4. 騒がしい誕生日
《聖道暦1112年3月7日》
目が覚めると、テントの外はすでに明るくなっていた。エステルはもそもそと寝袋から抜け出すと、テントを出て辺りを確認する。
(まだ帰ってきていないのかしら)
ラトの姿は見えない。仕方がないと呟いてテントを片付け、残っていたパンを齧り、近くの木陰で彼の帰りを待つことにした。
日がだいぶ高くなった頃、遠くから馬車の音が聞こえ、ラトが戻ってくるのが見えた。その顔にはそれほど疲労感もなく、彼はエステルと目が合うと、小さく手を振って笑顔を見せた。
「悪いね、遅くなった。」
ラトは馬車を降り、大きな木に背を預けて座るエステルの前に立った。
「一体どこに?」
エステルは座ったまま、背の高い彼を見上げて尋ねる。
「次に立ち寄る予定の町で、子供達を信頼できそうな役人に引き渡してきた。」
淡々とそう話すラトの顔をまじまじと見つめながら「ふうん」と小さく呟く。ラトが居心地悪そうに頭を掻きながら「何?」と言うと、エステルは地面に手をつきゆっくりと立ち上がった。
「いえ別に。ただ、護衛の仕事じゃないことはしっかりやってくださるんだなあ、と思って。」
悪戯っぽくそう答えると、ラトは目を逸らして「さあどうだろうな」ととぼける。エステルは彼の反応を内心面白がっていたがそれ以上追求はせず、次にやるべきことに目を向けた。
「さあ、それじゃあ行きましょうか。荷物、取り返しに!」
「え、俺の荷物は石が詰まってるだけなんだけど…」
「もう!護衛なんですから、こっちの仕事を頑張ってくださいよ!たまにはいいでしょ、ね?ラトさん!」
エステルが鼻に皺を寄せて変な笑顔をして見せると、ラトは思わず噴き出して言った。
「ふっ、あははは!わかったわかった!…じゃ、行きますか?」
「ええ!」
そうして二人はようやく、荷物奪還作戦に移行することとなったのだった。
「ラトさん、本当にここなんですか?」
ぽかぽかと暖かい陽気がほんのりとした眠気を誘う午後、エステルは牛達が穏やかな「モー」という声をあげている大きな牛舎の近くで待機していた。
「子供達から聞いたのは確かにここだな。あの大きな牛舎を持っている農家は、この辺りじゃ有名な裕福な一族らしい。『特殊能力』の数じゃ貴族には届かなかったようだが、珍しい能力を持っていたことでここまでのし上がってきたって話だ。だが嫌な噂もあってな、それが今回の窃盗事件と繋がってそうなんだよ。」
「今の話を、全部あの子供達が知っていたんですか?」
エステルが不思議そうにそう尋ねると、ラトは首を横に振った。
「いや、後半は向こうの役人に聞いた。それだけあの家の連中は警戒されているってことだ。」
「…ちなみにそれってどんな能力なんですか?」
ラトはふと何かに気付いた様子で少し離れた場所の地面を見ると、そこを指さして言った。
「アレだよ。蛇。蛇を操れるんだ。」
「…」
指の先が示した場所を確認すると、そこにはさほど大きくはない蛇がうねうねと動きながら茂みの中に入っていくのが見えた。エステルは決して蛇を怖がったりはしない。だがあくまでもそれは一匹二匹のことで、毒がない場合に限る。
「もしかしてここ、毒蛇とかいっぱいいます?」
恐る恐るそう聞くと、ラトは「さあな」と適当な返事をする。
もしこの牛舎の近くに盗品が置かれているとしても、そこに辿り着けないのでは意味がない。となるとやはり、蛇にも、それを操れる相手にも気付かれないように向かうのが得策…
エステルは意を決して袋を探り、例のペンダントを取り出そうと思ったところでようやくあることを思い出した。
「あ!そういえばあのペンダント、返してください!」
ラトは差し出されたその右手をチラッと見ると、顔を背け、顎に手を当てて何かを考え始めた。そして今度はゆっくりとエステルと向き合うと、彼は言った。
「俺が積極的に手は出さないって当然のように思ってるねえ。そういう自立した子は嫌いじゃない。だからそんな君に敬意を表して、今回は護衛として最低限の仕事はしておく。君は好きなように動いたらいい。ただし!」
そこで彼は突然、エステルの前にぐっと顔を近付けた。前髪で普段はほとんど見えない彼の目が、その隙間から僅かに見える。その青緑色の瞳は、エステルの心臓の鼓動を速めてしまうほど透き通り、そして美しかった。
「集中力が切れたら途中でも逃げ帰ってくること。おじさんの言うこと、聞けるか?」
無精髭もボサボサ髪も相変わらずだったが、その表情と瞳には底知れない彼の凄みの片鱗が見え隠れしていた。エステルがその瞳に吸い込まれそうになりながら小さく頷くと、手に何か冷たいものが載せられた感触があった。
「あ、ペンダント…」
下を向いてそれを確認している間に、ラトはついとその場を離れて、言った。
「じゃあ俺は適当にその辺に居るから。」
「え、ラトさん!?」
遠ざかっていく彼を少しの間見つめていたが、ペンダントを身に着けて気を引き締めると、先ほどの牛舎の方に顔を向け、エステルは足元に注意をしながら短剣を手に歩き始めた。
牛舎の周辺には視界を遮るものがそれほど多くはない。木々は点々としか生えておらず、周囲の草も牛が放牧されているからかかなり短く、見通しの良い草原地帯が広がっている。牛舎に繋がる道は一本しかなく、その道沿いにはそれ以外にもいくつか小さな建物が並んでいた。
ある程度まで近付いたところで、エステルは白い石に口付けし、姿を消しておく。集中力をできるだけ保ったまま前に進むと、牛舎の向こう側に隠れるかのように、煉瓦造りの平屋の家が建っていた。そしてその横には、昨日見たあの小さな幌馬車が置かれている。
(ここだわ。あ!人が出てきた!)
その家のドアから出てきたのは、一人の中年女性だった。癖の強い黒っぽい髪を適当に後ろで纏めているその女性は、農作業をするような格好とは程遠い赤いワンピースを身に着け、後ろから出てきた男達に何やらきつい口調で指示を出していた。
エステルは静かにその様子を見ていたが、三人とも外に出て牛舎の方に向かったのを確認すると、急いでその家のドアを開けて中に入る。ありがたいことに鍵は掛かっていなかった。
外側から見ると普通の家のように見えていたが、内部は全く違っていた。蝋燭の火で照らされた昼でも暗い空間、家具などはほとんどなく、所狭しと何かの荷物や骨董品、宝石らしきものが散らばっている。
今回の目的は自分達の荷物を取り戻すことであり、犯罪者を捕まえることではない。エステルは急いで部屋の中を探し回り、二つ目に入った部屋の中で、ようやく自分の大きな鞄とラトのあの石が詰まった鞄らしきものを見つけた。
一瞬それを持っていくか悩んだが、結局中から石をゴロゴロと外に取り出すと、軽くなったその鞄も手に外へと向かう。
だがその時、外から男女の声が聞こえてきて、エステルは一気に焦り始めた。
(まずいわ、ここは狭いからかなり注意をしないと誰かとぶつかってしまう!)
動揺する気持ちを無理やり抑え込み、荷物をしっかりと両手で抱え込むと、他にも出入り口がないか素早く捜索を始めた。すると奥にあった今は使われていないキッチンの隅に、古びた小さなドアを発見する。
(よかった!ここも開きそうだわ!)
エステルが音を立てないよう細心の注意を払ってそのドアを開けると、そこには雑草が生い茂り、足元が全く見えない空き地のような場所が広がっているとわかった。
毒蛇のことが頭に浮かばないではなかったが、今はあの三人に見つかる方が危険だ。エステルは意を決してその雑草の中に飛び込み、注意深く移動を開始する。
その瞬間、わー!?ぎゃー!!という叫び声が辺りに響き、エステルは荷物を落としそうになるほど驚いて立ち止まった。
どうやら家の向こう側で何か騒ぎが起きているらしい。しかも一人二人ではなく、相当な人数が動いている気配が伝わってくる。
だが今はとにかくこの騒ぎに便乗して逃げなければと、急いでその雑草地帯を抜けて道の方へと飛び出した。
「何この状況!?」
そうしてやっと見えてきたのは、先ほどの男女三人が大勢の兵士達に取り押さえられている場面だった。
女性は特に両手を縛られ高く持ち上げられており、それ以上能力を使わせまいとしているようだった。
さらに近辺には百匹以上の蛇がいたが、それを兵士達が『火』の能力や槍のような武器を使って追い払ったり退治したりしている様子も見えた。色や柄からして、どう見てもそれらは毒蛇のようだった。
「エステルちゃん、無事だった?」
そう問いかけられて振り返ると、そこには笑顔のラトの姿があった。
もう周りに自分の姿が見えている状態だったと気付き、何エステルは何も言わずただ小さく頷いた。そして再び騒動に目を向けると、後ろでラトが小さく手を振ったような気配がした。
「…え?」
その瞬間、蛇達は一斉に宙に舞い上がり、まるで何も最初からそこにいなかったかのように掻き消えていった。
エステルはゆっくりと振り返ると、ラトを訝しげに見つめて言った。
「今、何かしました?」
ラトは僅かに口角を上げたがそれには答えず、手をひらひらと振りながら立ち去っていく。エステルがその後ろ姿に「ラトさん!?」と呼び掛けると、彼は一度だけ立ち止まり、振り返って言った。
「はいはい、緊急捕物劇はこれでおしまい。おじさん寝てないから疲れちゃったよ。昼は寝てくから、あとはよろしく。」
ラトはふあーあと大きなあくびをしながら再び前を向いて歩き出す。
「食えない人。…お礼なんて絶対言わないから。あなたの荷物も結局私が取り返してきたんですからね!」
エステルは頬を膨らませて後ろからそう叫ぶと、ゆっくりと前を行くラトの後をついて歩いていった。
その後二人が馬車に戻ると、ラトはすぐに定位置に寝転がり、あっという間に眠ってしまった。エステルは呆れた顔でそれを見ていたが、ふと自分がいつも座っている場所に何かが置いてあることに気付いて首を傾げた。
「これ、何かしら?」
エステルは何も包装などされていない小さなその茶色い箱を手に取ると、蓋を開けて中を確かめた。
「…綺麗」
手に取って見てみると、それはあのペンダントと同じような白い石でできたブローチだった。石の部分には何の細工もされていなかったが、その台座の部分には美しい花々の絵柄が彩りを見せている。
もしやと思いそれに唇を当て集中してみると、その石は強い光を放ってエステルを驚かせた。
「ラトさん、これ!」
興奮のあまり思わずラトを起こすと、彼は狭いその場所で少しだけ体を横向きにして言った。
「誕生日おめでとう、エステル。」
エステルは言葉を失い、長い髪と無精髭の向こうに見える彼の笑顔を見つめた。ラトはすぐに体勢を元に戻すと再び眠りにつく。
「…騒がしい誕生日だった。でも素敵な誕生日になったわ。ありがとう、ラトさん。」
エステルは眠ってしまったラトに小さな声で感謝の思いを伝えると、しばらくそのブローチをじっと眺めながら、大人になった自分自身の未来へと思いを馳せていった。