⒌ お宿騒動
《聖道暦1112年3月8日》
人は相手とまともな会話ができない時、たいていの場合強い苛立ちを感じるだろう。
普段なら自分の気持ちを上手に制御できるエステルもまた、のらりくらりと人の話を流してしまうこの男には、そろそろ限界を感じ始めていた。
「いてててて!!何するのエステルちゃん!?」
「もう!いい加減に教えてくださいよ!子供達はこれからどうなるんですか?昨日のあの兵士達はどうしてあそこに居たんです?それに私の誕生日を知っていたのはなぜ!?」
昨日から馬車の中で何度も問いかけたそれらの質問に、ラトは寝たふりをするか適当にはぐらかし、何一つまともに答えようとはしてくれなかった。限界を迎えてとうとう怒りをぶつけたくなったエステルは、寝ているラトの耳をぐいっと引っ張り、耳元で今の言葉を叫んでいたのだ。
「わかった、わかったって。とりあえず子供達に関しては、あの後どうなったのか俺も詳しくはわかってないから明日会いに行こう。兵士の件は、昨日ここに来た時に子供達の話に俺が説明を付け加えたら、この機会にあいつらを捕まえたいって話になってああなっただけ。奴らは姉弟で恐喝、人身売買、窃盗、あらゆる悪どいことをしてきたらしい。親から継いだ酪農の仕事だけじゃ、満足できなかったんだろうな。」
ラトはそこまで一気に話すと、はあぁ、と大きく息を吐き出す。
「それで、誕生日の件は?」
実は密かに一番気になっていたことが、これだ。エステルが低い声で再度尋ねると、ラトはあっけらかんと「だって契約書に書いてあったから」と答える。
その言葉であの日のことを振り返ってみたエステルは、びっちりと書き込まれた三枚の書類のことを思い出していた。読んでいる途中でラトがよくわからないことを尋ねてきて、最後の方はきちんと読めずにサインしてしまったような記憶がある。
「あの契約書にそんなもの書かれていたかしら?」
首を捻り考えたが、控えはローゼンの町の自分の貸金庫に置いてきてしまったので詳細は不明だ。ちなみにその貸金庫は弟のヒューイットが用意してくれたもので、今後の生活のためのあらゆる大事なものがそこに保管されている。
「まあいいじゃない。それより次の町に着いたらお祝いでもする?大人になったエステルちゃんに、おじさん美味しいお酒、奢っちゃうよ?」
エステルは冷たい視線をラトに向けると、停車していた馬車を再び動かし始めた。
「結構です。昨日も結局雨のせいであの何もない小屋に泊まって疲れているんですから、早く宿で休みたいんです!」
「そっか。まあ、ゆっくり行けばいいよ。帝都は逃げないからねえ。」
「…」
(ゆっくりなんて悠長なことは言っていられない。でも焦りは禁物よ。リリム王国に入れば船に乗って一気に先へ進めるのだから)
ガタガタと、いつ壊れてもおかしくないような音を立てて馬車は進む。エステルは一日も早くこの馬車とお別れできますようにと密かに祈りながら、前へ前へと進んでいった。
夕方近くになり、ようやくこの日の目的地である『ハイラム』という町に到着した。体がどこもかしこも痛いエステルは、この町に立ち寄れることを本当に心待ちにしていた。
「ああ!やっとここに来たわ!早く温泉に入りたい!!」
この町はローゼン王国の中では珍しい、とても有名な温泉地であり、観光客や通りすがりの旅行者達の癒しの町でもある。
「温泉ねえ。まあ、疲れた体には良さそうか。」
興味が無いような顔をしていたラトも、意外と楽しみにしているようだ。
(ずっと寝ていたのに疲れるのかしら?まあでも、今回は色々助けてくれたものね…)
エステルは馬車を町の入り口で預けると、嫌味を言うのはやめて宿探しを始めていった。
数十分後。
エステルはついに目的の温泉宿を発見した。いくつか候補はあったのだが、外観の雰囲気でここがいいと直感で決めてしまった。
だがこの宿にはどうも癖の強い主人がいたようで、エステルは中に入って早々、すっかりこの男性の勢いに呑まれていた。
「これはこれは、お二人様ですねえ!うちは最高の部屋と温泉をご用意してますんでね!ああ、それと、もしお泊まりになった後にうちの紹介文なんかを書いていただけるのでしたら、一等良い部屋をなんと半額で!ご用意いたしますよ?」
「え、半額!?」
手を擦り合わせ、目尻を下げて満面の笑顔で話しかけてくるこの宿の主人は、派手な柄の緑色の上着がはち切れそうなほどふくよかな体を揺らしながらそう提案を始めた。その間ラトは明らかに「面倒だ」という顔で立っていたが、エステルはすっかり「半額」と言う言葉に魅了されていた。
「はいぃ!お客様方のようなお若いお二人に泊まっていただき、良い感想をいただけると、さらにさらにうちは繁盛しますのでねえ!どうです?ほら、この金額ですよ?」
目の前に広げられた紙に書かれた金額は決して安くはなかったが、食事と温泉貸切代込みとの追加情報により、エステルはついに心を決めた。
「そ、その部屋でお願いします!!」
「はいぃ!二名様ご案内ー!!」
「おいおい、もっとよく考えて…はぁ。」
そうして二人は揺れる緑色の体に連れられて、今夜の部屋へと半ば強引に案内されていった。
「えっと、これは一体…」
「だからよく考えろって言ったのに…」
しかしその広い部屋を前にしたエステルは、想像とは全く違うその光景に、すっかり魂が抜けたような状態になっていた。
そこは確かに広すぎるほどの良い部屋だったが、明らかに家族向け、もしくは親密な関係の二人向けの部屋だったのだ。
ベッドは辛うじて二つあったが、現時点ではそれがぴったりとくっついて置かれており、さらに大きなガラス戸の向こうには、柵に囲まれた小さなテラスと風呂らしきものが見えている。
「あの、やっぱりこの部屋はちょっと」
「ねえ、とても良いお部屋でしょう?お二人のようなお客様にはぴったりですよねぇ!…ああ、そうだそうだ!こちらも無料で差し上げておりますのでよければ使ってみてくださいぃ!では、ごゆっくりどうぞ!」
「え、あの!?」
そう言ってエステルの手に何か赤いものを押し付けた宿の主人は、にこにこしながら驚くほどの速さで部屋を出ていった。エステルは呆然とそれを眺めていたが、その後のラトの声でようやく我に返った。
「まあ、決まっちゃったものは仕方ないが…もしエステルちゃんが嫌なら、俺は外で寝るけど?」
彼は荷物を肩に掛けたままエステルの答えを待っている。どうしようかとしばらく考えてみたが、テントでも一緒に寝ていたのだから今更よねと気持ちを切り替え、エステルは勢いよく顔を上げた。
「せっかくだし今夜はここに泊まりましょう!ベッドは離せばいいし、食事付きだし、温泉も他のところで入ればいいわ!それにここのご主人も、きっと私達のことを親子だと思って」
「それはない。」
「え?」
言葉を遮られたことよりも、その否定の言葉の理由が気にかかる。
「どうしてですか?」
エステルの問いかけに、ラトは珍しく目を泳がせて言った。
「さっき貰ったそれ、この宿名物のお香なんだよ。」
「お香?」
「…だから、その、ちょっと気分が高揚する感じの…まあとにかくそれは使うなよ。絶対に!」
エステルはそこでようやくその意味を理解し、思わず顔を赤らめて持っていた赤い包みを床に放り投げた。
「ああ!な、なるほど!じゃあこれはその辺に放置しておきます!!えっと、じゃあこの部屋のじゃなく別のお風呂を探してきます!!」
狼狽したエステルは何も持たずに部屋を出ると、頭を冷やすために一旦宿の外まで出てみることにした。
― ― ―
だだっ広い部屋に一人取り残されたラトは、荷物を床に置いてベッドの一つに腰掛けた。
「はあ。まさかこんなことになるとはねえ。しかし、さっきの動揺した顔は可愛かったな…」
口に出してからラトは気付く。自分が今何を口走ってしまったのかということに。
(おいしっかりしろ!何馬鹿なこと言ってるんだ、俺は!?)
部屋の入り口近くにまだ転がっている赤い包みを横目で見ながら、ラトは深いため息と共に、長くなりそうな夜を憂いていた。
― ― ―
しばらく外を歩き、どうにか冷静さを取り戻したエステルは、夕食のために渋々部屋へと戻った。もしかしたらもうラトは部屋に居ないかもしれない。そんな期待と、なぜか不安も心に湧き上がる。
緊張しながら部屋のドアを開け中を覗くと、ベッドの上で何も掛けず、本格的に寝ているラトがいた。長い髪が横に流れ、いつもより顔が良く見える。
(あれ、この人…思っていたより、若い?)
見えているのは目の周りだけなのに、なぜかエステルにはとても若く、精悍な顔立ちの男性に見えた。
(そんなわけないわ。だって彼自身もおじさんだって自称しているし、それに…)
「そんなの、困るもの。」
自分にしか聞こえないような微かな声でそう呟くと、仄かに熱くなった気がする頬を両手で二、三度叩いてから、ラトを無理やり起こして食堂へと連れて行った。