ラトがそう答えると、彼は急いで胸ポケットからペンとくしゃっとなっていた紙を取り出し、そこに何やら書きつけてから今呼びにきた兵士に手渡した。
「これをザオ事務官に渡しておいてくれ。いつも連絡係、助かる。」
そう言われた兵士は不意打ちのようなその優しい言葉に思わず笑顔になり、先ほどの紙を持って飛ぶように走ってどこかへ行ってしまった。そしてロジオは、ラトではなくエステルの方に顔を向けて言った。
「あなたが子供達をここに連れてきたいと言ってくれたそうですね。ありがとう。あの辺りの子供達は大変貧しく、ここの孤児院など贅沢に見えるほど逼迫した生活を余儀なくされていることが多いのです。当然今回のように売られてしまうことも少なくない。あなたはあの子達の罪をきちんと受けとめた上でここに連れてきてくれた。その判断に、私は賛同します。…それだけ伝えたくてね。ありがとう、お嬢さん。」
エステルはそんなことを言われるほど大層なことをしていない自分に居た堪れなくなり、ラトの背中を押して言った。
「いえ、私など何もしていません。全てこちらのラトさんがしてくれたことですから。でも、今日はぜひ子供達に会わせてください。ここを離れたら、二度と会えなくなってしまうかもしれないから…」
「…」
エステルはなぜか今の言葉に、ラトが敏感に反応したような気がした。
ロジオは一度大きく頷くと、「さあそろそろ行かないと」と言って再び会釈を残し、その場を去って行った。すると背を向けていたラトがくるっと振り返り、エステルの顔を覗き込んだ。
「エステルちゃん、何考えてる?」
「…何も。ただいつも、人と出会って別れる時はそう思うんです。これでもう会えないかもしれないって。ただ、それだけ。」
「ふうん。」
ラトは含みのある言い方でそう言うと、建物の中から慌ただしくやってくる女性に目を向けた。彼女は二人のすぐ側までやって来て、綺麗な字で書かれた住所とわかりやすい地図を手渡すと、すぐに来た時と同じようにバタバタと帰っていく。
そしてエステル達はその地図を手に、子供達がいるという孤児院へと向かって歩き始めた。
民家が続く人通りの少ない道を抜けていくと、そこには古びて朽ちかけた建物や、あまり生育状態のよくない野菜が育てられている狭い畑などが点在する場所に辿り着いた。
寂れた感じのするそこをさらに進んでいくと、ようやくそれまでにはなかった大きな建物が見えてくる。
「あれだな。」
ラトはそう言うと貰った地図をズボンのポケットにしまいこみ、エステルを先導するように歩き始めた。
到着したその建物は、かつてはそれなりに大きな神殿だったのだろうと思わせる立派な外観だった。だがそれを今にも覆い尽くそうとするように、長く伸びる蔦が柱や壁一面に蔓延っている。
だがその入り口付近に広がるちょっとした広さの庭は比較的綺麗に管理されているようで、何人もの子供達がせっせと雑草を抜き、花を植え、野菜の手入れをしている姿も見られた。
「あ!お兄さんだ!!」
その時エステルの耳に聞き覚えのある声が届き、ハッとして声のした方に顔を向けた。するとあの痩せて悲しそうな顔をしていた兄弟達が、嬉しそうな笑顔でこちらに駆け寄ってくるのが見えた。
「お兄さん!あ、あの時のお姉さんも!!」
弟は泥だらけの手を前に突き出したままニコニコとこちらを見ている。その横で兄の方が丁寧に頭を下げて言った。
「この間は、ごめんなさい。もうあんな悪いことはしないので許してください!!」
エステルは必死になって謝るその姿を見て、思わずそこに膝をつきその子の手を取った。
「お姉さん?」
「わかったわ。あなたの謝罪を受け入れます。その代わりここでたくさんお手伝いをして、誰かを少しでも助けられるように生きていってね。」
「…うん。わかった!」
そして今度は隣にいる弟の泥だらけの手を取った。
「ふふふ、土をいじるのは楽しいかな?美味しいお野菜がたくさんできるといいわね。」
「うん!!」
幼い弟はそれだけ言うと、エステルの手から離れてまたどこかへ行ってしまった。ラトが上からエステルに手を伸ばす。
「ほら、立てるか?」
エステルは視線だけでそれを断り、自分で立ち上がった。そして兄の方に「さあ、もう大丈夫よ」と言うと、丁寧に頭を下げて去っていくその後ろ姿を見送った。
「それにしても『お兄さん』だなんて、もしかして子供達にそう呼ぶように言ったんですか?」
エステルが手の泥を軽く落としながら面白そうにそう尋ねると、ラトはチラッとその顔を見て「お兄さんだろ?」と言う。
「いつも自分のことおじさんおじさんって言い張っているくせに!」
エステルが噴き出しそうになりながら思わずそう反論すると、「いいんだよ。若く見られる分には否定する必要もないだろ?」と言い返されてしまう。
「へえ。そういうものですか。」
「そういうものだ。」
「…」
そんなふざけたやり取りもできる関係になってきたのかしらとエステルがぼんやり考えていると、神殿の中から神官服に身を包んだ細身の男性が現れた。
「こんにちは。もしやあなた方はあの兄弟のお知り合いですか?」
声を掛けられた二人は挨拶を済ませると、これまでの事情を説明する。神官の名前はゲルトと言い、もうかれこれ二十年近くここの神殿を守ってきたとのことだった。
「今はこの辺りもだいぶ観光客が増えていましてね。急ぎの方が多いせいか、皆さん神殿ではなく町の『減呪師』に頼んで呪いを軽減してもらっているようなんです。まあそんなわけでここにはめっきり人は来なくなって、今では貧しい子供達や親のいない子供達と野菜を作ったり祈りを捧げたりしながら生活をしております。」
彼はそんな話も聞かせてくれた。
減呪師というのは神官とは異なり、呪いによる苦しみや痛みを一時的に和らげる呪文を読んでくれる人々のことだ。
神官は神の一柱であるアシュタールの力を借りて苦しみから解放してくれるため、どの神官が祈っても基本的には同じ効果が得られる。ただし定期的に通わないと効果が弱まるのと、一回毎の祈りの時間が長いのが特徴だ。
それに対し減呪師の場合はその人の能力の高さが効果と比例するため、人気の減呪師の呪文なら神官の祈りよりも素早く効果を感じられる上、長期的にその状態を保つことができる。ただし料金は高額で、予約をしてもなかなか順番が回ってこないこともあるらしい。
「まあ、そんなわけでのんびりとは暮らせているのですが、一つ気がかりなこともありましてね…」
ゲルトの顔が曇り、エステルは嫌な予感を感じ始めた。
「仕事を見つけてここを卒業していった子供達も多くいるのですが、その中で最近出て行った三人がもう三ヶ月以上もここに顔を見せていないのです。」
(ああ、また何かに巻き込まれそうな予感…)
するとゲルトが祈るような姿勢で手を組んで言った。
「あの…旅の途中の方にこんなことをお願いするのも忍びないのですが、もし方向が逆でなければ、すぐ隣の町『アンセラ』に私を連れて行っていただけないでしょうか?」
エステルは必死に懇願してくるゲルトに戸惑い、思わずラトの方を見ると、彼は軽く頬を膨らませながらゆっくりと息を吐いていた。
「ふうー。どうするエステルちゃん?方向は問題ないが、護衛の俺は君についていくだけだし、判断は君に任せるよ。」
それはそうだ、とエステルは再び悩み、そして決断した。
「わかりました。でも一緒にその町に向かうだけで良いのですね?」
その言葉でゲルトの顔は一気に明るくなる。
「はい!ありがとうございます!どうしても自分だけではなかなか移動が難しく…ああ、帰りは向こうの知り合いにお願いするので大丈夫です。では、どうぞ宜しくお願いいたします。」
そうしてこの後三人はあの壊れかけの馬車で、隣町までの短い旅に出ることとなった。