46. 本当の姿
《聖道暦1112年4月9日》
眩しい陽射し、晴れ渡る空、そして眼前にはエステルがこれまでに一度も目にしたことのない景色が広がっている。
ラトによるあの暴露事件から一日経過したこの日、ようやくこの旅の目的地であるヘレナムア帝国の帝都、『シェフィーラ』に到着した。
気まずい空気に満ちた馬車から解放されたエステルの表情は明るい。
美しく空に伸びる高層建築物の数々、それを彩るように整然と植えられた木々や花々。道はどこも広く作られ、あの高価な街灯も当たり前のように等間隔に設置されている。所々にベンチやちょっとした公園のようなものもあり、人々はゆったりと都市を楽しんで歩いているように見える。
「なんて美しい町なの…」
見るもの聞くもの全てが新鮮で素晴らしいと、エステルは目を輝かせて歩いていく。そしてその後ろ姿を一人はうっとりと、一人は優しく微笑みながら、そしてもう一人は切なそうな瞳で見つめていた。
ここまで苦難を共にしてきたあの馬車は、到着して早々に店に返却してしまったため、今四人は帝都観光も兼ねて徒歩で次の目的地に向かっているところだ。
素晴らしい町、過ごしやすい天候、エステルにとっては最高の時間だったが、ただ一つ問題があった。
それは、ラトがぴったりと寄り添い、後ろの人物に警戒心を剥き出しにして歩いているというこの状況だ。しかも時々背後からアランタリアの責めるような視線が刺さってくるのを感じる。
「ラトさん、あの、もう私達のこと知られているんだし、そんなに警戒しなくても…」
エステルが恐る恐る小声でそう言ってみると、彼はにっこりと微笑んで「無理」と答えた。
(いやいや、無理はこっちなんですが、と声を大にして言いたい!)
エステルはその気持ちをグッと飲み込むと、ラトの嬉しそうな横顔を眺めてそっと微笑んだ。
(色々あったけれど、ラトさんが幸せそうなら、それでいいか)
優しくて強くて、我儘で独占欲が強いラト。でも彼は言えなかった過去のことを勇気を出して教えてくれた。
(私も覚悟を決めて、彼に東の大陸に行くことを伝えないと!)
エステルは前を向くと、いつどうやってその話をしようかと頭を悩ませ始めた。
二十分ほど歩くと、メルナが大通りに停まっていた一台の馬車に目を留めて言った。
「我が家はここからまだまだ距離があるの。荷物も多いし、ここからは馬車で行きましょうか。」
全員特に異論も無かったので、言われるがままにそこにいた馬車に乗り込み、彼女の家に向かう。ちなみにそれを聞いて誰よりも嬉しそうに頷いていたのは、彼女の部下のビンスだった。彼はメルナの荷物の大半を運ばされており、彼女がゼンの村で大量に購入した物がその苦労に拍車をかけていたようだ。
馬車に揺られること二十分。五人が到着したのは、帝都の外れにある緑豊かな場所だった。馬車が止まったのは、どこまでも続く高さのある白い塀と金属でできた巨大な門扉のある、広場のような場所だった。
「ああ、疲れたわ!さあ、ここが我が家よ。今日からしばらくはここに滞在してちょうだい。あら、あなたはご実家が近いんだから、そちらに帰ったらいかが、アラン?」
初めは公園か何かだと思っていたエステルは、メルナの言葉に唖然とする。
「嫌ですよ。いつも部屋は腐るほど余っているでしょう?私も招待してください。…エステル、どうしました?」
アランタリアは不機嫌さを隠すことなくメルナにそう返したが、エステルは目の前の光景に気を取られ、最後に発した彼の呼びかけの言葉が全く耳に入らなかった。
メルナは口を窄めて「仕方ないわね」と言うと、エステルの背の三倍はあろうかという高さの門扉の横に延々と続く白い壁に近付いていく。その壁の一部には木の箱が埋め込まれており、蓋を開けると何か丸い大きなものが設置されていた。
彼女は慣れた手つきでそれを軽く押し込むと、数分もしないうちに続々と建物の方から人々と馬車が現れ、あの巨大な門扉が音もなく中へと開いた。
「「「お帰りなさいませ、お嬢様。」」」
使用人達の声が綺麗に揃う。度肝を抜かれたエステルはその場でメルナに詰め寄った。
「ど、どういうこと!?何、この状況!?」
メルナは少しだけ申し訳なさそうな顔をしてからこう言った。
「エステリーナ、ごめんなさい。あなたには隠していたことがいくつもあるの。でも今日はきちんと全て話すから、どうか私を見捨てないでね?」
「そ、それは、もちろん。だけど…」
言葉を失ったエステルの背をラトが苦笑しながらそっと押し、用意された非常に豪奢な馬車に乗って、今はまだ遠くに見える白亜の大豪邸へと連れられていった。
邸宅内に入ると広い玄関ホールとその先にある大きな階段がまず目に入り、パリッと皺一つない制服に身を包んだ使用人達がそこに整列してエステルらを出迎えてくれた。
アランタリアはそんな光景にすっかり慣れているようで、ヒラヒラと手を振って勝手に中に入っていったが、エステルは実家の屋敷とのあまりの違いに目を白黒させながら、ただ言われるがままに荷物をメイドの一人に手渡していた。
その後男性二人にそれぞれの部屋を案内したメルナは、エステルだけを連れて彼女の執務室らしき部屋へと入っていく。
その部屋は広々とはしているが思っていたほど華美ではなく、むしろシンプルで実用性の高い家具や調度品が設えてあった。使われている色合いも落ち着いたものが多く、エステルは入ってすぐにこの部屋で寛いでしまったほどだ。
しばらくするとメイドの一人がお茶を持って現れ、ローテーブルにそれを置くと静かにさがっていく。エステルは幅の広い薄黄緑色のソファーに腰掛け、ぼんやりとその様子を眺めていた。
そしてメルナはメイドが部屋を去ったのを見届けると、早速話を始めた。
「エステリーナ、あなたにはまず謝らなければいけないわね。私の本当の名前は、メルリアン・レナ・ベルハウス。ベルハウス家はね、代々皇帝の血筋を受け継ぐヘレナムア家の傍系にあたる公爵家なの。そして私は持っている特殊能力のせいで、次期当主となることが定められている人間。ほら、あなたも見たでしょう?あの黒いものを吸い込んだ、アレよ。」
「えっ!?」
メルナは苦笑しながら呆然としているエステルの隣に移動し、その手を取った。
「驚かせてしまってごめんなさい。でも立場上誰にでも身分を明かす訳にはいかなかったの。それでローゼン王国で使っていたのがあの『オルキンス子爵令嬢』の名前よ。それでもいつか必ずあなたには…大好きな親友のあなたには真実を伝えようと決めていたのよ?伝えるのが遅くなってごめんなさい。どうか許してね。」
エステルは彼女の真剣な謝罪をしっかりと受け入れて言った。
「いいのよメルナ。それより私はあなたをメルナと呼んでいいのかしら?私はもう平民みたいなものだし、あなたのことは…」
「馬鹿言わないで!あなたは一生私と対等な、私の大親友よ。それはこれからも変わらないし、あなたも変えないで。だから私のことは今までと変わらずメルナと呼んでちょうだい!」
メルナの必死の説得に、エステルはただ静かに頷いた。
「そして今までは自分のことを打ち明けられなかったから聞けずにいたけれど、これからはどんどん何でも聞いていくから、あなたの恋の話とか!」
「え!?ああ、ええと、お手柔らかにお願いします…」
ふふふ、とまるで少女のように笑うメルナを見て、エステルはこれまで以上に温かい気持ちに包まれ、緊張も徐々にほぐれていった。
その後も二人はゆっくりと語り合った。
メルナが皇帝陛下の指示を受けて教団の腐敗について調べていることや、何か恐ろしい存在が教団を中心に動き始めていること、そしてアランタリアは彼女の仲間の一人であることまで教えてくれた。
「そんな大事な話を私に聞かせて良かったの?」
エステルは話を聞きながらずっと思っていた疑問をぶつけてみる。するとメルナは、これまでになく深刻な表情でエステルと向き合った。
「エステリーナ、いい?よく聞いて。あなたはローゼンの教団からの指示で、これから帝都内にある『三柱神教大神殿』に行く予定なのよね?」
「ええ。今のところは。」
「以前にも言ったけれど、今教団内には何か恐ろしい存在が紛れ込んでいるわ。それが男性なのか女性なのかもわからないけれど、その人物を中心としてかなり大きな組織が出来つつあるの。全貌は全くわかっていないけれどね。」
エステルは黙って頷きながら彼女の話に聞き入る。
「彼らは『完全に呪いを受け継いでいない人間』を常時探している。だからわざわざ費用を負担してでも各地で子供達の鑑定を行っているし、それを逃れた者達も『庇護対象者』として帝都の本鑑定に呼び寄せる仕組みを整えているの。あなたもその一人ね。」
メルナはそこで言葉を切って、眉を顰めた。
「この制度は数十年前から突然始まったのだけれど、なぜこのようなことを教団が始めたのか、その理由ははっきりしていないわ。でもおそらくエステリーナのような存在が彼らの弱点に…いえ、むしろ彼らの企みを全て潰してしまうような鍵となるからじゃないかと、私達は考えているの。」
「鍵…それが、私?」
メルナはゆっくりと、だが深く頷く。
「教団内の内部事情と帝国との関係については追々お話しするつもりよ。とにかく、このまま何の準備もなく神殿に入るのは危険過ぎるわ。何らかの対策を立てなければ。」
この話を聞いたのは二度目だが、今回はその背景を知った分、エステルにはより現実味を帯びて感じられた。
「私、やはり神殿には行かない方がいいのかしら?」
エステルは少し考えた後でそう尋ねる。するとメルナはエステルの手を取って言った。
「私に考えがあるの。」
「考え?」
そしてその考えなるものが、再びエステルを大きな騒動に巻き込んでいくことを、この時の二人はまだ知らない。
― ― ―
「あ」
「おう」
男性二人が、大きなバルコニー越しに出会う。夕方の心地よい風が、微妙な緊張感を漂わせる二人の間に新鮮な空気を届けて去っていく。
ラトが何となく気まずさを感じて部屋に戻ろうとすると、アランタリアが呼びとめた。
「なあ、ラト。」
「もう本性は隠さないんだな。…何だよ先生。」
仕方なしにラトは振り返る。アランタリアの顔に夕陽が当たり、男の自分からしてもその美しさに称賛の言葉を投げかけたくなるほどだ。
「エステルのこと、俺は諦めてはいない。」
ラトはじっとアランタリアの灰色の目を見つめた。
「あれだけ見せつけたのにか?」
「まだ完全に拒絶はされていないんでね。…一旦逃げるとは言われたが。」
アランタリアは何かを思い出したかのように下を見て微笑む。ラトは眉間に皺を寄せてその嬉しそうな表情を見つめた。
「逃げられてるくせにまだ追うのか?それだけの美貌があれば選びたい放題だろ?」
「それはそっちも同じだろう?俺からは散々遊んできた男のように見えるけどね。」
「…」
「…」
少しずつ暗くなっていく空。そして、風が止んだ。
アランタリアは静かに、だが何か強い意志をラトにぶつけるかのようにこう告げた。
「俺に言い寄ってくる女性はいくらでもいるが、俺から逃げる女性はエステルだけだ。俺が、逃したくないのも。」
一瞬だけ、互いの視線がぶつかり合った。ラトの心に危険を知らせる音が鳴り響く。
焦ったら負けだ。落ち着け!
「だから執着しているんだろ?先生の周りにいない女性だから。…とにかく、宣戦布告されたことは理解した。じゃあな。」
それだけ言うとラトは再び彼に背を向け、部屋に戻っていった。