58. 準備を整えて
「アラン、ねえアラン!聞いているの?」
エステルとラトが去り二人っきりになった応接室。ここでぼんやりと床を見つめて座っているアランタリアに、メルナは大きな声で呼びかけた。
「え?ああ、聞いていますよ。何ですか?」
「はあ。もう、しっかりしてちょうだい!あなた、昨日エステリーナと何があったの?」
ソファーの上で珍しく背を丸くして座る彼。メルナはそんな彼の前に立ち、腕を組んで問い詰める。
「ただ俺の本気を伝えただけですよ。まあ、見ての通り惨敗でしたが。」
「本気って…あなた、まだあの子のこと諦めていなかったの?」
「ええ。なんなら今もまだ諦めてはいませんよ。」
「…往生際が悪いわね。いい加減現実を見たら?」
「現実を見ているから放っておけないんですよ。あんな男に彼女のような優しい人を任せてはおけない。きっといつか、あの男はエステルを深く傷付けます。」
メルナは組んでいた腕を解くと、俯くアランタリアの肩にぽんぽんと軽く手で触れてから言った。
「そう。じゃあ納得いくまでやってみなさいな。でも無理強いは駄目よ!あなたにしては珍しく、随分と余裕の無い感じであの子に迫っていたようだから。いい?正攻法で、誠実に頑張りなさい。エステリーナは私の大切な親友なの。あなたもそれを踏まえて、もっと紳士的に接してちょうだい!」
アランタリアはゆっくりとその美しい顔を上げる。彼の瞳には僅かに光が戻っているように見えた。
「そうですね。俺としたことが余裕が無さすぎました。どうせあなたは俺を帝都から逃すつもりはないのでしょう?だったらエステルが帰ってくるその日まで、俺は帝国のためにやるべきことをきっちりこなしますよ。そして帰ってきた彼女を『紳士的に』迎え入れてみせます。」
(紳士的にと言いながら何か企んでいそうな顔ではあるけれど…まあ今は彼の言葉を信じてあげるしかないわね)
すっかりいつもの彼に戻った様子を見て安堵したメルナは、翌日に控えた大事な用件の方に、素早く話題を切り替えていった。
― ― ―
一方その頃エステルは、アランタリアとのことにしっかり決着をつけたことで、心晴れやかに渡航の準備を進めていた。
(荷物の整理と必要な物の買い出し、そうだ、その前にローレンさんに会いに行かなければ!)
一番大事なことを思い出したエステルは、詰め始めた荷物を放り出し、軽く身支度を整えると部屋の外に出た。するとそこには再びラトの姿があった。
「エステル、どこに行くんだ?」
「ラトさん?さっきどこかに行くって言っていませんでしたか?」
「ああ、それは明日にずらしたから。それより、今から出かけるのか?」
「ええ。船の件をお願いしていた方のところに、ご挨拶に行ってきます。」
「そうか。それなら俺も一緒に行く。君に……話もあるし。」
その最後の一言がエステルの動きを止める。そこに何か含みがあるような気はしたが、今は時間が限られている。
「わかりました。じゃあ一緒に行きましょう?」
エステルは不安を押し隠しながら優しく微笑むと、ラトと共に目的地であるローレンの店へと向かった。
数十分後。二人が馬車に揺られて着いた先は、帝都北西部にある大きな港だった。
なぜか「話がある」と言っていたラトは、馬車の中では一言も喋らなかった。そのせいで、先ほどから感じていた不安が徐々に大きくなっていく。
無言の車内、キリキリと痛む胃。
(話しかけたいけれど何だか怖いわ。ラトさん、もしかして怒っているのかしら?)
しばらくして馬車が動きを止め、目的地に無事到着したことを知らされる。
「あの…ラトさん、着きましたよ?」
「え?ああ、そうか。」
心ここに在らずと言った様子の彼をチラチラと盗み見ながら、エステルは先に馬車を降りた。
ここは帝国内で最も大きい港で、漁港というよりも商業港として機能している場所だ。
石畳の道が海沿いに湾曲するように続いており、そのすぐ下には木でできた桟橋が設置されている。そこからさらに沖の方へと伸びた幅の大きな桟橋には、見たこともないような大型の船がずらりと停泊し、屈強な海の男達が大きな荷物を持ってそこを行き交っている。
「エステル、今、少しいいか?」
エステルが自分の地元とは違う雰囲気の港に見入っていると、後ろからラトが声をかけてきた。エステルは少しだけほっとして振り返る。
「あ、はい!ええと、お話があるんでしたよね?」
「ああ。……なあエステル。俺、一つ君に大事なことを話していなかったんだ。」
彼の薄茶色の柔らかな癖毛が、潮風に揺れている。
(綺麗な顔…でも輪郭はすごく男性っぽくて……)
エステルが無意識にラトに見惚れていると、彼はグッと顔を近付けて渋い顔を見せる。
「エステルちゃん、聞いてる?」
「ええと、あの、み、見惚れてました……あっ!」
「み……はああ。大事な話をしようとしている時に俺を煽るのはやめてくれ。」
「ああっ、もう!変なこと口走っちゃった!」
恥ずかしさのあまりエステルが両手で顔を覆い隠していると、ラトはその片方の手を握りしめてその場を離れる。
手を引かれるままに小さな建物の裏手に回ると、彼はエステルを抱き寄せて言った。
「ほんっとに可愛いな!君はこんなに人の往来が多い場所で、一体俺をどうしたいんだ!?」
「お、落ち着いてラトさん!」
「これが落ち着いていられるか!」
ぎゅうぎゅうと強く抱きしめてくるラトの背中をパンパンと軽く叩くと、彼の腕から徐々に力が抜け、しばらくしてからようやくその腕の中から解放された。
「はあ、はあ。もう!急に、どうしたんですか!?」
エステルは必死に息を整えると、建物の壁に寄りかかったラトの顔をじっと見上げた。すると彼は思い詰めた表情を見せながら、唐突な質問を投げかけてきた。
「エステル、先生から結婚の申し込みを受けたって、本当か?」
「え…どうしてそれを……?」
彼の悲しそうな表情がエステルの胸を締め付ける。決してそのことを内緒にするつもりは無かったが、自分の口から伝える前にラトに知られてしまったことを、エステルは深く悔やんだ。
「実はさっき、エステルの部屋に行く前に先生から聞いたんだ。朝の話ってそれだったんだろう?だけど、俺は…」
「でも、私ははっきりとお断りして」
「そうじゃない、そうじゃないんだ!ただ俺は、君と……」
海鳥の哀しげに鳴く声が、潮風に乗って小さく鋭く耳に届く。ラトはその海の色のような美しい瞳でエステルを見つめながら、こう告げた。
「俺は、君と、結婚することはできない。」
「…え?」
エステルの耳はその瞬間、あの鳥の声も波の音も、全ての音を遮断した。
(そんなこと、私だってまだ考えてもいなかった…でも、改めてそんな宣言をされてしまったら、私は……)
「エステル?」
「あ、え?ああ、はい、わかりました。」
自分でも声がいつもより単調になっていることがわかる。その変化にラトも気付いたのか、彼の表情には焦りが見える。
「頼む、誤解しないでほしいんだ。決して君とのこれからのことをいい加減に考えているわけじゃなくて」
「ラトさん」
「え?」
エステルは自分の中に膨れ上がった様々な気持ちに無理やり蓋をして、にっこりと微笑んだ。
「よくわかりました。ローレンさんのお店が閉まってしまうといけませんから、もう行きましょう?」
「エステル!?」
(考えない考えない考えない。今は東の大陸に向かうことだけに集中しよう!)
胸の中で自分でも制御しきれないもやもやとした気持ちが渦巻いているのを、この時のエステルは至極冷静に感じ取っていた。
その後ローレン・ショウとの再会は、とても和やかな時間となった。
元々ローレンは、ヒューイットの仕事の関係でエステルの屋敷に来ていた時に知り合った女性だった。商才に長けた彼女は一代で財を成し、今や帝国随一の貿易商としてその名を知らぬ者はいないほどの人物でもある。各国の有力な商人や貴族達はその力と成功にあやかろうと、こぞって彼女を頼ってくるらしい。
そんな凄い経歴を持つ彼女だが、エステルとは様々な出来事を通して深い絆が生まれた。それ以来二人は年齢を飛び越えた友情を育み、今も親しく交流を続けている。
ヒューイットによると、彼女の今の年齢はおそらく六十代前後だろうとのこと。しかしローレンは年齢など全く感じさせないほど溌剌とした若々しい女性であり、その明るく豪快な性格がエステルは大好きだった。
「おや、エステリーナじゃないか!待ってたよ!本当に久しぶりだねえ、会えて嬉しい。さあさあ、私にその可愛らしい顔をよく見せておくれ。うん、さらにいい顔になってきたね。覚悟を決めた顔だ。」
「ローレンさん、私も久々にお会いできて嬉しいです!少し遅くなってしまいましたが、船に乗せていただいても構いませんか?」
ローレンと呼ばれたその女性は白髪混じりの金髪をサラッと揺らすと、壁に貼ってあった予定表らしきものに手を置いて言った。
「当たり前さ!エステリーナは私の命の恩人だからね。さて、出港日なんだが、東の大陸行きは三日後、もしくは二週間後だよ。さあどうする?」
エステルは一瞬悩んだが、すぐに決断して声を上げた。
「三日後でお願いします!」
「えっ?」
「ハッハッハ!あんたならそう言うと思ったよ。じゃあ三日後、午後一番に出港する予定だから、昼過ぎにはここに来ていてちょうだい。ところでそこのあんたはどうするんだい?」
エステルは前を向いたまま無表情で黙っている。すると後ろに立っていたラトは静かな声で、だがはっきりとこう答えた。
「俺も彼女に同行します。…誰よりも傍に居て、守りたい人なので。」
「ほう。」
「…」
彼の言葉に何か思うところはあったようだが、ローレンはそれ以上彼を追求することはなかった。
その後、彼女から今回の船や船旅に関しての説明を一通り受け終わると、エステル達は丁寧に別れの挨拶を済ませて外に出た。
そして行きと同じように無言、いや、むしろ行きよりもさらに重たい空気に包まれながら、二人は静かにメルナの屋敷へと戻っていった。