51. 気になる女性
《聖道暦1112年4月12日》
その日ラトは、メルナに依頼して自分の代わりとなるエステルの護衛を手配すると、自身は昨日立ち寄ったあの小神殿へと向かった。
神殿と言ってもそれらしい外観とはとても言い難い、古くありきたりな木造の建物だ。ここは地域の貧しい人々の拠り所となっており、時々炊き出しや生活全般の援助、仕事の斡旋などの奉仕活動を行っている大事な場所でもあるらしい。
「まあ!本当に来てくださったんですね!」
ラトが入り口から中に入ると、室内には野菜を煮込んだような美味しそうな香りが漂っていた。そしてそこに笑顔で現れたのが、昨日ここで出会ったサーシャという神官見習いの女性だった。
「ええ。昨日お手伝いに来ますと約束しましたから。」
ラトもまた笑顔を返すと、サーシャは少し頬を赤らめて頷いた。
(へえ、そういう反応か)
柔らかくカールした茶色く長い髪を軽く束ね、神官見習いの水色の服の上にベージュのエプロンを掛けている彼女は、まだ二十歳そこそこという若く溌剌とした女性だ。
昨日ラトは、エステルが恐れていたあのジェンナという女性から、サーシャという名の若い女性を紹介されていた。
そしてその時にジェンナからとある依頼を受けた。
「実は明日から五日間ほど、いくつかの小神殿を回って炊き出しの慈善活動を行うのですが、最初の二日間だけ男手が足りなくて困っておりまして。あの、もしよろしければその二日間だけお手伝いをしてはいただけないでしょうか。」
そんな打診があった。
本来であれば当然断る話ではあるのだが、今回はエステルがあれほど恐れていたこの女性のことをもう少し調べておきたい、という気持ちが勝った。
「わかりました。二日間だけなら。」
「まあ!お優しい方、本当にありがとうございます。アランタリアさんのお友達なら尚のこと安心ですねえ。」
「…え、ああ、ええ。」
まさかこんなことを引き受けるとは思ってもいなかったのだろう。アランタリアは探るような目でこちらを見ていたが、あえてそれを無視し、サーシャという女性と三人で話を進めた。
そうして今再び、この小神殿にいる。
(ジェンナという女性、何か裏がありそうなんだよな…)
エステルがあそこまでの反応を見せるのは異常だ。
見た目も物腰も柔らかなよくいる年配の女性。元神官ということだったが、現役を引退した後奉仕活動にのみ参加し、帝都の貧しい人々のために働いているという、献身的で皆から慕われている素晴らしい人物らしい。
だがラトは、誰からも悪い話の出ない人物には裏があることが多い、と長年の経験で知っている。もしそんな人がいるとしたらそれは…
「ラトさん!あの、早速ですがあちらの大皿を運んでいただけませんか?」
サーシャがラトの思考を遮るように、腕に手を掛けて顔を見上げている。ラトが彼女の顔を見ると、あれですと言いながら少し離れた場所にある大皿を指さした。
(小さく白い手、弾けるような若さと滲み出る純粋さ、そして可愛らしい顔…)
「あ、ああ、わかりました。どこに運べばいいですか?」
「ふふっ、ぼーっとしていらしたんですね。あっ、ごめんなさい笑ったりして!ええと、あの大きなテーブルのところへお願いします!」
サーシャは少女のように無邪気な笑顔を見せると、すぐにそこを離れてまた慌ただしく働き始めた。
ラトはしばらくその後ろ姿を目で追っていたが、少しずつ神殿内に人が入ってきていることに気付くと、指示されたことを終えるために動き出した。
残念なことにその日の炊き出しにはジェンナは参加しておらず、サーシャの他に三人の女性神官見習い達が準備に奔走していた。
初日の炊き出しには体が不自由な人、貧しさゆえに食事がままならない人、幼く痩せこけた子供達など、多くの人々が参加し、腹を満たしていった。
サーシャの話によると、こうした社会貢献活動の資金は大抵の場合、裕福な商人や貴族達の寄付によって賄われているらしい。
無事炊き出しと食事の支給が終わり、人々が一人、また一人と帰っていくと、神官見習い四人とラトは休む間もなく、バタバタと片付けを始めていった。
大きな皿担当のラトは久々の労働で若干の疲れを感じていたが、全て終わってすっきり片付いた室内を見るのは悪くない気分だった。
全て片付き、テーブルや椅子だけとなった部屋を見回してぼんやりと座っていると、奥で洗い物を終えたサーシャがやってきてラトの前に立った。
「今日はありがとうございました!あと一日、今度は一つ隣の小神殿で炊き出しをして終了です。あの、本当にもう一日、お手伝いをお願いしてしまっていいのでしょうか?ジェンナ様はああ言ってらしたけれど、ご迷惑では?」
ラトはスッと立ち上がると近くにあった椅子をサーシャの前に持ってきて、座るようにと促した。すると彼女は嬉しそうにその椅子に腰掛ける。
「約束通り、明日まではお手伝いしますよ。」
「ふふっ、嬉しい!あっ、ええと、変な意味じゃないですよ?力仕事をしてくださる方がいて嬉しいって意味です!」
急に頬を赤らめてそう話すサーシャを見て、ラトは静かに微笑んだ。
「サーシャさんはどうして神官になろうと?」
ラトはふと思いついたことを尋ねてみる。サーシャはこほんと咳払いをしてから自分の身の上について語り始めた。
「この辺りには特に貧しい暮らしをしている人が多いんですが、実は私もその一人で…毎日一食でもご飯が食べられたら幸せという日々を送っていたんです。でも十歳の時に鑑定してもらったら、神官の素質があるって言われて、すごく嬉しかったんです。ああ、これで家族の助けになれるって!」
神官になるのに必ず素質や特殊能力が必要なわけではない。だが『減呪師』と同じく、ある程度『呪いによる影響を抑える』力があると、正式な神官として採用されやすい傾向があるようだ。
ラトはなるほどと言いながら頷き、笑顔を向けた。
「サーシャさん、大変な生活の中、これまで本当に頑張ってこられたんですね。」
サーシャはそれを聞き、照れたような表情でラトを見つめる。
「あなたにそんな風に言っていただけるなんて、ちょっと嬉しいです。さあ、じゃあ今日は終わりにしましょうか?慣れない中たくさん手伝ってくださって、本当にありがとうございました!」
そうして二人は互いに笑顔を向け合い、その日の作業を無事に終えた。
「それじゃあ私は歩いて帰りますので、ここで!」
小神殿の外で挨拶を済ませた後、ラトは気になって再びサーシャに声を掛けた。
「歩いて帰るって…家はこの近所じゃないんですか?」
すると驚いた顔で振り返ったサーシャが、笑顔で首を振った。
「いいえ。私の家は帝都東神殿の近くなんです。ここからだと三、四十分くらい歩いたところですね。」
ラトはふと何かを思いついて顔を上げた。
「じゃあ送っていきましょう。まだ明るいですが、あの辺りまで一人で歩くとなると心配ですから。」
「でも、申し訳ないわ。」
はにかんでそう話すサーシャに微笑みかけると、ラトは彼女の背中にそっと手を当てて言った。
「どうか気にしないで。俺がそうしたいだけですから。」
サーシャの頬がほんのりと色づく。ラトはその顔を見ながら、怒ったように照れて頬を赤らめる大切な人のことを、そっと思い出していた。
― ― ―
一方、エステルはこの日もアランタリアと二人で『本鑑定』の真似事をしていた。
実際には彼による鑑定は既に終わっているので、室内では念のためそれらしい祈りを捧げてもらうなどしていたが、二日目ともなるとアランタリアはだいぶ気を抜いていて、エステルの横に座り静かに本を読み始めていた。
「あの、アラン先生?」
「アランだよ、エステル。」
彼は本から顔も上げずに無表情でそう告げる。
「もう、またそんなこと…それより本当にこんなに何もしない感じで大丈夫なのですか?」
エステルが不安そうにそう尋ねると、彼は本を静かに閉じ、エステルにあの艶っぽい笑みを見せた。
「じゃあ二人でもっと親密な接触を楽しむ?」
エステルは目を大きく開くと、ガタンと音を立てて椅子から飛び上がった。
「む、無理です!もう!どうして先生はそんなことばかり!」
「だから言ったでしょ?愛してるから。二人きりなのに手を出していないのも、あなたを大切にしたいと思っているからだよ」
彼は本を机に置いて立ち上がると、エステルに近寄り壁に押しやった。
「先生!?」
「苦しいんだ。本当は。」
「え?」
アランタリアの顔が本当に苦しそうに歪んでいくのが目に入る。
「あなたがあの男に触れるたび、嬉しそうな笑顔を見せるたびに、その小さな手を引いて、あなたを俺の腕の中に閉じ込めてしまいたくなるんだ。」
「先生……」
エステルはそれ以上の言葉を失い、ただじっと迫り来る彼を見つめている。
「今だってできることならあなたの全てを奪いたいと思っている。その美しい黒髪も、白い肌も、あの時に感じた柔らかな…」
「やめてください!」
小さくそう叫ぶと、アランタリアは動きを止めた。
「お願い、アラン。もうやめてください。何を言われても、私の心はラトさんに向いているんです。あなたは最初から私に優しかったし、今も大切な友人だと思っています。だから…」
だがその時、再び動き出した彼の手が左頬に触れた。エステルはビクッとしてその手を振り払おうとする。
「触らないで!」
「エステル、もう一度よく考えて。あの男はエステルが考えているほど誠実な男じゃないよ?」
彼は振り払おうとしたエステルの手を掴み、自分の胸元に引き寄せてそう言った。エステルは彼の言葉の意味がわからず、その状態のままアランタリアの顔を見上げた。
「どういう意味ですか?」
「知りたい?知らない方が幸せかもしれないよ?」
「…」
下を向いてしまったエステルの額に、アランタリアはすかさず口づけを落とす。ハッとしてその胸を突き飛ばしたエステルは、強い口調で彼に言った。
「私、ラトさんを信じていますから。それにもうこういうことはやめてください。今日は帰ります!」
「エステル!」
アランタリアの声を無視してその部屋を飛び出すと、エステルは前日通ったあの裏口のドアへと一直線に走っていった。
ガチャ、という音を立ててそのドアを開けると、眩しい陽射しがエステルを待ち受けていた。そしてもう一つ、いやもう一人、そこでエステルを待ちうけていたのは……
「エステリーナ様、お待ちしておりました。」
キリッとした目元が印象的な、見たことのない赤毛の女性だった。