44. 君のそれは
エステルは涼しい日陰を作り出してくれている頭上の枝を見上げながら、優しい弟のこれからの幸せと無事を心から祈っていた。
さわさわ、と風で枝葉が揺れる音が心を穏やかにしてくれる。心地よくてつい目を瞑っていると、頬に温かな何かの感触を感じ、慌てて目を開いた。するとすぐ目の前に、エステルの頬に手を伸ばしたアランタリアが笑顔で立っていた。
「わあっ!?はあ、びっくりした、先生だったんですね!脅かさないでください…」
「エステル、アラン、と呼んでくれるはずでは?」
どこかいつもと違う雰囲気で佇むアランタリアに不安を感じ、エステルはこの空気を早く変えなければと、急いで辺りを見回した。
「ええと、あ、ほら先生!あちらの木の根元に生えているのは、薬草でしょうか?私の国では見たことがなく…て…」
だがその企みは彼がエステルの手首をそっと掴んだことで、失敗に終わったのだと理解した。
「アランだよ。エステル。」
いつもより強く主張する彼に、つい気持ちが負けてしまう。
「は、はい、アラン。」
「そう、よくできました。」
そう言うと彼は一気にいつもの優しい雰囲気を取り戻し、掴んだ手首をそっと下におろした。しかし彼の手はまだエステルの手首を握ったままだ。
彼はその状態で横に並んで立つと、遠くを見つめて言った。
「エステル、あなたはラト殿のことが好きなのですね。」
「えっ!?」
唐突で衝撃的な質問に言葉を失ったエステルは、アランタリアの横顔を凝視したまま固まってしまう。彼はふっと微笑むと、目線を落として静かに言った。
「わかってはいたのです。でも今日の馬車での様子を見て、確信しました。」
「アラン…」
(そう、私ってそんなにわかりやすかったのね。でもこれでもう先生は…)
だが一瞬訪れたその安堵の気持ちは、彼の発言ですぐに消し飛んでしまうことになる。
アランタリアは首を軽く横に傾けてエステルの目を見つめると、これまでで一番と言えるほど妖艶に微笑んでこう宣言した。
「だけど絶対に俺は、あんな無責任な男にあなたを渡さない。もう遠慮なんて一切しないから。いいよね、エステル?」
「え…えっと、『俺』?え?誰!?」
エステルは耳を疑った。今横に立っているのは、もうエステルの知るアランタリアではなかった。
「あーあ、せっかくあなたに合わせて優しい先生でいてあげたのに、あんな風に恋する女の子の目を見せられちゃったら、本気出さない訳にはいかないよね?」
「…別人?双子!?」
「まさか。こんな綺麗な顔の男、この世に二人といないでしょ?まあ今までの『あれ』も俺には違いないけど、元々はこんな感じかな。それより…」
「ひいっ!?」
エステルは思わず彼の手を振り払うと、後ろに下がって警戒体制を取った。
アランタリアは自分の髪を持っていた何かで軽く結んで片方の肩に流すと、先ほどより明らかに色気のようなものを醸し出しながらエステルの方へと歩み寄る。そしてその破壊力抜群の顔を限界まで近付けて言った。
「俺をこんなに本気にさせたくせに、まさか逃げるなんて言わないよね、愛するエステル?」
「…い」
「い?」
「一旦逃げます!!」
「え…」
呆気に取られた様子のアランタリアの横をすり抜けて、エステルはその場から全速力で逃げ出した。
(おかしいおかしいおかしい!!先生じゃない、あんなの先生じゃないわ!?どうするのこれから?もう、どうするのよエステリーナーーーっ!?)
そうしてエステルの長いようで短い休憩は、騒々しく荒々しく終わりを告げた、はずだった。
― ― ―
「ん?なんだあれ?エステルが何か叫びながら走ってる…」
買い物を済ませたラトは、その意味不明な光景を目撃し困惑していた。
彼女は一体どこから走ってきたのかと道を辿って見てみると、大きな木の下に、なぜか腹を抱えて笑っているアランタリアの姿が見えた。
「あの先生が爆笑してる…もしかして世界が終わる前触れか!?」
「馬鹿なことを言っていないで、早く彼女を追いかけたら?」
ラトが声に気付いて振り返ると、そこには大量の紙袋を抱えたメルナが立っていた。
「何だそれ?」
「色々よ。それよりいいの?彼、もう本性を隠すのをやめたみたいよ?」
本性、と言われてラトは合点がいった。
「ちっ、やはりか。あいつ、絶対にあんな大人しい性格じゃないと思ってたよ。最初の女性達への辛辣な態度との差があり過ぎておかしいと思ってたんだよな。あれは絶対、女性に囲まれて生きてきた男だ!!」
「ふふふ。まあ、あなたほど長く生きていればわかるわよねえ。そうよ。彼、学生時代は特に凄かったんだから。何十人、いえ何百人もの女性達が、あの驚異的な美貌と色気に惑わされ、弄ばれ、そして散っていったの…」
メルナの芝居がかった説明を白い目で見ていたラトは、苦々しい表情を隠そうともせず声を荒げた。
「何が『女性に慣れてなくて』だ!!そうだ、エステルは大丈夫か!?もしかしてあいつに誑かされて…!」
メルナはふふっと楽しそうに笑う。
「まさか!まあ、多少はあの美しい顔の威力に負けそうになったかもしれないわね。でもあの子はいつだってあなたのことだけを真っ直ぐに見ているわよ。本当はわかっているくせに。」
「…」
ガサゴソと音を立てながら紙袋を抱え直したメルナは、さて、と言って動き始める。
「私は先に戻るわね。いい、絶対に手を離してはダメよ。アランは悪い男ではないけれど、私はあなたに託しているのだから。」
「わかってる。」
そうしてメルナは馬車に、ラトはエステルを追って、二人はそこを離れた。
― ― ―
「エステル?」
ラトの声が聞こえる。ああ、もうそんな時間なのだろうか?
「何してるんだよ、そんな所で。」
「穴を掘っているの。」
「あな…」
ラトが呆れているのがわかる。木の棒でいじいじと道端で土を掘っているこの状況もおかしいだろうし、見たままを伝えている自分もどうかしていると思う。
「もっともっと深く掘って、ここに埋まってしまいたい…」
「こらこら!こんなところに穴を掘るのもダメだし埋まるのはもっとダメだろ!?」
「酷いラトさん!いいじゃない、ちょっとは現実逃避したって!!」
「…」
明らかに困惑した様子が上から伝わってくるが、エステルは気にせず、しゃがんだ体勢で土を掘り続けていく。ザッ、ザッという無機質な音が、今の空虚な心を表しているかのようだ。
「ラトさんは散々私に迫った挙句、何度もキスをしたくせに突き放すし、先生はあの顔で私を翻弄して困らせて、実はもっと恐ろしい本性と色気を隠し持っているし、キスだって何度も…」
「え、さらっとそんな爆弾発言…」
「あーーーっ!!もう嫌!!私はやっぱり一人で帝都に行くべきだったのよ!!雇い主を振り回してばかりいる護衛なんかもう要らないわ!!先生だって馬車も無いのに、どうして帝都までついてくるのよ?もう全部無理無理無理無理!!」
グサッ!!
最後に力を込めて木の棒をその穴に突きさすと、エステルは手や膝に付いた土を払い立ち上がった。
(言いたいことはみんな言ってしまった。これで踏ん切りがついたわ。帝都に着いたら、もうラトさんのことは忘れよう…)
エステルがそう決意した時、ラトはじっと何かを考え込んで下を向いていた。
― ― ―
「はあ。時間ですよね。行きましょうか。」
「待ってエステル!」
ラトはここまで静かに状況を見守っていたが、疲れた表情を見せるエステルの手を掴んで彼女と向き合い、しっかりとその目を見て言った。
「俺が悪かった。エステルがこんな状態になったのは、きっと俺のせいだよな?」
「…」
エステルは下を向いてしまい、それには答えない。
「俺の過去、まだ知りたいか?」
ラトの手に、ビクッとした反応が僅かに伝わった。だがエステルはまだ無言だ。
「言えない訳じゃないんだ。ただ勇気がなかっただけで。その、好きな人に…避けられたく、なくて。」
ゆっくりとエステルの顔が上がっていく。ラトはあと一歩だと、覚悟を決めた。
「本当は全部話したい。でもいきなり全部は俺も辛いから、今一つだけ伝えられるのは…俺は、俺の、本当の名は……」
その時ラトは、エステルの長いまつ毛と夜の空のような黒い瞳を、ようやく見つけた。
「ニコラ・トール・マリシュ」
「ニコラ…え…?」
エステルの目が、大きく開いていく。
「それって、あの、帝国の伝説の英雄、ニコラ…?」
ラトは小さく頷く。顔はどうにか冷静さを保っていたが、内心ではこれで全て終わってしまうのではないかとビクビクしていた。
そして数分の沈黙の後、エステルがついに口を開いた。
「長い時間を生きて…寂しくは…なかったですか?今は、辛くないですか?」
「!!」
それはラトが予想もしていなかった、自分の人生全てを見透かすかのような、愛のある優しい言葉だった。
エステルの目には小さな雫が湧き上がり、その潤んだ瞳には、ラトが長い間ずっと心の底から渇望していた『何か』をしっかりと映し出していた。
もっと責められると思っていた。
信じてはくれないと思っていた。嘘だと言って突き放されると。
でも、そうではなかった。
「ニコラ、さん?」
(馬鹿だな俺は。エステルはこんなにも俺のことを大切に思ってくれていたのに、ただずっと、俺が勝手に恐れていただけだったなんて…)
「ラトで…ラトでいいよ、エステル。俺は、俺は…もう二度と…う、ううっ、うわあああああああっ!!!」
その瞬間、ラトの中の記憶が、苦しみが、答えのない問いが、その言葉にならない全てが嗚咽となり、涙となり、全身を震わすような叫びとなって溢れ出した。
ずっとずっと愛を欲していた自分、そしてその愛を裏切られた自分。
それでもどこかで愛を信じていたくて、もう二度と得られないかもしれないと思いたくなくて、何十年も孤独の中でもがき苦しんできた人生だった。
そして全てを諦めかけた頃、エステルと出会った。
希望が見えた。
だがそれ以上に、気が付けば逃げ場がないほど彼女に惹きつけられて、再び愛を求めてしまった。臆病なのに、貪欲に、彼女の全てを欲しがった。
困らせて、振り回して、突き放してきた。
そんな俺に君は…
「ラトさん、もう大丈夫。大丈夫だから泣かないで…」
――ああ、君のそれは、絶対に『愛』だと思うんだ。
エステルは優しくラトに語りかけながら、地面に伏せるように号泣するその丸まった背中を、いつまでも優しく抱きしめ続けていた。
十五分ほどそうしていただろうか。ラトはようやく落ち着きを取り戻し、エステルと向き合って地面に座っていた。
「ごめん。」
「いえ。」
どちらからともなく両手を繋ぎ、顔を見合わせる。
「ラトさん、変なこと聞いてもいいですか?」
「変なこと…何?」
エステルはなぜかモジモジしながら言うのを躊躇っている。その姿が妙にいじらしくて、ラトは握っている手の親指でエステルの手の甲をそっとなぞった。
「んっ、くすぐったい!」
「エステル、早く!(理性が!!)」
「え?ああ、ええと、本当はどっちの名前で呼ばれたいですか?」
どうにか冷静さを保てたラトは、一瞬考えた後即答する。
「ラト、だな。」
「どうして?」
「だって、大好きなエステルがずっと呼んでくれてた名だからさ。」
「…」
「何だよ?」
「よくそんな恥ずかしいことさらっと本人に言えますね。」
「年の功だな。」
「え?あ!そう言えばラトさんって今おいくつなんですか?」
「それ聞いちゃう?あー、多分、百四十…」
エステルの表情がみるみる強張り、ラトはそれを見て深くため息をついた。
「はあああ。やっぱり引くよなあ。見た目はともかく、年齢的にはただのじいさんだもんなあ。…なあ、エステル。」
「は、はい。」
「無理なら無理と、今ここで教えてくれ。」
それはラトにとって、ずっと、一番恐れていた瞬間だった。
(でももう俺は逃げないと決めた。だからどんな答えでも、エステルの気持ちを受け入れる!)
するとエステルはゆっくりと顔を綻ばせ、ふふっと笑ってから言った。
「あなたがいくつでも、大好きですよ、ラトさん。」
そしてエステルは目を見開いたまま微動だにしなくなったラトの唇に、そっと、自分の唇を重ねていった。