48. ベルハウス家の役割
《聖道暦1112年4月10日》
メルリアン・レナ・ベルハウスにも怖いものはある。
普段周囲の人間からは「怖いものなどないでしょう」とよく言われるのだが、そんなことはない。
なぜなら今まさに、目の前の部屋のドアをノックすることを躊躇っている自分がいるのだから。
(ああ、嫌だわ。でも仕事よね、仕事!)
ふぅ、という深いため息すら、できるだけ音を立てないように気を遣い、覚悟を決めてノックをした。
コンコンコンコン
「入れ」
「失礼いたします。」
重さのある木のドアを開けると、メルナとほぼ同じような金色の髪が見えた。その後頭部がゆっくりと回転し、メルナの目に、見慣れた男性の厳しい表情が映った。
その男性の名は、『オーギュスト・ルーカス・ヘレナムア』。ヘレナムア帝国の現皇帝だ。
アランタリアとは系統の違う美しさ、くっきりとした目鼻立ち、強固な意思を感じさせる顎のライン、実戦で培った屈強な体格、そのどれをとっても人に彼の権威や威圧感を与える要素ばかりなのだが、最も人々を畏れさせるのはその外見ではなく、彼が無意識に放つ内側から溢れ出る覚悟と自信だ。
「皇帝陛下におかれましては…」
「ああ、今はやめてくれ。隣室にも誰もいない。」
そんな彼も、気のおけない従兄妹の前では少しだけ気を抜いてくれるらしい。今日はいつもなら臣下達の前で見せるあのビリビリとした威圧感を放ってはいなかった。それが少し怖かったメルナは、比較的穏やかな彼の姿に安堵する。
「…承知いたしました。では報告を。」
メルナは脇に抱えていた報告書の束を見ながら、ここ数ヶ月の調査報告を淡々と進めていく。
「……という状況でございます。ウィラード侯爵自体はただ自分の欲を満たすことが目的の単純な犯罪者でございましたが、亡くなったフィリペ・ランジュに関しては様々な疑義が生じております。」
陛下と呼ばれたその男性は、メルナから報告書を受け取ると、そのぶ厚い束に目を通し始めた。
「黒い薬、か。これが他の地域でも発見されていると?」
「はい。今回私が発見したのは帝国東部ドゥビルでしたが、部下達からの報告をまとめたところ、南部と北部でもそうした話が出ているとのことです。特に南部のテミシーラという町では、錯乱状態に陥った子爵子息とその取り巻き二名が拘束されており、彼らがその薬を所持していたと報告が上がっております。また、リリムでも類似した事件が起きた、という話も入ってきております。」
メルナは穏やかにそう報告したが、事態の深刻さは二人とも十分に承知していた。男は報告書を机に置き、腕を組む。
「魔人化したのはフィリペだけか?」
「はい。今のところは。ですがもしこの薬が貴族や裕福な商人達の間で密かに蔓延しているとするならば…」
メルナの言葉に反応し、男の顔はさらに険しくなっていく。
「さらなる調査を。」
「かしこまりました。」
「それとメル、ジュリアスが動き出した。」
「予想よりも早かったですね。」
男は大きく座り心地の良い椅子に深く腰掛けた。その表情には若干の疲れが見て取れる。
ジュリアスはベルハウス家と同じく、ヘレナムア家の親族であるノイハール公爵家の長男だ。皇帝としての資質を持たないにも関わらず、現皇帝を引き摺り下ろして自分がその座に就こうとしている愚か者でもある。
「そうだな。だがこちらの守りはまだ薄い。信頼できる神官は数名引き入れたが、相手がどう仕掛けてくるかわからない以上、果たして向こうが本格的に動いた時に間に合うのかどうか。」
「陛下、その件につきましては一つ良い報告がございます。実は東のナイト神官長の息子、アランタリアを連れて帰って参りました。」
メルナの良い知らせは、僅かに男の表情を和らげた。
「ほう、あの堅物の息子か。かなりの実力者だったと聞いている。信頼はできそうか?」
「はい。彼は『閉じるもの』としての契約を終えております。」
「わかった。では彼も引き入れた上で、引き続き準備を頼む。」
話の終わりを理解したのか、彼はふと窓の方に目を向けた。だがメルナには、この日最も伝えたい話がもう一つ残っていた。
「はい。…それで陛下、最後に大事なお話がございます。」
男の顔は険しいというより、拗ねたようなものに変わる。
「メル、いい加減その口調をやめろ。今はいいと言っているだろう。」
メルナはそこでようやく微笑みを浮かべた。
「ルーク兄様、私とうとうあの子を見つけたわ。」
「どこで!?」
驚いた彼の表情には、喜びが滲む。
「予想通り、リリム王国の中でね。いくつか情報は入ってきていたのだけれど、うまく時期を合わせてホーデンで再会できたわ。」
「はぁ、そうか。よかった。」
何ものをも恐れないような男から安堵のため息が聞こえたことに、メルナはつい苦笑してしまう。
「彼女が実家を追い出されてからずっと心配していたものね。でもやはりエステリーナは、まだあの日のことを思い出してはいないようよ。」
「それでいい。あんな苦しい思いをさせてしまったことなど、その原因となった俺のことなど忘れてくれた方がいいのだから。」
(幼かったあの日、ギラギラと照りつける陽射しの中で起きたあの事件は、エステリーナにはきっと耐え難い記憶だったのね。でもそれももう遠い過去のこと)
メルナは過去から意識を戻し、ルークと呼んだ男に問いかけた。
「神殿での本鑑定の件については手を打ったわ。これでとりあえず今は彼女の命を守れそうよ。ねえルーク兄様、これでもう十分に、あの子への恩は返したのではなくて?」
そう、彼はエステリーナに未だ恩義を感じている。そして、仄かな恋心も。
「いや、彼女が…エステリーナが安心して暮らせるようになるまでは、メル、よろしく頼む。」
「もちろん!ルーク兄様の初恋の人ですもの、ね。」
だがそれは彼が背負うものの大きさを考えれば、早く捨てなければならない気持ちだ。メルナは最も彼を身近で支える臣下の一人として、ベルハウス家の次期当主として、彼を正しい方向へと導く役目がある。
もちろん彼もそんなことは重々承知しているのだろうが、どこか割り切れないその気持ちがなかなか進まない縁談の原因となっているのではないか、とメルナは疑っていた。
「さあ、話は終わりだ。」
静かに頷いたメルナは慇懃に挨拶を述べると、苦い顔を向けた彼に噴き出しそうになるのを必死に堪えて、その部屋を後にした。
― ― ―
ジュリアス・カイン・ノイハールはこの日、朝からずっと苛立っていた。
(どうしてこんな大切な日に限って雨なんだ!)
金色、と言いたいところだがどちらかといえば赤に近い茶色、そしてメルリアンやオーギュストのようなふわっとした柔らかさの無いゴワゴワとした質感の彼の髪は、湿度が高いこんな日はすぐにパサついて広がってしまう。
仕方なく鏡の前でヘアオイルを撫で付け不機嫌な顔と向き合うと、近く控えていた使用人の一人に用意されていた上着を投げつけた。
「おい!誰がこんな上着を用意したんだ!?もう少しマシなものを持ってこい!!」
上着を叩きつけられたその若い男性は、真っ青になると申し訳ございませんと叫びながら急いで衣裳室へと飛び込んでいった。
ジュリアスは先ほど整えたばかりの髪を無意識にかき上げてしまい、さらに不機嫌さを増していく。
(全くどいつもこいつも、この俺を誰だと思っているんだ?本当ならあんな厳ついだけの男ではなく、この俺が皇帝には相応しいというのに!!)
唇を噛み、近くにあった椅子の背をカタカタと足で揺らしながら上着を待っていると、先ほどの使用人が、大きく白い顎髭を蓄えた男性と共に戻ってきた。
「ジュリアス様、大変失礼いたしました。私の方で本日のお召し物を選ばせていただきましたので、どうぞご確認くださいませ。」
若い使用人はブルブルと震えながら髭の男性の後ろに控えている。ジュリアスは髭の男性が手に持ってきた濃紺の上着を一瞥すると、黙って両手を横に伸ばし、されるがままに着せられ、それを羽織った。
「ペレス、これで行く。出立の準備はできているか?」
ペレスと呼ばれたその年配の男性は、無表情のまま「はい、勿論でございます」と静かに答えると、後ろでまだ怯えている使用人を下がらせてから主人のためにドアを開けた。
「では行ってくる。さっきの男はお前が何とかしておけ。俺の視界に入らなければそれでいい。」
「かしこまりました。気をつけて行ってらっしゃいませ。」
そうしてジュリアスは顎をクイと上げると、目的の場所へと急ぎ向かっていった。