61. 海からの使者
《聖道暦1112年4月18日》
「おやエステリーナ、だいぶ早く来たんだね。」
手ずから入り口のドアを開けてくれたローレンに笑顔を向けたエステルは、促されて店の中に入った。その後ろにはエマが護衛として控えている。
今日はとうとう東の大陸に向けて出発する。
ラトの方はまだ前日のゴタゴタが続いているらしく、メルナを通じての伝言で「午後には間に合うように港に行くから」とのことで、ここにはエマが同行してくれた。
「ローレンさん、こんにちは。今日からよろしくお願いします。」
「ああ。ところで、そちらのお嬢さんは?」
エステルが簡単にエマを紹介すると、「そうかい、じゃあ一緒に昼食をとろう」とお誘いを受け、三人で近くのレストランへと移動する。
この日は朝からどんよりとした天気で、正午近いこの時間でもまだ外が暗く感じられるほどだった。
「嵐にならないといいけどねえ。ベテランの船乗り達に聞いたら、今日は何とか大丈夫だろうとは言っていたが。」
ローレンは空を見上げ、この後の天候の変化を心配してくれている。エステルもまた、今にも落ちてきそうな灰色の塊を見つめながら、何か暗く小さな予感を感じていた。
ローレンおすすめのレストランでの昼食は最高だった。新鮮な海鮮を使った料理に舌鼓を打ちながら、お互いの近況について語り合う。
そして最後のデザートを楽しんでいた時、エマがふと思い立ったかのようにローレンに問いかけた。
「ローレン様はどうして、エステリーナ様とこんなに仲良くなられたのですか?」
するとローレンはエステルに向けてにっこりと微笑んでから、エマにとある昔話を語り始めた。
「あれは七年前だったかなあ。その月はローゼンでの仕事にかかりっきりになっててねえ。その仕事が成功すれば今後新たな顧客が開拓できるっていう重要な時期だったんだ。でもその分無理をしちゃっててね。」
ローレンはそこでグラスに入った水を飲み干すと、一息ついてから話を続けた。
「あんまりに疲れてたもんだから、珍しくその日は酒二杯程度で酔っちゃったんだよ。今日みたいに海岸沿いにあるレストランで食事をしてたんだけど、そこのテラス席のすぐ真横が海だったんだ。もう想像できるかもしれないけど、食事を終えてふらつきながら歩いてたらさ、私ったらそのテラスの柵を越えて海に落ちちゃったんだよ。」
「まあ!」
エマの本気で驚く顔が可愛らしい。エステルはつい笑ってしまってからそっと口を手で隠した。
「後で聞いたら、私の連れはみんなオロオロしちゃって何にもできなかったらしいんだ。そしたらさ、そこにたまたま居合わせたエステリーナが、当たり前のように海に飛び込んで助けに来てくれてねえ。ありがたいことに私はすぐに助かったんだが、今度は助けてくれたエステリーナが突然錯乱して溺れかけたんだよ。」
この話はローレンから何度も聞いているが、その日に起きたことをエステルはぼんやりとしか覚えていない。だがなぜかあの時、突然自分でも理由のわからない恐怖に襲われたことだけは、強烈に覚えている。
「すぐに一緒にいたヒューイットが助けてくれて、事なきを得たけどさ。いやあ、あの時は一気に酔いが覚めたよ。こんな婆さんを助けようとして若い命が失われていたとしたら、私は自分が許せなかっただろうから本当に良かった。まあそんな訳で、エステリーナは私の命の恩人だし、それ以来ずっと親友でもあるんだよ。」
「そのようなことが……お二人ともご無事で何よりでしたね!ちなみにエステリーナ様は、水に何か嫌な思い出をお持ちだったのですか?」
エマのその問いは、エステルの記憶の中にあるはずのない『断片』を呼び起こす。
(何か今頭の中で、私が水の中に沈んでいくような感じが…)
だがその光景は鋭い頭の痛みと共に一瞬でかき消えてしまい、エステルはゆっくりと首を振った。
「いえ、特に何も。」
そうしていつも通りの笑顔をエマに向けると、彼女はほっとしたような表情で頷いた。
昼食を終えて外に出ると、体に纏わりつくような嫌な湿気を感じて海を見た。この柔らかな潮風のせいなのか、それとも…
その時、少し先で停泊している船が大きく揺れるのが見えた。次に激しい水飛沫の音、そして人々のどよめきが聞こえてエステル達に緊張が走る。エマは素早くエステルの前に出て言った。
「エステリーナ様、お気をつけください。」
「ええ、でも、何事かしら?」
エステルは肩掛けの形になったあの精霊道具入れの中から、いつもの短剣を探り出して手に持った。
「エステリーナ」
短剣を持つ手をローレンがそっと押さえる。エステルが振り返ると、彼女はいつになく厳しい表情になっていた。
「あんたはいつだって自分のことより他人のことを考えてる。それが悪いっていうわけじゃないが、自分も誰かの大切な人だってこと、忘れちゃいけないよ。」
「それは、どういう…」
言葉の意味はわかるが、今の状況とどう関係がある話なのか、それがいまいち理解できない。ローレンはエステルの腕から手を離すと、再び念を押すようにこう言った。
「あんた自身のことももっと大切にするんだ。自分を切り売りするような人助けは、きっとあんたのことを大事に思っている人を傷付けるよ?」
「…」
これまでの自分自身の行動を全て見透かしたようなその言葉に、エステルは言葉を失う。そして同時にあの小さな予感が恐ろしい事態へと発展しつつあることを、エステルは直感的に感じ取っていた。
その瞬間、ザバーーン!!という大きな波が弾ける音が辺りに響き、エステル達はハッとして音の鳴った方向に素早く目を向けた。すると何隻もの船が大きく揺れて互いにぶつかり合い、男性達の悲鳴が上がった。
「エステリーナ様、あちらで何か起きているようです!今は状況を把握するより、まずはここから離れましょう!」
「でも!」
そこでふとエステルは、あの『バロフ』という異界の生き物と出会った時のことを思い出した。
(そうだわ、あの時ラトさんに言われたじゃない。ここで無理をしたらまたあの時と同じことになってしまうわ!)
ローレンの言葉とその時の記憶が交叉したエステルは、出かかった反論の言葉を引っ込めた。
「そうね、今はとにかくこの場を離れましょう。」
二人は大きく頷き、急いで海辺から離れようと動きだした。だがまるでその動きを誰かに読まれていたかのように、大きく揺れる船が一隻、また一隻とエステルに近付いてくる。
「何か来る!…エマ!」
「はい!」
「私も必ず逃げるから、ローレン様を連れて先に逃げて!」
「エステリーナ!?」
「エマお願い!きっとすぐにラトさんが来るから大丈夫!早く!!」
「は、はい!!」
ローレンの視線が突き刺さる。だがエステルはなぜかあの波が自分を追ってきているような気がして、どうしてもその場から離れられなかった。
(ここで一緒に逃げれば、あの二人も巻き込んでしまう!)
二人が走って遠くに逃げていくのを確認すると、エステルは短剣をしまい、袋の中に入っている巨大な剣を引き摺り出した。
この袋もまた精霊道具。所持しているだけで多少の集中力は日々削られていくが、その分本来であれば持ち歩けない物まで重さを感じずにしまっておくことができる。
「カイザー様、この剣を使うことをどうかお許しください…」
エステルは手にしっかりと馴染むように何度も柄の部分を握り直すと、精霊の力を借りるべく、そこに唇を軽く当てた。
するとそれまでかなり重さを感じていたその剣が、まるで風が味方をしたかのようにふんわりと持ち上がり、美しい彫刻が刻まれた鞘が瞬時に消え去った。
「ありがとうございます。お力、お借りします。」
巨大な剣を軽々と持ち上げたエステルの横を、人々が慌てふためきながら逃げていく。あちこちから上がる悲鳴、辺りに投げ出された荷物達。
そしてそれはついに、エステルの目の前に姿を見せた。
バッシャーン!!
波飛沫がエステルの髪も服も浸食し、口の周りに付いた塩気を軽く手で拭う。
するとその動きと連動するかのように目の前の船が大きく持ち上がり、隣の船の上に轟音を立てながら倒れていく。そしてその後ろから、見たことも無いような奇妙な形の魔獣が姿を現した。
「長い!蛇みたい……」
エステルがこれまで見てきた魔獣達は、どれも足がある動物に似た姿のものばかりだった。だがこれは違う。足らしきものが存在せず、体全体で這うように移動している。
確かに動きは蛇そのものだが、よく見るとその見た目は蛇とはかなり異なっていた。体に対して口は異常なほど大きく、尖った牙は何本も剥き出しになっている。巨大な目は四つ、頭から飛び出るように付いており、それぞれが好き勝手な方向を向いてギョロギョロと動いている。
そしてその魔獣は体中から染み出した黒い粘液のようなものを地面に滴らし、自身の重い体とその体液を引き摺るようにしてズズズとエステルの方へとにじり寄ってきていた。
「うっ…すごい臭気ね。できるだけ体に触れないように、一気に斬るしかないわ!」
恐怖も甘えも、今は全てを忘れよう。今思い出すべきは、カイザー様から教わった剣術だけ。
エステルはポタポタと髪から滴り落ちる水をどこか遠くに感じながら、一気に精神を集中させていく。
その時、魔獣の四つの視線全てがエステルに狙いを定めたことを全身で感じ、総毛立った。
「来る!」
しっかりと、だがしなやかに握りしめた剣を素早く動かし、黒い巨躯に最初の一撃を加える。
ガガガガガッ
腕には感じたことの無い衝撃が走る。だが感触は悪くない。
ビイイイイイ!!
魔獣の鳴き声なのだろうか、耳を塞ぎたくなるような奇妙で不快な高音が辺りに響き渡る。
だが魔獣はまだ生きている。
エステルは剣を構え直すと、先ほどより明らかに大きく開いた魔獣の口を見て眉を顰めた。
「冷静に!もう一回!!」
再び襲い来る魔獣。迫り来るその速度は上がり、体から噴き出る黒い体液とその異臭に意識が奪われそうになりながら、エステルは重心を低くし渾身の力を込めて、その首から腹までの部位を一気に切り裂いた。
「ぐっ…お、もいっ…!!」
手にかかる予想以上の重みと衝撃、だがここで手を離すわけにはいかない。
(もう駄目かも…)
腕全体が痺れ、肩が悲鳴を上げている。黒い液体がぼたぼたと顔や体にかかり、じりじりと皮膚が焼け付くような痛みも感じる。
そうして最後の砦である精神力すら奪われていく中、先に意識の方が薄れ始めた。気がつくと目の前には、海水とあの黒い液体に濡れた地面が迫っている。
「エステル!!」
(この声、は)
ふっ、とそこで音が消え、エステルは一瞬にしてその視界も意識も、全ての感覚を手放していった。