⒊ 小さな盗人
《聖道暦1112年3月6日》
前日は予定通り小さな宿場町に宿泊し、翌朝早くその町を出た。
そこからしばらくは農村地帯や荒れた雑木林の中を通るなどして街道を進んでいったが、その次に立ち寄る予定の町はだいぶ先にあることをラトから聞かされたエステルは、渋々この日は野営をすることに決めた。
(ああ、そうだわ、明日は私の二十歳の誕生日ね。今年は一人の誕生日になりそうだけれど、もし今ここにヒューが居たら、きっと盛大にお祝いしてくれていたわね…)
ほんの少しだけ感傷的になりながら馬車を進めていくと、夕方近くになってようやく「ここなら良さそう」と思える場所を発見した。
平らでまばらな木が生えているそこは、街道から少し奥まった場所にある野営に適した場所だった。いくつもの野営の跡が残されているので、この辺りを通る旅人達には定番の宿泊場所なのだろう。
「お、いい場所見つけたねえ。でもここ、変な噂もあるから気をつけろよ。」
注意喚起の割には気楽に話すラトの言葉に、エステルは顔を顰めた。
「私はいつでも気をつけていますよ。あなたは居ない人も同然ですから。」
つい棘のある言い方をしてしまってから、エステルはハッとして言葉を追加した。
「まあ、報酬が安い分そういう契約ですから当然ですけど。とにかく、私は大丈夫ですからラトさんも適当に過ごしていてください。」
気まずい気持ちを誤魔化すように、エステルはその場を離れ近くの川に水を汲みに出かけた。ラトは黙ってその後ろ姿を見送っていたが、ふと何かに気付いて辺りを見渡す。
「何かいるな…今夜はひと騒動あるか?」
だがその呟きは、もうエステルの耳には届いていなかった。
その晩、簡素な食事を終えて外で寛いでいたエステルは、テントの中ですでに寝息を立て始めたラトのことを考えていた。
護衛の仕事はほぼ放棄している彼だが、先ほどまで食事の準備や片付け、テントの設営など、細々した作業を当たり前のように手伝ってくれた。その動きがあまりにも自然だったことにエステルは驚き、そして混乱していた。
(このラトという人は一体何者なの?あんなに働かなかったくせに、気遣いは人一倍できる。護衛の仕事だけ怠けているのも、報酬が少ないことを私が気にすると思ったから?)
目の前でパチパチと爆ぜる焚き火の音を聞きながら、エステルは一人、ラトという正体不明な男の小さな迷宮に入っていく。だがまだ彼と旅を始めてたった二日しか経っていない。これから少しずつわかっていくこともあるだろう。
それにしても、とエステルは再びテントに目を向ける。
離れているとは言え、よく知りもしない男性と一緒のテントで寝るのは少し緊張してしまう。もう少しだけ焚き火をしてから寝よう、そう決めて枝を探すために重い腰を上げた時、何かの違和感に気付いた。
(ん?誰か近くにいる?)
立ち上がると同時に人の気配を感じたエステルは、そっと聞き耳を立てた。焚き火の音の反対側、今いる場所より少し低い場所で、誰かがこちらの様子を窺っている気配がある。
エステルは急いで焚き火を消すとテントの中に入り、貴重品を全て腰につけた袋の中へと投げ込んだ。衣類などの大きな荷物はテントの入り口近くに置いたままだが、あえてそのままにしておく。
物取りか、それとも誘拐か。どちらにしろすぐに動けるようにと、エステルは短剣だけを手元に残し、寝袋を上から被って寝たふりをしながら侵入者を待った。
するとしばらくしてから、何やら植物が燃えたような匂いが漂ってきた。嗅いだことのある独特な匂いだが、特にこれといった効能もないはずで、なぜそんなものをここで燃やしているのかはわからない。
そしてある程度匂いと煙が落ち着いてきた頃、今度はテントの入り口に小さな手が二つ見えた。
(え、子供!?)
その手は必死にエステルとラトの鞄を外に引っぱり出し、そのまま地面を引き摺るようにして去っていく。そっと頭を上げて外を見ると、黒く小さな人影が二つ遠ざかっていくのが見えた。
エステルは急いで体を起こすと、その人影を追っていこうとテントに手を掛けた。だがその瞬間、その手を誰かにぐっと掴まれる。
「キャッ!?」
「おっと、どこに行くのエステルちゃん?」
「ラトさん?起きてたんですか!?」
「そりゃあねえ。あれだけ堂々と盗みにくればさすがに起きるでしょ。」
エステルは彼の手を振り払うとテントを飛び出し、星あかりの元でラトと向き合った。するとラトもまたテントを出てニヤリと笑うと、エステルの方に顔を近付けて言った。
「尾行、するんだろ?」
「…ええ。」
そして二人はまだ暗闇に包まれたその場所から、先ほどの二人の気配を追って動き始めた。
子供達の動きは思っていた以上に遅かった。おそらくラトの方の荷物がかなり重かったのだろう。引き摺った跡が地面にくっきりと残っており、後からでも十分追跡できそうなほどだった。
「一体あの鞄、何が入っているんです?」
気になったエステルのその問いに、ラトは「大きい石二十個」とぶっきらぼうに答える。予想外の中身に唖然としていると、彼は苦笑して言った。
「こんなこともあろうかと思って入れてただけだよ。言っておくけど、石を集めている変なおじさんじゃないから。」
エステルが呆れたように首を振って前を向くと、子供達が古びた木造の建物の中に入っていく様子が見えた。この辺りには似たような家、というより物置小屋のような建物が点在している。
「あれが家…ではなさそうだな。さてエステルちゃん。」
大きな木の影に隠れながらエステルはラトの方にチラリと目を向けた。
「何ですか?」
ラトは木を背にしながらじっとその目を見つめて言った。
「これからどうする?あの子らを捕まえて荷物を取り返す?それとも荷物は諦める?」
その問いかけには何かを探るような意図が感じられた。少し考え、エステルは答える。
「荷物は取り返すわ。でももう少し様子を見ます。焦って飛び込んで、中に危険人物が居たら、私なんてひとたまりもないもの。」
「ふうん。」
他人事のように気のない返事をする護衛ラトに見切りをつけたエステルは、腰につけたあの袋から太い銀色のチェーンのペンダントを取り出した。ヘッド部分には何の変哲もない白く丸い石が付いている。それをしっかりと首に掛けると、その石の部分に唇を当て、集中力を高め始めた。
すると白い石が音もなく光り始め、それと同時にエステルの体は完全にその場から姿を消した。
「ほう!精霊道具とはずいぶん古い物を持ち出したな!ああ、その袋もそうなのか…」
ラトはどうやら精霊道具のことをよく知っているらしい。
今では誰も使いこなすことのできない古代の道具。かつて人々は精霊達の力を借りて、様々な便利で安全な道具を編み出してはそれを利用していた。だがノクトルからの呪いによって精霊との繋がりが切れ、それ以降一切それらの道具を使えなくなってしまったのだ。
しかしこの道具達は、何の能力も持たないエステルにとってたった一つの希望だ。
精霊道具はあまりにも古すぎてほとんど現存してはいないのだが、特殊な力が宿っているせいか、壊れたり破れたりしていることはほとんどない。しかも蒐集家というのはどこにでもいるもので、彼らを根気よく探して交渉し、弟のヒューイットがエステルのためにそのうちのいくつかを購入してくれたのだ。
そして今首につけているこのペンダントは、身に着けた人の存在を綺麗に隠してしまう代物。ただし存在そのものを消すわけではないので、声や見た目は消えても、物体として接触すれば存在には気付かれてしまう。
エステルはペンダントの効果を確認しつつ、慎重に子供達が入っていった小屋へと近付くと、汚れて白くなっている窓から中を覗き込んだ。するとそこには男性が二人と、彼らに荷物を確認してもらっている痩せこけた二人の男の子達が見えた。
(奥に荷物が山積みになっている…きっと盗品ね。それとあの若い男二人があの子達の家族とはとても思えない。となるとこれはあの男達に無理やり盗みをやらされてるってこと?)
嫌な気分になりかけて、目を瞑り気持ちを落ち着かせる。今考えるべきことは、とにかく荷物を取り戻すこと。
気を取り直して再び窓の中を覗いてみると、男達が全ての荷物を裏口から運び出し、小屋の外に置いてある幌馬車に載せている様子が見えた。そして残された子供達はその何もなくなった部屋の片隅で、互いに温め合うように寄り添って眠り始めた。
エステルはそこでふう、と一つため息をついた。集中力はそう長くは保たない。深呼吸してもう一度集中力を高めてからあの幌馬車に乗り込もう、そう決めた時、肩をガシッと掴む手の感触がエステルを心底驚かせた。
「お、見えた見えた。」
「な、何で、どうやって私のいる場所がわかったんですか!?」
肩を掴まれた瞬間、石の効果はまだ切れていなかった。それなのにラトに自分のいる場所を見破られていたことに狼狽し、石からは光が消え、エステルの姿は再び目に見えるようになっていた。
「そろそろ集中力も切れる頃でしょ?無理は禁物。」
だがラトは答えにならない答えを返すと、エステルの正面から首元に腕をまわし、ペンダントをそっと首から外す。
「え、あっ!?」
予想外の彼の行動に再び動揺してしまったエステルは、ペンダントを取り返そうとあたふたと手を伸ばす。ラトは背の高さを生かしてペンダントを上に持ち上げると、エステルを面白そうに見つめながら言った。
「たまには護衛らしいこともしないと君に嫌われちゃうからねえ。エステルちゃんはちょっとここで休んでてよ。」
「ラトさん?」
そしてペンダントを奪い取ったままラトは素早く小屋の中に入ると、縄のようなもので拘束した子供達を連れてあっさりと戻ってきた。さらにその場で子供達を問い詰めて事情を説明させると、あの男達の居場所まで白状させたのだ。
「なるほど。つまりお前達兄弟は口減しで売られて、あの男達に盗みの手伝いをさせられていたと。」
子供達は半泣きで頷き、つっかえながらも自分達の事情を事細かに話し続けた。
その結果分かったことは、あの男達はこの辺りの貧しい家の子供を買い取り、盗みの手駒として使っていたということだった。言うことを聞いておけば親に金が入ると言い聞かせ、せっせと旅人の荷物を盗ませていたらしい。
以前はもっと子供がいたそうだが、他の子は全員捕まったり逃げ出したりしてしまい、中には売られてしまった子もいて、結局今はこの兄弟二人だけになってしまったとのこと。
ちなみに今日はたまたま弟が間違った薬草を使ってしまったため失敗したが、普段は睡眠導入効果のある薬草を焚いていたのでこれまで一度も捕まらなかったということも教えてくれた。
「というわけなんだけど、エステルちゃんはこれからどうしたい?」
ラトは子供達を一旦馬車に乗せた後、少し離れた場所で今後の相談をし始めた。エステルは下を向いて考え込んでいたが、やがて何かを決意し、顔を上げた。
「子供達を然るべき場所に連れていくわ。次の町の役人のところしかないわね。そして荷物を取り戻す!」
ラトはそれを聞いて意外そうに眉を上げた。
「へえ。てっきり親元に返してあげたいわ、とか言い出すかと思っていたが…」
そう言って口角を上げる彼は、何もかもを見通すかのような視線を向けてくる。その視線の強さに、エステルは思わず目を逸らした。
「この辺りは貧しい人々が多い地域なの。女で、しかも能力の無い私は、父から領地のことを教えてもらうことはできなかったけれど、この周辺のことは自分の手足で学んできた。だからわかる。売られた子供を家に戻したところで、家族が全員行き倒れになるだけ。たとえ非情に思われても、私は最も生き抜く可能性がある道を、あの子達に作ってあげたい。」
それはエステルの本心だった。自分自身もそうやって少ない選択肢の中で生きてきたのだ。何よりも生き抜くこと、その大切さを身をもって知っているからこその言葉だった。
ラトにもそんな気持ちが僅かにでも伝わったのだろうか。彼は子供達の方に目を向けると、静かに言った。
「そうか。なら俺は君のその信念のために、ちょっとだけサボっていた分の仕事をしてくるよ。」
「…ちょっとだけ?」
「あはは、そこつっこんじゃう?」
ラトは相変わらずのふざけた調子でそう話すと、エステルにテントで待っているようにと伝え、子供達を連れて馬車でどこかへ行ってしまった。
「変な人。でも、ちょっとは仲良くなれそうかしら?」
エステルはクスッと笑みをこぼすとテントに戻り、疲れた体をずるずると寝袋へと滑り込ませていった。