40. 追い込まれた男
ドゥビルの町の外れにある大きな古い廃屋敷は、数年前にとある子爵の後継者が特殊能力の条件を満たさなかったことで廃嫡となり、その際に手放すことになった建物だ。
外観は蔦が絡みつき薄汚れているが、内部のいくつかの部屋はこの屋敷を密かに買い取った男により、外観からは想像できないほど美しく清潔に整えられている。
そして現在、そのうちの一室にて、二人の男性による密会が行われていた。
「大変お待たせいたしました。いやあ、まさか別邸とは言え我が屋敷が襲撃されるとは予想外でしてね。今回は慌ただしくこちらにお呼びたてしてしまって、大変申し訳ございませんでした。」
丁寧に謝罪をする赤毛の男の顔には余裕の笑みが張り付いている。屋敷を襲撃された人とは思えないほどの穏やかな表情だ。
そしてその男の目の前には、黒い髪を後ろに撫でつけ、ジャラジャラとした貴金属を見せびらかすように身につけている小太りの中年男性が座っていた。
「まあいい、お前も大変だったのだろう。こちらは予定通り五人集めてもらえたのだから特に文句はない。しかしこれからどうするのだ?この町にはもう居られまい?」
小太りの男性が小さなテーブルに置かれたグラスを手に取って椅子の背にグッと寄りかかる。
「ええ、ですからほとぼりが冷めるまでどこかで身を隠そうかと。いくつか候補はございますので、そこで一年ほど遊んでから別の場所でまた…」
赤毛の男がデキャンタに入った酒を差し出しながらそう答えると、もう一人の男性が手にしたグラスに注がれた琥珀色の液体を揺らしながら微笑んだ。
「ふっ、そうか。その時はまた頼む。まあしばらくはあの五人で楽しめそうだからな。」
「それはようございました。こちらも再開の目処が立ちましたら、必ずご連絡差し上げます。」
二人の低く暗い笑い声が、広く薄暗い部屋の中で小さく響く。
だがその時、西側のバルコニーに面した大きなガラス戸がカタカタカタカタ、と音を立てて揺れだした。
「ん、何だ?地震か!?」
「いえ、この辺りは地震などほとんどございませんが…」
そしてそれは、唐突に起こった。
ドーン!!ガッシャーーーーン!!!
細かく揺れていただけだったガラス戸が突然、枠の部分までも破壊されるほどの勢いで吹き飛び、部屋の内側には大量の破片が飛び散っていった。一瞬で埃まみれになった男達は状況を掴めず目も開けられず、ただひたすらに叫び声を上げる。
「うわあっ、何だこれは!?おい!何事だ?誰かいるのか!?」
「ウィラード様!お、お怪我はございませんかっ!?」
少しして、パラパラという破片が床に落ちる音が静まってきた頃、赤毛の男はそこに三人の男女が静かに立っていることに気が付いた。
だがよく考えるとこの部屋は三階にある。もし先ほど割られた窓から入ってきたのだとしたら、一体どうやってここまで登って来ることができたのか?
まるで空中を浮遊してきたかのような三人のその静かな登場に、二人の男達はすっかり腰を抜かしていた。
― ― ―
「まあ!これはこれはウィラード侯爵ではございませんか!お久しぶりですね。お会いするのは先々月の我が家でのパーティ以来かしら?」
メルナのその場違いな挨拶に、ウィラードと呼ばれた男性は目を大きく開き、次第にガタガタと震え始めた。
目の前で起こっている状況が掴めず、ただ狼狽えながらその様子を見つめているのは、赤い頭を埃だらけにして座り込む中年男性、フィリペ・ランジュだ。
「べ、べ、ベルハウス家の…!?」
「ええ!次期当主、メルリアン・レナ・ベルハウスですわ。まあまあ、ずいぶん埃まみれになられて、このような場所で一体何をされていらしたのです?」
「いや、その…」
ほぼ現場を押さえられた状態の彼に何かが言えるはずもない。彼らがしていた行為は明らかな人身売買であり、証拠はもう十二分に揃っている。よく見ると倒れたテーブルの向こう側には、大量の金貨が散らばっていた。
「ああ、女性達の居場所は把握しておりますからご心配なく。ではお二人とも、私達と然るべき場所へ参りましょうか?」
メルナのその一言が、フィリペの顔色を青一色に変える。そして彼は唐突に叫んだ。
「う、うおおおおおおっ!!」
「何だ、どうした!?」
ラトが額に手を当てようとするより一瞬速く、フィリペは自分の左手首を右手で掴んで部屋の奥に逃げ込むと、その手から大量の縄のような、太い蔦のような茶色の何かを噴出させた。それはほんの数秒で部屋中に広がり、ウィラードも落ちている金貨も、床も壁も何もかもが見えなくなるほど太く大きく、その空間を占拠していった。
『燃焼』
メルナの声が低く響き、フィリペが噴き出した茶色い物体に火が着いた。だがその物体は湿気を多く含んでいるのか、それ以上勢いよく燃え広がってはいかない。
体を絡めとろうかとするように伸び続ける物体を、三人はナイフや能力を駆使して切っていくが、どれだけ切ってもまた別の場所から伸びてきてしまい、なかなか終わりが見えない。アランタリアもこの状況下では、能力を抑える祈りがうまく使えないようだった。
そうこうしている間に茶色い物体はさらに増殖を続け、このままではまずいとメルナが判断したその瞬間、ラトが無言で大きく手を振り上げた。
すると部屋中を覆い尽くして蠢いていた茶色い物体の動きが急に停止し、内側から破裂するようにバーン!バーン!!と音を立てて次々に爆散していった。
辺りに飛び散った物体の破片がバラバラと落ちていく中、メルナは若干呆れ顔でラトを見た後、フィリペの姿を探し始めた。
「あなた、とんでもないことをするわね。まあいいわ、ところでフィリペはどこ……え?」
メルナが目を凝らして部屋の隅に目をやると、そこには床に腰を下ろし、俯きながらながらケタケタと気味悪く笑う彼の姿があった。その横には何か黒く、小さな粒状のものが数粒入った瓶が転がっている。
「どうしたのでしょう?追い込まれて気でも触れたのでしょうか?」
「わからないわ。でも気をつけて、アラン。」
二人が警戒しながらその場でフィリペの様子をじっと窺っているのを横目に、ラトは前に一歩踏み出した。
「ちょっとあなた!?」
「心配するな。だがこれはまずいな。先生、悪いが念のため準備を頼む。」
「はぁ…わかりました。緊急時ですから、いつでも対応します。その代わり、万が一のことがあれば一撃で頼みますよ。」
ラトは黙って頷き、さらに数歩前に進む。
フィリペはその間も笑いながら何かをぶつぶつと呟いている。そして彼の首筋には、何度も見たことのあるあの悍ましい赤や紫色の筋が現れ始めていた。
「薬だ薬をくれ黒いあれ黒く黒もっと嫌だ嫌だもっとあああああ」
支離滅裂な言葉とは裏腹に、その表情は次第に穏やかで恍惚感に満ちたものへと変わっていく。このまま放っておけば彼は間違いなく、普通の兵士なら数人でかかっても対処が難しいほどの存在へと変化していってしまうだろう。
「追い詰められて人間をやめるとは本当に愚かだな。だがそれは始まってしまったらもう誰にも止められない。いや、おそらく彼女以外は…」
最後は消え入るような声でそう呟くと、ラトは額に指を置き、フィリペを凝視した。
(これを使うのは、いつぶりだろうか)
『分離』
その声がラトの口をついて出た途端、フィリペの声は途切れ、全ての動きが止まった。
そして、その場の全員が時さえも止まったかのような錯覚に陥りかけたその時、フィリペの首から上の部分がゆっくりと宙に浮き上がると、それはまるで悪夢のように、鈍い音を立てて床に転がり落ちていった。
「…ラト殿」
アランタリアが肩に手を置く。この時のラトは無意識のうちに床に片膝をついて右手で頭を支え、しばらくの間微動だにしていなかったようだ。
「あ、ああ、すまない。」
意外とまだ余力があるようで、ラトは自力で立ち上がり、倒れた男の体をじっと見つめ始めた。
フィリペの体は壁に寄りかかり、その首が先ほど見つけたあの黒い薬が入っていた瓶に寄り添うように転がっている。どちらからも血液のようなものは全く流れておらず、まるで蝋で作った人形かのように現実味の無い遺体がそこにあった。
そんな彼の最後を目と記憶に焼き付けるように、ラトはさらに彼に近寄ってその姿をしっかりと確認する。その行為は、この許されざる力を使った時の自分への最低限の戒めであり、相手への贖罪でもあった。
(魔人化が始まっていたからとはいえ、何度やってもこの能力を使う自分は許せないものだな……)
胸の中に広がっていくどす黒くどんよりとした感情が、ラトを久々に遠く苦い思い出しかないあの記憶へと、深く深く導いていった。