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63. 別れ、そして海へ

 《聖道暦1112年4月20日》



 エステルがローレンの船に乗るために港へ向かった日から、二日が経過した。


 ラトから引き受けたのであろうあの気絶するほどの痛みは、昨日一日かけてようやく体から抜けていった。


 アランタリアが真っ青な顔で一日中祈ってくれていたのだが、能力による弊害で起きた現象ではなかったせいか、効果はあまりなかった。結局時間と共に自然に回復していき、この日はほぼ痛みを感じなくなっていた。



 エステルは怠い体を無理やり起こすと、ベッドの横に置いてあった水を一口飲み、窓の外を見つめた。


 (ラトさん、結局あれから一度もここに来てはくれなかった)


 あれほどエステルに寄り添ってくれていた彼が、どうして顔すら見せてくれないのか。


 体の痛みはもう何も無いのに、新たに生まれた胸の痛みは、時が経つにつれて増していく。


 (ラトさん、早くあなたに会いたい…)


 溢れそうになった涙をそっと手で拭うと、エステルは再び、窓の外に広がる美しい庭園をぼんやりと眺め始めた。



 ― ― ―



 二日前の魔獣襲撃事件の後から、ラトは深く思い悩んでいた。


 これまでは無茶をしがちなエステルに、自分が常に傍にいて守ってあげればいいと安易に考えていた。


 だがリリアーヌと再会しエステルが彼女に目をつけられてしまった今、自分の横にいることこそ、彼女にとって最も危険な状態だと断言できる。


 (しかもエステルは、自分を犠牲にしてまで俺の痛みを引き受けてしまった)


 それは、一緒にいればいるほど彼女を不幸にすることに他ならない。


 恐ろしいほどのあの痛みを引き受けたエステルの姿を見た時、体中の血液が干上がってしまったのではないかと思うほどの衝撃を受けた。


 あんな思いを二度とさせたくない。だがきっと彼女は今後何度でも同じことをするだろう。


 「俺のために…そんなのは、駄目だ。」


 (でも本当に彼女を手放せるのか?俺は、また大事な人を失ってしまうのか?)


 心から愛する人だからこそ、エステルの幸せを願って離れるべきなのか。それとも…


 ぐるぐると巡るそれらの考えが、ラトの心を徐々に圧迫していく。離れたくない、離れなければと。



 だがラトはエステルの痛みが引いたと聞いたこの日、とうとうある決断をした。


 「エステルと、きちんと話をしないとな。」


 二日間散々迷って開けられなかった彼女の部屋のドアを、ラトは静かにノックした。



 ― ― ―



 「エステル」

 「ラトさん…」


 やっと顔を見せてくれたラトに思わず笑顔を向けたエステルだったが、すぐにその笑顔は失われていく。ラトの顔には笑顔どころか何の感情も見られず、こちらに近寄ろうともしない。


 「痛みが治ったと聞いた。」

 「え?あ、はい。」


 いつもなら絶対に心配してくれる彼が、今日はどこまでも冷徹な態度のままだ。


 「そうか。…なあ、話があるんだ。」

 「はい。」


 聞きたくない。この流れで、絶対にいい話のはずがない。


 この間無茶をし過ぎたせいだろうか?まずい言動があったのだろうか?


 その時ふとエステルの頭に、ローレンからの忠告の言葉が過った。


 『あんた自身のことももっと大切にするんだ。自分を切り売りするような人助けは、きっとあんたのことを大事に思っている人を傷付けるよ?』


 ああ、あの言葉を今思い出すだなんて…


 そしてラトは、徐に話し始めた。


 「エステル、すまないが、今日をもって君との契約を破棄させて欲しい。」


 エステルの動きがぴたりと止まった。


 「ど、うして」


 乾きのせいなのか、喉が張り付いてうまく声が出ない。


 「元々帝都に到着するまでの契約だったから、破棄とは違うか。契約満了、だな。」

 「ラトさん!?」

 「言い方を変える。エステル、俺は、君との関係そのものを解消したい。」


 急激に動悸が激しくなり、エステルは手で自分の胸を強く押さえた。目の前にいる冷静で感情の見えない目をしているこの人は、本当に自分のよく知っている『ラト』なのだろうか。


 「関係を、解消…」


 ラトはあからさまにエステルから顔を背けた。


 「君といれば俺の一族の呪いは消え去るんだと期待していたんだ。だから君に気に入られようと試行錯誤してみたし、恋人という関係にまで持ち込んでみた。でも、君に痛みを吸収してもらった後も俺のこの能力は消えていないし、多少の痛みは戻ってしまった。」


 エステルは勢いよく顔を上げる。込み上げる涙は今にも溢れそうだった。


 「じゃあ、今までの全てが嘘だったと言うの?そんなはずはないわ!だって、だってあんなに…」


 ラトは大袈裟にため息をついてみせた。


 「はああ。…あのさ、自分の人生が変わるかもしれないんだ、いくらでも耳障りの良い言葉は吐けるよ。でも、今回の件でよくわかった。君には、俺の呪いは解けない。」

 「…!」


 うっすらと浮かんでいた涙が、一筋だけ、頬を滑り落ちた。


 「とにかく、俺は東の大陸には一緒に行けない。…じゃあ、元気で。」


 それだけ言うとラトはほとんど音も立てず、風のようにエステルの部屋を去っていった。




 《聖道暦1112年4月30日》



 「エステリーナ、準備はいい?」

 「ええ。…メルナ、色々とありがとう。」


 エステルの手を、メルナが優しく握りしめる。


 「いいのよ。もう、平気?」


 胸の焼け付くような痛みは、ずっとそこにある。でもそれは隠しておかなければならない。


 「もちろん!完全復活してるわ。メルナのおかげね!」


 エステルはここ数日多用している『安心させるための笑顔』を慌てて引っ張り出した。


 「馬鹿ね。私にまで気を遣わなくていいの。笑顔なんて、もっと後でいいのよ。」

 「…」


 だが貼り付けてしまった笑顔は、もう歪ませることも泣き顔に変えることもできなかった。心を閉ざしてしまったエステルは、涙の出し方すら思い出せなかった。


 「いつか思い切り泣けるといいわね。でも今は、あなたの目的を達成していらっしゃい。そして絶対にここに戻ってきて。あなたの居場所、心の拠り所は私が引き受けるわ。」

 「メルナ…」


 するとメルナは悪戯っぽく微笑んでから言った。


 「もちろんアランでもいいのよ?最近あなた達が仲良くしているの、私知っているのだから。」

 「…先生とはそんなんじゃないわ。でも、たくさん助けてもらった。本当に感謝しているの。」


 ラトがメルナの屋敷を去った後、アランタリアはずっとエステルを気遣い、傍に居続けてくれた。彼は宣言通り一切エステルに触れることもなく、愛を囁くこともなく、ただ日常の何気ない話をして、一緒にお茶を飲んでくれた。


 「本当は東の大陸に同行させてあげたいところなのだけれど、ごめんなさい、どうしても今彼を帝都から出すわけにはいかなくて。」


 エステルはゆっくりと首を振った。


 「いいのよ。本鑑定は終わったのだし、もう誰にも狙われる理由はないわ。向こうに着いたら無理せず安全を第一に過ごすから、心配しないで。」

 「わかったわ。ヒューイットへの手紙も必ず彼に渡すから安心してね。」

 「ありがとう。じゃあ、行ってきます。」

 「ええ。あなたが帰ってくるのを楽しみに待ってるわ。」



 メルナの見送りを受けて玄関の外に出ると、今度はアランタリアが待っていた。


 二週間ほど前に旅立とうとしていた時はまともに挨拶もできなかったため、こうしてゆっくりと別れが言えることを、エステルは少し嬉しく思っていた。


 「先生…ううん、アラン。」

 「エステル、そう呼んでくれて嬉しいよ。忘れ物はない?」

 「ふふ!アラン、まるで世のお父様方のようなことを言うんですね!」


 アランタリアは眉根を下げて言った。


 「ははは!お互い家族には恵まれていなかったから、お互いが家族、ということでいいのかな?」


 エステルもまた笑顔を返して言った。


 「家族…そうですね。私にも、本当の家族がいるのかな。」


 その時、アランタリアが弾かれたようにエステルを抱きしめて言った。


 「家族が見つかっても見つからなくても、ここで俺が待っているから。エステル、俺はいつでも、君の家族になれるから。」

 「アラン……」


 目を瞑ると、瞼の裏でラトが柔らかく微笑んでいる。エステルはまだ、アランタリアの優しい想いに返す言葉は何一つ持ってはいなかった。


 「じゃあ、行ってきます。」


 アランタリアはゆっくりとエステルから離れた。


 「うん、気をつけて。俺はずっとこの町で、君を待っているから。」



 皆に丁寧に別れを告げたエステルは、メルナの屋敷を離れると、馬車に揺られながらローレンの待つあの港へとまっすぐ向かっていった。


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