59. 歩み寄りながら
《聖道暦1112年4月17日》
ラトはこの日、サーシャの足取りについての有力な情報をついに手に入れた。
(呼応石を仕込んで正解だったな。思っていた以上に早く動きが掴めた!)
彼女の日常の動きは至って単純なもので、日中は見習いとして大神殿で座学や下働きをして、夕方以降は自宅に戻るか、時々帝都内の小神殿にてちょっとした手伝いをするといった程度のものだった。
ところが昨日彼女は突然、周囲を警戒しながら夜間に自宅を出たらしい。近くに止めてあった荷物運搬用のロバ車を当たり前のように動かすと、そのまま帝都北部にある工業地域へと移動していった、とのことだった。
その後彼女は人通りが少ない通りまで移動すると、そこからは素早く徒歩で移動し、狭く入り組んだ路地のどこかへと消えていったそうだ。
「部下達もね、彼女が向かった方向だけは掴めたようなの。でも建物の中に入ってしまうとそれ以上の追跡は難しいのよね…」
その報告をしてくれたメルナの言葉からはひしひしと悔しさが伝わってくる。それならばもう少し自分が動く必要があるだろうとラトは判断し、メルナとの会議後、これからやるべきことを頭の中で整理し始めた。
「まずは…エステルともう一度きちんと話すこと、そこからだな。」
二日前のこと。
ラトはアランタリアから「エステルに結婚の申し込みをした」というとんでもない話を聞かされた。それは慢心していたラトを動揺させるには十分な内容で、それまで考えないように、触れないようにしてきたこと、自分が「呪われた一族」の最後の一人であることを、改めて突きつけられた思いだった。
だがその動揺した精神状態のままエステルに「結婚はできない」という宣言をしてしまったせいで、それ以降彼女との間にはずっと気まずい空気が流れている。
(その場できちんと説明しなかった俺が全面的に悪い。だけどあの時はまさか、彼女があんなに一瞬で心を閉じてしまうとは思わなかったんだ…)
ラトにとってエステルは、誰よりも何よりも大切な存在だ。
だからこそ、自分の一族の呪いを彼女に背負わせるわけにはいかない。
父には必死で隠していたようだが、生きていた頃の母はいつもその心に秘めた苦しみを抱えているようにラトには見えた。
本来であれば受けなくて済んだはずの重い呪い、父を愛したことで捻じ曲げられてしまった自分の運命。
母はきっとそれらの全てを、深く恨んでいたのだろう。
(だから俺は、エステルにはそんな思いをさせたくない。絶対に!)
ラトは重い足取りでエステルの部屋に向かうと、数秒待ってからそのドアを叩いた。
― ― ―
「はい?」
小さなノックの音、誰かがドアの向こうにいる気配。エステルは書き損じてしまった便箋をくしゃっと丸めてごみ箱に捨てると、席を立ってドアを開いた。
「エステル、今いいか?」
「ラトさん?…はい、どうぞ。」
二日前から極力ラトと顔を合わせないようにしていたのだが、こうして部屋に来てしまったならばもう向き合うしかない。
彼の顔を見た途端、エステルは蓋をしていたあの日の感情を蘇らせていた。
苦しくなっていく胸の内を無表情の下に隠して、躊躇いながら彼を部屋に迎え入れる。ラトが中に入りドアが閉まると、顔を背けた状態で彼の近くに立った。
「突然ごめん。この間のこと、今日こそきちんと説明させて欲しくて。」
チラッと彼の様子を窺うと、余裕の無さそうなその顔が思ったよりも近くにあった。エステルはドキッとして一旦目を逸らしたが、覚悟を決めて体勢を変えると、彼の視線をまっすぐに受けとめながらそれに答えた。
「わかりました、今日は最後まで聞きます。」
二人は椅子にもソファーにも腰掛けず、立ったまま話を始める。
「二日前に話したこと…覚えてるよな。」
「…はい。」
ラトの声が少し震えている。エステルはついその腕に触れて励ましたくなり、慌てて自分の手を押さえる。
「もう一度言う。俺は君と一生一緒に居たいし、君を誰にも奪われたくない。だけど、どうしても結婚だけはできないんだ。…理由はきちんと説明するから、今日は心を閉ざさずに聞いてほしい。」
エステルは彼の苦しむ表情をしばらく見つめていたが、湧き上がる感情に押し出されるように、とうとう彼の頬に手を伸ばしてしまった。
「エステル?」
(そうだわ。この人にはきっと長く辛い過去がある。前にもラトさんは、まだ言えないことがたくさんある、と言っていた。私はあの時そんな彼を全て受けとめていくと決めていたはずなのに、どうしてそんな大事なことを今まで忘れていたんだろう?)
「うん、聞きます。だから話して?私ラトさんのこと、もっと知りたい。」
触れた手には、少しだけ伸び始めた髭の感触が伝わってくる。無精髭を適当に伸ばしていた頃のラトが、なんだか今はすごく懐かしい。
「ありがとう、エステル。」
ラトは頬に乗せた手を優しくその長い指でなぞると、目を少し伏せるようにしながら話し始めた。
「俺の名前、『マリシュ』という名は、神話の時代から続いている特別な名前なんだ。あまり公にはされていないが、知っている人は知っている。それは……聖獣を殺した男の名だ。」
エステルはその驚くべき話に息を呑んだ。確かにその話は誰もが知る神話の一部ではあるが、まさか今目の前にいるラトが、その神話に出てくる男の子孫だとは思いもしなかった。
「だからそんなに長生きなんですね。」
「ああ。その時にかけられたアシュタールからの呪い、いや、これは罰だったんだろうな。そのせいで俺の一族は全員嫌になるほど長寿だったし、皆人並外れた高い能力を持っていた。」
「そうだったんですね…でも、それと今回の話がどう繋がってくるんですか?」
眉間に小さな皺を寄せたラトが、エステルの手を引いてソファーに座らせる。だが彼は隣には座らず、目の前にしゃがんで床に膝をついた。
「俺達の一族には必ず男児一人だけが生まれる。父も、その父も、ずっとずっとそうだった。俺が知っている限り親戚の家も全員そうだったし、おそらく一族の者は何百年も同じ運命を辿ってきたんだと思う。そしてそれは…その呪いは、一族の妻となった女性にも影響するんだ。」
「え?」
妻、という言葉に少しだけドキッとしたエステルは、何度か瞬きをしてから続きの言葉を待った。するとラトは、これまで以上に言いにくそうにこう言った。
「この一族の者と結婚し子を成せば、その妻である女性にも呪いの影響が出る。それはつまりその女性にとって、それまで当たり前のように繋がっていた人々との離別を意味するんだ。」
「…」
つい黙り込んでしまったエステルに、ラトが泣きそうな顔で手を伸ばした。その大きな手が頬に触れ、頭を撫で、そして言った。
「生きる速度が違うというのはそういうことなんだ。俺はずっとその苦しみの中で生きる母を見てきた。自分自身も同じ苦しみの中で生きてきたんだ。だからこんな辛い思いを、大切な君にさせたくはない!」
「ラトさん…」
どれほどの思いを抱えて、彼はここまで生きてきたのだろう。
大事な人達は皆自分を置いて去っていく。見送るだけの自分、置いていかれる悲しみ、孤独、不安…
生まれた時から自分の運命を知っていた彼ですら、こんなにも苦しんでいる。それならば結婚したことで大きく変わってしまった人生を、彼の母親はどう感じていたのだろうか。
(わからない、私にはまだ想像もつかない。でも…)
エステルが目の前の彼に意識を戻すと、ラトの手はエステルから離れ、彼が下を向いてため息をついているのが目に入った。
(ああ、それでも私は、この人と生きていきたい)
「ラトさん」
「うん?」
「私、そもそもあなたと結婚するなんて一言も言っていませんよ?」
「…え?」
ラトの顔が勢いよく上を向く。
「ふふ!冗談です!でもねラトさん、私もあなたとずっと一緒に居たい。だから、これから二人で探してみませんか?あなたの呪いを解く方法を。」
(目の前にある不幸をただじっと見つめているなんて、私の性に合わない。これまでもこれからも、私は私のできることをするだけ!)
「いいのか、本当に。」
ラトの顔に生気が戻っていく。
「はい。」
「若くて美しい君が、俺のせいで婚期を逃すかもしれないんだぞ?」
「今さらです。家を出た時から覚悟していたことですから。」
「先生が、もう一度君に結婚しようと言うかもしれない。」
エステルはその言葉についむっとして、ラトの頬を思いっきりつねった。
「いたたたた!何するのエステルちゃん!?」
「そんなことを言うラトさんは嫌いです!私が先生のところに行ってしまってもいいんですか!?」
その瞬間、ラトの顔がすうっと青ざめていくのが見えた。
「嫌だ…それは絶対に嫌だ!君と家族になれる未来が今は見えなくても、どうしても俺は…」
彼の右手が、エステルの首筋に伸びる。
首元に暖かく大きな手の感触が届き、エステルはその手に導かれるように前屈みになった。
(ラトさんの瞳、相変わらず綺麗ね…)
「君と離れる人生はもう考えられないんだ、エステル。」
「私も、です。」
そうして二人はどちらからともなく唇を寄せ合い、穏やかで柔らかなキスを交わした。
「もう心配なことは無くなりましたか?」
エステルがそう言うと、ラトはくしゃっと目元に小さな皺を寄せて笑った。
「今のところございません、俺の大好きなエステル。」
「何それ?変なラトさん!」
ふざけ合い、何気ない言葉で笑い合う時間。
お互いにぶつかったり離れたりしながらでいい、いつまでも二人でこんなささやかな時間を共有できますように…
エステルはまるでそれが叶わない願いかのように、心の中で必死に祈り続けていた。