45. 独占欲
《聖道暦1112年4月8日》
ゼンという村で昼食と休憩を終えた四人は翌日、危険で大型の魔獣が潜むと言う高地に差し掛かっていた。
そこには草木はほとんど生えておらず、ゴツゴツとした大きな岩がそこかしこに見えている。びゅうびゅうと音を立てて吹き抜けていく冷たい風が、よりこの場所の荒んだ景観を際立たせているようだった。
エステルは上着を二枚重ねて羽織り、メルナはどこに隠し持っていたのかわからないようなぶ厚い毛皮のコートにくるまっている。
それなりに舗装されている道ですらガタガタと大きく馬車を揺らし、エステルは隣に座るメルナに何度もぶつかっては謝罪を繰り返していた。
「ああっ、また!ごめんなさい、痛かったでしょう?」
「ふふ!エステリーナはとても柔らかいもの、大丈夫よ!」
「あー」
「確かに」
メルナの発言になぜか男性二人の小さな声が反応する。その言葉にメルナは呆れ顔、エステルは無表情になり、女性二人は目の前の男性陣からそっと目を逸らした。
― ― ―
《聖道暦1112年4月7日》
村を出る直前、エステルは深く悩んでいた。それは、ラトとの関係が変化したことをメルナ達に告げるかどうか、ということだ。
(もしラトさんと恋人同士になりました、なんて言ったら、メルナは大騒ぎするわよね。そしてアラン先生は…ああ、狭い馬車の中でこんなことがバレたらどんなことになるか!想像するだけで恐ろしいわ!)
今後の混乱を恐れたエステルは、集合場所に向かう道中でラトに相談を持ちかけた。
「ねえラトさん、お願いがあるのですが…」
ラトの微笑みがエステルの目に映る。すると彼は当たり前のように手を握って歩き始めた。
「何?言ってみて。」
再び手を握って歩けることを嬉しく感じつつ、エステルは思い切って言いにくいお願いごとを口にする。
「私達のこと、二人にはしばらく内緒にしてもらえませんか?」
「え、どうして?」
ラトの雰囲気が変わり、二人は同時に立ち止まる。エステルはどうにか説得しようと真剣に説得を始めた。
「だって、まだまだ馬車の中で過ごす時間が長いのに、もし二人に私達のことを知られたらどうなるかと思うと心配なんです!それにラトさんとその、仲良くするのは、二人だけの時がいいかなって…」
ラトの表情がどんどん険しいものになっていくのを見ながら、エステルの声は次第に小さくなる。
「エステル、もしかして先生に知られたくないのって」
「へ、変なこと考えないでくださいね!私はただ、あの狭い空間で冷やかされたり色々聞かれたりするのが嫌なだけで!」
そこまで言ってからラトの顔をじっと見上げると、彼は大きなため息をついて言った。
「はあああ。まあ、前向きに検討はするけど。」
「ありがとう、ラトさん!」
ほっとしたエステルが満面の笑みでお礼を言うと、ラトの表情が不機嫌なものからニヤリとした笑顔に変わった。
(はっ、この顔…何か企んでいる!?)
「エステルちゃん、じゃあ黙っている分のご褒美が欲しいな。」
「…」
「ねえ、エステル」
「ずるい、そんな顔で…」
そうして先ほどアランタリアと立ち話をしたあの大きな木の陰で、エステルはラトの腕の中に包まれたまま、深く優しい口づけに溺れていった。
― ― ―
《聖道暦1112年4月8日》
そんなあやふやな約束をした翌日のこと。
確かにこの日の午後までは、ラトは約束を守ってくれていた。馬車の中では和やかな時間が続き、このままいけば帝都まではどうにか心穏やかに過ごせそうだと、すっかり安心し切っていた。
だがエステルはわかっていなかった。
ラトという男の強すぎる独占欲と、その抜け目のなさを。
夕方近く。
それは荒れ果てた高地の中で最も標高が高い地点まで到達した時のことだった。大きな岩の陰から突如として大型の魔獣が馬車に襲いかかり、車内に一気に緊張が走った。
ラトは気配にいち早く気付き、能力による攻撃を仕掛けて相手を怯ませる。メルナもまたその八本足の魔獣を巨大な氷で固めて足止めをしようと、何度も力を放った。その間に馭者をしているメルナの部下の男は、彼の能力を使って地面にある石や土を巧みに積み上げて固め、大きな防御壁を作りあげていた。
大型になればなるほどその相貌が恐ろしいものになっていくのが魔獣の特徴だが、馬車よりも一回り大きい体、見たものの精神を蝕むような歪んだ角と複数の黒い瞳、真っ黒な体からポタポタと滴り落ちる赤黒い液体、そして時々聞こえる恐ろしい咆哮……
今目の前にいるこの大きな魔獣は、間違いなく相当ランクの高い個体だろうとエステルですら判断できた。
(怖い…大剣を使ったとしても、私ならとてもあんな魔獣には対処できない…)
ふと気付くと、無意識に震えていた手がアランタリアに握られている。平気ですから、と言って手を離してもらおうとしたその時、ガン!という音と共に馬車のドアが大きく開かれ、冷たい風が車内に強く吹き込んだ。
だがその身を切るような風の冷たさよりも、目の前の悍ましい光景に心が凍りつく。
ドアの少し向こう側に見える黒々とした巨体。まだ多少距離があるが、思わず逃げ出したくなるようなその醜悪な姿。メルナの攻撃や部下の男性が作った防御壁などものともしない強大な力。
しかしその恐ろしい姿を前にしても、全く怯む様子の無い男がここにいた。
ラトはストンと馬車を降りると、まるでその辺に散歩に行くかのようにスタスタと前に進んでいく。
そして目前にあの魔獣が迫り、大きな黒い手が空を覆ったその時。
馬車に背を向けていたラトが、虫か何かを手で払うような軽い仕草を見せた。
ヒュウウン!!
聞き覚えのない不思議な音が辺りに響いたかと思うと、あの黒く巨大な体躯が一瞬にして真っ二つになり、ゴツゴツとした地面へと倒れていった。
ドオオーーーン!!
その地響きが、馬車まで届く。
アランタリアに手を握られていることも忘れ、エステルはラトのその後ろ姿に、すっかり釘付けになっていた。
「凄すぎる」
初めて見る彼の本格的な戦闘の様子、その鮮やかな動きと迫力は、エステルの胸をときめかせるには十分すぎるほどだった。
(どうしよう、こんな時にラトさんにドキドキしちゃうなんて…)
その時ふっとラトが振り返り、目が合った。
彼は一瞬顔を曇らせたが、すぐにエステルに微笑みかける。
ザッ、ザッ。
一歩、また一歩と、彼はゆっくり歩いて馬車に戻ってくる。だがそれは、悪夢の始まりの足音だった。
「ただいま。何?大好きな俺に見惚れながら、他の男の手を握ってるの?」
「え…?あっ!?」
そう言いながら馬車に乗り込んだ彼は、エステルの手から素早くアランタリアの手を引き剥がすと、動揺しているエステルの額にキスを落としてニヤリと笑った。
「エステルはもう俺のでしょ?違う?」
「あ、あ、ああああああっ!?」
「エステリーナ!?」
「…やってくれたな。」
(バレた…終わったわ…)
顔面蒼白のエステルとは対照的に、今巨大な魔獣を倒してきたばかりとは思えないほど活力に満ちた笑顔のラト。
そしてこの時ようやく、ラトが最初から二人の関係を秘密にするつもりはなかったのだと、これは計画的な行動だったのだと、エステルははっきり理解した。
「ま、そういうことだから。ね、先生?」
「はあ…」
彼が目の前にいる最大のライバルに『エステルは自分のものだ』と主張しないはずがなかったのだ。
しかも今回の行動は、魔獣との戦いにおける自分の圧倒的な力と、それに心酔するであろうエステルを彼に見せつける、という意図も感じさせた。
ほら、エステルはこんなに俺に惚れてるだろ?と。
(そうだわ、ラトさんってこういう人だった…)
こうして全てを一瞬で暴露されてしまったエステルは、両手で顔を覆い隠すと「終わった」と小さく呟き、自らの甘さを深く深く反省して残りの時間を過ごすこととなった。