60. 原料
《聖道暦1112年4月17日夕方》
久々に見上げた大神殿が、ラトの目の前に巨大な影を落として立っている。美しいはずのその場所には、見えない部分にいくつもの澱みを隠しているのだろう。
そして見えないこの澱みが徐々に範囲を広げつつあることを、ラトは今その肌で感じ取っていた。
(四十年前のあの時もそうだった)
何かとんでもないことが見えない場所で始まっている恐怖。じわじわと追い詰められていくような逃げ場のない日常。
「もうあんな時代が繰り返されないように、エステルがこれから先幸せに生きられるように、俺のことはいいから、どうかみんなを守ってくれないか、アシュタール…」
滅多に口ずさむことのないその祈りの言葉は、立ち止まった神殿の影の中でほろほろと解けて消えていった。
この数時間前。エステルを傷つけてしまった例の言葉についてきちんと説明を終えたラトは、再びサーシャと会うことを許可してほしいと彼女に願いでた。今回はもちろん、その行動の意図や内容についても包み隠さず説明もした。
エステルは最初こそ少し悲しそうな表情を見せていたが、全ての説明を終えるといつもの笑顔を取り戻し、「仕方ないなあ」と言ってラトの首筋に抱きついた。
(ああ、可愛かったな、さっきのエステル…)
豊かで美しい黒髪も、柔らかく適度に引き締まったその体も、あの耳に優しい声も、彼女の全てが愛おしい。
(しっかりしろニコラ!明日エステルと一緒に船に乗るためには、今日のうちに全てを終わらせる必要があるんだからな!)
ラトは改めて気合いを入れ直すと、再び歩みを進めていった。
大神殿の中に入ると、以前ここに来た時ほど混雑はしていなかった。そこには祈りを捧げる人達がまばらにいる程度で、前回あれほど多かった神官達の姿も、今日は二、三人が暇そうに歩いているだけだった。
ラトは当然、この礼拝堂自体に用があるわけではない。広々としたその場所を抜けると、左手の奥の壁に付いている小さな窓のところまで歩いていく。
窓の中には事務室のような場所が広がっており、この日の受付担当らしき女性が窓のすぐ横の席で何やら書類仕事をしているようだった。
ラトはその窓に手を掛け、笑顔を引っ張り出した。
「すみません、こちらに所属しているサーシャという神官見習いの方は、まだ建物内にいらっしゃるでしょうか。」
できるだけ明るい口調でそう尋ねてみたが、窓の内側に座る神官の女性はラトのことをまるで不審者でも見るような目つきで睨んでから、ボソッと返事をした。
「神官見習い達なら、あと数分で座学が終わって上の階から降りてくるはずです。ところで、サーシャさんにどのようなご用件で?」
上から下までジロジロと品定めされてしまったラトは、苦笑しながら「彼女の友人として会いに来ただけ」と返す。すると目も合わさずに「では外で待っていてください」と冷たくあしらわれてしまう。
仕方なく元来た道を戻って神殿の外に出ると、先ほどまで礼拝堂の中で祈っていた人々がラトの横を通って帰っていく姿が見えた。
(帰る場所があるって、幸せなことだよな)
根無草のように生きる今の自分は、果たしてどこに帰ればいいのだろうか。
その時ふと思い出したエステルの笑顔が、ラトの暗くなっていた心の中で優しい明かりとなって浮かび、そして消えていく。
(そうだな、俺の居場所はエステルがいるところだよな。そして俺が、彼女の居場所になればいい)
そんなことを考えながら先ほどよりも長く暗い影を落とす神殿を見上げていると、聞き覚えのある高い声がラトの思考を遮った。
「ラト!会いに来てくれたのね、嬉しい!」
「サーシャ!突然来て悪かった。今日は忙しい?」
「ううん、大丈夫。どうしたの?」
「…実は俺、明日仕事の都合で帝都を離れることになってさ。しばらく戻ってこられないと思うから、どうしても最後に君に会っておきたかったんだ。」
サーシャの目が大きく開き、何かを言おうとしたのか、口元が僅かに動いた。しかし彼女はすぐにその開きかけた口を閉じると、ラトの手を引いて勢いよく歩き始めた。
「サーシャ?どうした?」
「いいから、来て!」
「…」
少し怒った顔でラトの前を歩くサーシャ。その髪には、ラトが贈ったあの髪飾りがきちんと留められていた。
(感情が昂った時こそ、人は間違いを起こしやすい)
ラトは怒りを抱えた様子のサーシャを冷静に見つめながら、彼女が導く方へと大人しく引っ張られていった。
「それで、さっきの話って本当なの?」
大通りの一本裏にある人気のない通りに入ったところで、サーシャはラトに詰め寄りながらそう言った。その顔は怒っているというよりも、もっと何か不機嫌さや苛立ちを感じるような表情をしていた。
「ああ。俺が護衛の仕事をしているって話は前にしたと思うんだけど、今回は急遽決まっちゃってね、先方の都合で。」
ラトは何気ない調子でそう答えると、次の彼女の動きを待つ。するとサーシャはラトから視線を逸らし、無意識のうちに指を口元に寄せて爪の辺りを噛み始めた。
(計画通りに行かずに苛立っているようだな。さあ、どう出る?)
時々横を通り過ぎる人々は、関心も無さそうにチラリとこちらを見て去っていく。おそらく彼らは表通りに面した店舗の従業員なのだろう。裏口からゴミのようなものを運び出したり、帰宅したりする人々が徐々に増えていく。
「ねえ、ラト。それなら最後に一緒に行きたいところがあるの。」
少しぼんやりと辺りを眺めていたラトに、サーシャがそう言いながら近付いてくる。先ほどまで苛々と口元に動かしていたあの手は、胸の前で握りしめるようにしてラトの胸に当てていた。
柔らかな女性らしい香りがラトの鼻腔に漂う。
「いいよ。じゃあ、行こうか。」
「嬉しい。じゃあ大通りに出ましょう?」
そうして二人は寄り添って歩きながら再び大神殿の見える大通りへと戻っていった。
辻馬車に乗り込み二人が向かった先は、帝都北部にある工場地帯だった。
精霊の力を借りることのできなくなった現代。便利な道具や特殊な道具などの多くは、この北部の工場地帯で開発、生産されている。北西部には大きな港があるため、必要な物資はそこから運ばれてくるらしい。
帝国は他国の追随を許さないほど先進的な技術を持っており、各国から専門性の高い職人達が集まっていることでも有名だ。
ラトはこの地域にはあまり縁が無く、ほとんど来たことはなかった。土地勘が無いため一瞬戸惑ったが、サーシャはまるで自分の庭かのようにするすると細い路地を進んでいく。
「サーシャ、こんな場所に一体何があるんだ?」
ラトは歩きながらそんなことを尋ねてみるが、彼女はふふっと意味ありげに笑うだけで、内緒だと言って場所も目的も教えてはくれなかった。
十分ほどそうして入り組んだ道を歩いていくと、少しだけ開けた場所に出たところでサーシャは立ち止まった。
「ねえ、ラト。あなたは私のものになってくれると言ったわよね?」
再びしなだれかかるように抱きついてきたサーシャを受けとめると、彼女はうっとりとした表情で唐突にそう言った。
「ああ、そうだね。」
サーシャの手はもう能力の発動を隠そうとすらしていなかった。それが精神に働きかける作用のあるものだと、ラトは既に理解している。
そこでラトは、彼女のそんなあからさまな動きなど見ていない、というふりをしながら、突然よろめいて近くにあった建物の壁に寄りかかり、額に手を当てた。
「うっ…」
「さあ、私と一緒に来て。」
「…」
差し出された手を素直に握りしめると、ラトはサーシャの誘導に従い再び移動を始めた。さらに細い道に進みその奥にあった階段を降りていくと、彼女は半地下にある古びたドアをギギギという嫌な音を立てて開いた。
サーシャは振り返って笑みを見せる。その笑顔の向こうには、微かな光がポツポツと灯されている暗く奥行きのある部屋が見えた。部屋といっても住居として使われているような場所では無いようだ。
「ここは…」
「ここはね、すごく素敵なものを作っている場所なのよ?あなたにもぜひそれを体験してほしくて連れてきたの。」
「作ってる…何を?」
サーシャは再び微笑みを見せると、まだ握ったままの手を再び引っ張り、光を放っているランタンの一つを手に取ってさらに奥へと進んでいく。
「ほら、見て!」
ランタンの光が大きなガラス瓶に反射している。その瓶は上下に分かれた棚に何十本も並んでいる。だがその中には何も入っていない。ただ黒い空間が広がっているだけで…
「いや、違う。何だこれ?」
瓶の中身は黒い空間では無かった。何か黒く小さな粒状の物体が、その中にびっちりと詰まっていたため黒い空間に見えただけだったのだ。
唖然とするラトから手を離したサーシャは、瓶の側面をさも大切なもののように撫でながら言った。
「これ?これはね、私が貴族や裕福な人々を妬み嫉んでいる貧しい人々に増やさせた大切な子供達よ。見てちょうだい、こんなにたくさん増やしたの!リリアーヌ様にもすっごく褒められたのよ?」
その言葉を聞いてハッとしたラトは、再び瓶の中身に目を向けてようやく気付いた。
それは、あの異界の黒い虫だった。
「まあ、びっくりしちゃったのね!でも大丈夫。リリアーヌ様にもあなたのことは優しく導いてあげてと言われているから。」
「…サーシャ、これをどうする気なんだ?」
大抵のことには冷静に立ち向かえるラトだが、サーシャの狂気に触れて少しだけ背筋が寒くなる。彼女はそんなラトの気持ちに気付く様子もなく、嬉しそうにこう告げた。
「もちろん一緒に飲み込むのよ。心配はいらないわ、ちゃんとお薬になっているから。リリアーヌ様がね、ラトを私のものにしたらこのお薬を私にもたくさんくださるんですって!あのお薬を飲むとみんな心が解放されて幸せになれるのよ?だからラト、あのドアの向こうに一緒に行って、一緒に幸せになりましょ!」
(そうか、彼女はまだあの薬を飲んでいないのか)
一筋の希望が見えたラトは、ふと辺りにサーシャ以外の人間の気配が現れたことに気付いた。
「サーシャ、君がまだ薬を飲んでいなくて良かったよ。君のことは今一瞬で嫌いになったけど、若く可愛らしい女性に『分離』を使うのは、結構精神的に辛いものがあるからさ。」
「はあ?」
サーシャの眉間に深い皺が寄る。
「何あんた、もしかして『精神干渉』が効いてないの!?」
その瞬間、周囲から一気に殺気が溢れだす。一人、二人、三人…五人いるのか。
「同じ能力持ちなら、強い方が有利に決まってるだろ、サーシャちゃん?」
「はああああああ!?」
サーシャの顔が限界まで憎悪に歪むのを見届けると、ラトは大きくため息をついて額に指を添えた。
「まあとにかく、色々と、ごめんね。」
そうしてラトはその暗い半地下の建物の中で、「あの瓶を割らないように暴れるのは面倒だなあ」などと考えながら、ものの数分でその場を制圧していった。