55. それぞれの告白
《聖道暦1112年4月13日》
この日、窓から見える空の色はとても暗かった。雨は降っていなかったが、低い位置に垂れ込める暗雲はエステルに傘を持参させるには十分な黒さだった。
「最終日なのに残念ね。あの神殿は光が入ると本当に美しいのに…」
傘と小さな荷物を小脇に抱えると、エステルはメルナが用意してくれた馬車に素早く乗り込んだ。
昨晩は結局、夜が明ける時間帯までラトに解放してもらえず、ベッドの上に座って二人だけで語り明かしてしまった。
彼がなぜあの若い女性と仲睦まじくしていたのか、エステルはなぜ帝都を離れ、どこへ行くつもりなのか。お互いに隠していたことや言えなかったことを全て打ち明けあって、誤解やすれ違いはほぼ無くなった、とエステルは思っている。
それでも、昨日までのラトの怪しい動きがあのジェンナに関わることだったのだと思うと、どうしても不安を感じてしまう。
(あと一日、どうかラトさんが無事に過ごせますように…)
エステルは既に馬車で待っていたエマに笑顔を向けると、眠い目を外に向け、いつもより少し色彩が失われた車窓を眺めながら大神殿へと移動していった。
― ― ―
ラトはこの日、昨日とは別の小神殿に来ていた。
小神殿と言いつつもこちらはかなりの広さがあり、参加している人の数も昨日より明らかに多い。そのせいでラトは、前日よりも更に慌ただしく働かされていた。
「ラトさん!こっちの皿もお願いします!」
サーシャの元気な声が室内に響き渡る。彼女はこの辺りが地元のようで、どうやら近所では有名な神官見習いらしい。彼女は何人もの参加者に声を掛けられ、この日も生き生きと笑顔を振りまいて動き回っていた。
「相変わらずサーシャちゃんはいい子だねえ。幼い兄弟達の世話と神官の仕事、両立させてて本当に偉いよ。」
「全くだ。それに顔も可愛らしいが、あの元気で優しいところは好感が持てる。ぜひうちの息子の嫁にでも来て欲しいんだがね。」
「何言ってるんだい。あんたのところの息子なんかにゃもったいないよ。うちの息子の方がいいに決まってる。」
(へえ。随分と住民達に気に入られているんだな)
ラトは皿を運びながら、度々耳にするサーシャの噂や評価を整理していた。
貧しい家庭で育ったのはどうやら間違いないらしい。そして幼い兄弟の面倒を見ながら神官見習いとして働くその姿は、近所の大人達の好感度を相当上げているようだ。
そうこうしているうちにあっという間に時は過ぎ、気がつけばこの小神殿での炊き出しも終盤を迎えていた。
「はあー!これで全員配り終えましたね!大皿もほぼ空いたみたいだし、あと少ししたら片付けを始めましょう!」
昨日と同じ神官達がサーシャの声で笑顔を見せて頷き、ラトもまた軽く頭を下げた。
腹を満たした人々が全員帰宅し、片付けも問題なく終わらせた四人は、最後に軽く掃除を済ませてようやく一息ついた。しばらくは互いに労いの言葉をかけ合って休んでいたが、その後一人ずつ簡単な挨拶を交わして帰宅していった。
そんな中、ラトだけは神殿内に一人で残り、椅子に腰掛けてカップに汲んできた水をゆっくりと飲んでいた。疲れた体に冷たい水が優しく沁み込み、次にやるべきことが自然と頭の中で整理されていく。
「あの、ラトさん。」
(ああ、おでましだ)
「サーシャさん、どうしましたか?」
後ろからおずおずと声を掛けてきたのは、先ほど別れの挨拶を告げたばかりのサーシャだった。ラトは笑顔を作ると振り返ってそう答える。
「今日でお会いするのは最後になってしまうのに、あまりきちんとしたご挨拶もできなかったので……その…」
サーシャの頬がほんのりと朱に染まっている。手を体の前でモジモジと動かしている姿は、ラトのよく見慣れた光景の一つだ。
「ああ、そうでしたか。わざわざご丁寧にありがとうございます。」
椅子から立ち上がって軽く会釈をすると、近くまで来ていたサーシャが突然ラトに抱きついて言った。
「あの、私、こんなこと初めてで…でも、もうお会いできないと思ったらすごく寂しくて、それで!」
ラトは自分の腕の中に飛び込んできた彼女の潤んだ瞳をじっと見下ろす。
「ええと、これは一体どういう状況かな?」
努めて冷静にそう問いかけてみたが、彼女は全く離れようとはしなかった。そしてラトがチラッと自分の胸の辺りを確認すると、その場所でサーシャは自分の手を器用に重ね、右手の親指で左の手のひらの中央部分をグッと押し込んでいた。
(やはりそういうことか…)
微かな能力の気配を感じ取ったラトは、急に眩暈を起こしたかのように前後に揺れると、その勢いのままサーシャを強く抱きしめた。
「ラトさん?」
ラトの腕の中でサーシャの訝しむような声が聞こえる。
「サーシャさん、俺、どうかしちゃったのかな。君のことが……すごく、気になるんだ。」
「えっ、本当ですか?私も…最初に会った時からあなたのことが気になっていたんです。ああ、嬉しい。」
可愛らしい声のはずなのに、ラトの背筋には何かひんやりとしたものが走る。抱きしめていた彼女の体をそっと離すと、サーシャはあの可愛らしい笑顔のまま言った。
「ラト、ねえ今日から私のものになって?」
サーシャの茶色い瞳が、ラトの表情をじっと窺っている。
「いいよ。」
そして再び腕の中に飛び込んできたサーシャを、ラトはただ穏やかに抱きしめていた。
― ― ―
「エステル、おはよう。」
「アラン先生、おはようございます。」
使わなかった傘を神官用の出入り口近くに置き、小さな鞄を抱えたエステルは、この日も本鑑定用の小さな部屋へと入っていく。中には既に、準備万端といった様子のアランタリアが、大きな机の向こうに腰掛けていた。
今日は絶対に隙を作らない!と心に決めていたエステルは、アランタリアから最も離れていてかつドアに近い場所を陣取ると、鞄の中から本を一冊取り出し、それを読み始めた。
「ほう、なるほど。今日は対策をしてきたんだね。」
アランタリアが面白そうにエステルを見つめている。顔を上げないようにしていたので見えはしなかったが、恐らく彼は今あの美しい笑みを浮かべてこちらを見ているのだろう。
エステルは彼の言葉に、はっきりとした声で答えた。
「はい。今日はお互い、適切な距離を保って時間を潰しましょう。最終日、よろしくお願いします。」
「…」
そこから彼はしばらく無言でエステルを見つめていたが、何かを思い立ったように突然席を立つと、エステルが持っていた本をさっと取り上げた。
「あっ、先生!?」
「エステル、まずは昨日の話をしよう。」
いつになく真面目な顔でそう話す彼に、これ以上拒絶する態度でいることもできない。エステルは小さくため息をつくと、彼を見上げながら言った。
「先生がきちんと椅子に座ってくださるなら、話を聞きます。」
するとアランタリアはエステルに本を返し、再び先ほどの席に腰を落ち着けた。
「ほら、座ったよ。じゃあ話をしようか。」
「はい。」
彼は机に両肘を載せてエステルに向き合い、話し始める。
「まず昨日あなたと別れてからのことを話すよ。東神殿は修復が終わるまで閉鎖されることになった。暴れていた神官達への事情聴取や原因究明もしなければならないし、それに関しては中央大神殿から調査担当の神官が派遣されることになってる。父は…恐らく今回の事件の責任を取らされるだろう。」
「そうですか。でもあれだけのことがあったのですから、それも仕方ないのかもしれませんね。」
エステルはふと、あの日の横柄なオルステア・ナイトの姿を思い出していた。確かに彼に良い印象を持ってはいなかったが、今回の事件が彼に相当な衝撃を与えたのだろうと思うと、多少は同情の気持ちが芽生えてしまう。
だがアランタリアはそうではなかったようだ。
「そうだね。父はあの性格だし、なかなか自分の責任を認められないだろうが、あそこは元々神官の育成が上手くいっていなくて信者達からの信頼も低かったんだ。だから昨日の件に関しては父の責任だし、今回の事件は起こるべくして起こったと、俺は考えている。」
当然深い事情など知らないエステルは、その話に同意することも反論することもできず、机に両腕を載せると黙って俯いた。アランタリアはその様子を見てふっと微笑むと、エステルの腕に手を伸ばして言った。
「とにかく、あの時あなたが力を貸してくれなければもっと大きな被害が出ていたと思う。本当に、ありがとう。」
エステルが驚いて顔を上げると、目の前には最近の妖艶な彼ではなく、以前よく見ていたあの優しい先生の顔がこちらを見ていた。腕に僅かに掛かったその指からも、今は感謝の気持ちしか感じられない。
「そんな、お礼だなんてやめてください!」
「魔人化しかけた人間を見たのは二度目だ。あのままだったら、俺ではあの神官に対処しきれなかっただろう。あなたがあんな風に彼らを救うことができるなんて本当に驚いたし、神殿だけでなく俺自身の心も救われたんだ。だからエステル、あなたはもっとそれを誇っていい。」
アランタリアの言葉には、二度目の体験だったからこその正直な気持ちが感じられた。エステルは俯いて少し考えてから、口を開いた。
「私も、どうして自分にあんなことができるのか、実はよくわかっていないんです。ただあの時はどうにかしたくて、できることならと、つい…。あっ、でもできれば今回のことは内密にしていただけると……」
今さらとは思ったが、エステルが躊躇いながらそうお願いすると、彼は大きく頷いて言った。
「ええ。あの場にいた神官達には全員にしっかりとした契約を結ばせましたから、大丈夫です。秘密が漏れることは万に一つもありませんよ。」
「よかった!」
契約、というのがどんなものかエステルにはよくわからなかったが、彼の含みのない笑顔と声のおかげで、不安はかなり和らいだ。
アランタリアはそこまで話すと満足したのか、腕に触れていた指を自分の元に戻し、壁に掛けてある時計に目を向けた。
「さ、まだまだ時間はあります。エステル、本を持ってきたのでしょう?ゆっくり読んでください。」
「アラン先生…」
本当に昔の彼に戻ったようだと目を輝かせていたエステルだったが、その束の間の喜びは、次の彼の言葉で全て吹き飛んでしまった。
「そしてこのまま、私と一緒に帝都で暮らしませんか?」
「……え?」
バサッ
手にしていた本を床に落としてしまったエステルは、アランタリアの顔をじっと見つめながら今の言葉を反芻する。
(何、アラン先生は一体何を言っているの?暮らす?)
するとアランタリアは再度立ち上がって床に落ちた本を拾い上げると、エステルの前に膝をついて言った。
「エステル、あなたを心から愛しています。不可能でも、あなたの心が俺から遠く離れているとしても、俺にはあなた以外に一緒に生きていきたいと思える女性はいません。これが最初ではあっても絶対に最後にはしない。何度断られても諦めるつもりもない。だからどうか、俺と結婚してはいただけませんか?」
「……!」
まさかの結婚の申し込みに、エステルの思考は完全に停止した。
アランタリアはエステルの手に先ほど落とした本を握らせると、ゆったりと笑みを見せながら言った。
「返事は『はい』以外受け付けない。これからは無闇に触れたりせずあなたに誠実に愛を伝えていくし、いつまでも返事を待っているから。いいかい?」
「ええっ!?」
(もしかしてこの本すら受け取ってはいけなかった?さすがに承諾したことにはならないわよね!?)
彼の真剣な告白にすっかり気が動転してしまったエステルは、魂が抜けたようにただぼんやりと、残りの時間を過ごすこととなった。