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54. 逃げられない夜

 エステル達が神殿の外に出ると、そこには血相を変えたアランタリアの父の姿があった。彼は息を切らし、青ざめた表情で別の神官らしき人物と話をしている。


 エステルがチラッとアランタリアの様子を窺うと、彼は以前よく見ていたあの無表情に戻り、じっと彼の父の姿を見つめていた。


 「何があったというのだ!?なぜこんなことが…」


 狼狽えながら事情を聞いているオルステア・ナイトに、部下と思われる神官がボソボソと何かを説明している。


 すると突然アランタリアはエステルを地面に下ろし、頭にそっと手を載せて言った。


 「私は少し父と話をしてきます。その間エマと一緒にあのカフェで待っていてくれませんか?」


 彼が指差す方向を見ると、通りの向こう側に繁盛していそうな洒落たカフェがあるのが見えた。


 「わかりました。あの店でお待ちしています。」


 エステルがそう言うと、アランタリアが一瞬だけ笑顔を見せて頷いた。エマも状況を察したのか、素早くエステルの横に並ぶ。


 「さあエマ、私達は行きましょうか。」

 「はい。」


 アランタリアが彼の父の元へ歩いていくのを見届けると、エステルはエマを連れて件のカフェへと歩いていった。



 三十分ほどそのカフェでアランタリアを待っていたが、なかなか彼は現れなかった。もう少し待とうかとも思ったが、もうそろそろ日も暮れてしまう時間だ。


 エステルは仕方なく支払いを済ませると、外に出て神殿の方に目をやった。だがその視線は別の方向から聞こえてきた声に反応し、すっとそちらに移動する。


 だがその時目にしたものは、エステルにとってこれまでで一番衝撃的なものだった。


 「え、何あれ…」


 今出てきたばかりのカフェの横、細い路地の少し奥の方で、ラトが見知らぬ若い女性と抱き合っていた。いや、どちらかと言えば女性がラトに倒れかかるような姿勢になり、彼がそれを受けとめているように見える。


 華奢な体を優しく抱きしめる彼の腕、その中でその女性は、手を組んで照れたような表情を見せながら微笑んでいた。


 それを見た瞬間、何か物凄く重い物で胸を殴られたような、強烈な痛みと衝撃がエステルを襲った。


 「まあ、随分と仲の良さそうなお二人ですね!」


 おそらくエマはラトの顔を知らないのだろう。彼女が呑気にそう話すのをエステルはぼんやりと聞いていた。そして今見てしまった光景から目を逸らすと、エマの腕を掴んで路地が見えない場所まで移動する。


 「エステリーナ様?」

 「エマ、邪魔してはいけないし、じっと見つめるのも失礼だわ。もう日も暮れるから、神殿に寄って先に帰らせてもらいましょう。」

 「あ、はい!」


 何か引っ掛かるものはあったようだが、エマは素直に頷いた。彼女の同意を得たエステルは急いで神殿に向かうと、まだ何か話し合いをしている様子のアランタリアを見つけ、先に帰宅する旨を伝えて急いでそこを離れた。


 (ラトさんは何が起きても信じていて欲しいと言っていた。もしかしたらさっきの状況にも何か理由があるのかもしれない。でも……)


 通り沿いで見つけた辻馬車に乗り込むと、エマに顔が見えないよう、通りに目を向ける。


 理性では抑えきれない心の痛みが胸の中にひたひたと広がっていくのを感じながら、鈍い雲の隙間から僅かに見える夕闇を、エステルはただ静かに見つめていた。




 メルナの屋敷に戻り、エマには彼女の部屋で待機するよう伝えると、エステルは自室に入り荷物を選別し始めた。


 手を動かしている間も先ほど見たあの光景が何度も頭をよぎる。いつもなら自分を抱きしめてくれるはずのあの腕が、甘やかしてくれるあの優しい笑顔が、他の誰かに向けられている。


 (しかもあんなに可愛らしい子に…)


 化粧をしなければ地味な見た目の自分とは違う。華やかで誰にでも好かれそうな愛くるしい横顔…


 「駄目だわ!卑屈な自分はもうやめると決めたじゃない!」


 止まっていた手を再び動かし、小さめの鞄に必要最低限の荷物を詰め込んでいく。


 「よし、これでいいわ!」


 精霊道具の入った袋には、先ほどしっかりとした革紐を縫い付けておいた。早速肩に掛けてみたが長さは問題無いようだ。今度はいつでもすぐに武器を取り出せる。


 エステルは詰め直したばかりの小さな鞄を手にドアを開け、振り返って部屋を見渡す。


 (違う、これでは駄目だわ。ここで逃げても何も変わらない!)


 結局部屋に戻り、今開いたばかりのドアを静かに閉めた。エステルは手にしていた鞄と精霊道具入りの袋をベッドの下に隠し、深呼吸をして気持ちを切り替える。


 「明日は三日目の本鑑定。先生には本当に迷惑を掛けたのだから、まずはそれをやり切らないと。それと…ラトさんに、きちんとお別れの挨拶もしなければ。」


 エステルは残しておいた大きな鞄の中から普段着にしていたワンピースを取り出すとそれに着替え、結えていた髪を解いた。


 そして廊下に出てメイドの一人に「少し体調が悪いから食事は要らない」と伝えると、ベッドに潜りこんでラトの帰りを待った。



 

 少し眠ってしまっていたのだろうか、目を覚ますとすっかり部屋は暗くなっていた。


 変な時間に寝てしまったせいで若干怠さを感じる体をゆっくりと起こし、周りが見えない中、手探りでラトから貰ったあのブローチを探していく。


 だがブローチを見つける前に、何か柔らかいものに捕まってその手は動きを止められた。


 「えっ、何!?」

 「エステル、起きた?」

 「ラト、さん?」


 それは間違いなく、優しいいつものラトの声だった。


 彼はエステルの手を一旦ベッドに戻すと、サイドテーブルに置かれているランタンに火を入れた。


 ぼんやりと柔らかな光が辺りを照らし、心配そうに微笑むラトの顔が見えた。


 「体調、悪いのか?食事もしていないから心配だとメルナさんが騒いでた。俺も心配で…ごめん、勝手に部屋に入って。」


 彼はエステルの手を再び握りしめると、もう片方の手でエステルの額を隠していた髪をそっと耳に掛けた。


 「大丈夫です。ちょっと疲れが出ただけだから。」

 「本当に?水は?軽く何か食べるか?」


 優しすぎるほど自分のことを気にかけてくれるラトに、エステルの胸は締め付けられる。もっともっと彼に甘えて、甘やかされていたいと願ってしまう。


 それでも今は、きちんと話をしなければならない。逃げるわけにはいかない。


 エステルは大きく息を吸い込むと、姿勢を正してラトと向き合った。


 「ラトさん、私ね、今日東神殿に行ったんです。」

 「え?」


 ラトの表情が若干曇ったような気がする。エステルは話を続けた。


 「色々あったんです。でも詳しい話はアラン先生から聞いてください。今は…違う話がしたい。」


 エステルの様子に何か感じるものがあったのか、ラトは握っていた手を今度は両手で握り直した。


 「何?話してみて。」


 彼の表情に現れた不安の色をエステルは見逃さなかった。そのせいで一瞬躊躇ってしまったが、意を決して彼から目を逸らし、静かに話し始めた。


 「さっきね、私ラトさんが若い女の人と抱き合っているのを見てしまったの。」

 「え…」


 ランタンからは暖色系の光が放たれているはずなのに、チラッと見たラトの顔色は、かなり青白く感じられた。


 「何があっても信じると約束したから、今もあれには事情があったんだろうって、頭ではわかっているの。でも、心はそう簡単には受け入れられなくて。」

 「エステル、あれは…」

 「お願い、何も言わないで。」


 ラトの唇が、何かを言いかけて開いたまま震えている。


 「話も、聞いてもらえないのか?」

 

 エステルは首をゆっくりと振って言った。


 「いいえ、違うの。きっとあなたが私のために動いてくれているんだろうって本当にわかっているんです。でも、だったらそれを最初から話しておいて欲しかった。たとえ言いにくいことだったとしても、こんな風に知りたくはなかった。」


 苦悩に満ちた彼の表情が、エステルの目にゆらゆらと映る。互いを見つめあう無言の時間が少し続いたが、エステルが先にその沈黙を破った。


 「偉そうなことを言ってしまったけれど、私もラトさんに伝えていなかったことがあるの。」


 その時ラトは突然、握りしめた手を引き寄せてエステルを抱きしめた。


 「本当は聞きたくない、でも聞くよ。教えて、エステル。」


 耳元で囁く声が、いつもよりも弱々しい。エステルはすっかり馴染んでしまったその優しく逞しい腕の中で、小さく、だがはっきりと告げた。


 「私、明日の本鑑定を終えたら、ここを去ります。」

 「…は?」


 ラトの体が硬直し、怒りとも混乱ともつかぬ感情が溢れ出ているのを感じた。エステルはその感情に押しつぶされそうになりながら必死で話を続ける。


 「私が帝都に来たのは、実はこの鑑定のためではなかったの。別の大事な目的があって…でも、今までどうしてもそれが言えなかった。本当にごめんなさい。」


 エステルは微動だにしなくなった彼の胸に届くように、少しだけ声を大きくして言った。


 「ラトさん、私、あなたのことが好き。本当に好きなの。でも、あなたに甘えてしまうばかりの駄目な自分にこれ以上なりたくない。あなたを信じていると言いながら嫉妬してしまう自分にもなりたくないの。だからお願い……」


 ラトの胸を両手でそっと押して距離を取ったエステルは、彼の悲しみに満ちた顔を見つめて微笑んだ。


 「あなたから、私との契約を解除して?」

 「嫌だ」

 「お願い、ラ…!?」


 だが彼の名を呼ぼうとしたエステルの唇は、ラトの覆い尽くすような口づけに飲み込まれてしまった。


 突然の甘く深い痺れるようなキスに危うく溺れかけてしまったが、エステルは必死で踏みとどまった。


 「んんっ…もう、駄目!ラトさんお願い、一時的にでいいから私をあなたから解放して!目的を遂げたら…」

 「絶対に嫌だ。一時的にでも嫌だ。本来俺は、好きな人のためなら何でもしてあげたいし、ずっと傍にいてとことん甘やかしたい性分なんだ。今まではエステルの気持ちを考えて無闇に束縛しないようにしてたけど、それでもこんなことになるなら、俺はもう我慢しない。」

 「嘘……今まで我慢していてこれだったんですか!?」


 するとラトはエステルを急にベッドに押し倒すと、余裕のない表情でこう宣言した。


 「エステル、これ以上そんなことを言うなら、今から全部君を俺のものにするよ?」

 「…え、ええっ!?」


 言葉の意味を理解しようとしているうちに、ラトはエステルの首筋に顔を押し付けた。鋭い痛み、だがそれはすぐに甘い囁きとキスに変わっていく。


 (もう、そんなことされたら、全部どうでもよくなって…)


 「エステル…俺のエステル……」

 「ひゃあっ!?そんなところ…ああっ、ちょっとラト、さんっ!?」


 これ以上はまずい、とギリギリのところで理性を取り戻したエステルは、全力でラトの左耳を引っ張った。


 「いってててて!?エステルちゃん!さすがに今のは酷くない!?」

 「とっ、突然こんなことをするラトさんが悪いんでしょ!?私はまだその、こ、こういうのは、はっ、早いと思います!!」

 「……はああああぁ。」


 ラトはエステルを抱きしめながら大きくため息をついた。エステルの方はドキドキと早鐘のように鳴り響く胸の音を感じながら、どうしたものかと思案し始める。


 すると少しして落ち着きを取り戻した彼は、エステルをベッドの上に座らせると穏やかな声で言った。


 「わかった。君を全部俺のものにするのはもう少し後にする。でもその代わり、今後は全力で君を束縛するから。」

 「な、何ですか、その宣言!?」

 「さっきも言ったけど、俺は好きな人のことは本当はもっと甘やかしたいんだよ。いつだって自分で立とうとする君だから尚のこと、俺なしじゃ居られないくらいドロドロに甘やかして、君の頭の中を全部俺で満たしたい。」


 恐ろしいことをさも当たり前のように宣言するラトに、エステルは言葉を失った。


 (もしかして、とんでもない人を好きになってしまったのかしら、私?)


 「エステル、今からゆっくり話をしよう。それと今夜はここで一緒に寝ような?」

 「は、はい!?そんなの無理、無理です!!ちょっと、ラトさん!?」

 「こらこら、暴れないの。色々と不安にさせてごめん。大丈夫、ここから先はずーっと一緒だから。な?」

 「…」


 喜んでいいのか新たな不安を抱えてしまったのか判断がつかなくなったエステルは、何とも言えない表情になって固まってしまった。だがラトはエステルのそんな様子を見て満足げに微笑むと、今度は優しく頬にキスを落とした。



 そうしてその後二人は、ランタンの光が優しく揺れるその部屋の中で、手を繋ぎながら夜通し静かに語り合った。


 ちょっと不思議で温かなその時間は、あれほど重かったエステルの心を少しずつ少しずつ、軽く明るくしていってくれたのだった。


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