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38. 後悔の向こう側②

 《聖道暦1112年4月5日》



 エステルが目を覚ますと、すでに外は明るくなっていた。と言っても実際にはまだ目は開いていない。閉じた瞼越しに感じる光が、疲れ切った体を少しずつ覚醒させていく。


 するとそれまでぼんやりとしていた感覚が徐々に戻っていき、左手に何か柔らかな温もりを感じ始めた。目を瞑ったままそれをキュッと握ったり上に持ち上げたりしていると、すぐ耳元で、聞き慣れた優しい声がエステルを呼んだ。


 「起きたのですか、エステル?」


 ゆっくりと目を開けてその柔らかなものの正体を確かめると、どうやらそれはアランタリアの大きく温かな手だったようだ。


 「先生?」

 「ええ。一応治療はしておきましたが、どこか痛いところはありますか?」


 エステルは微かに笑みを浮かべると、静かに首を振って彼の手をそっと離した。どこも痛くはないし、体も辛くはない。だが何か心にぽっかりと穴が空いてしまったような、不思議で空虚な気持ちが胸の中に広がっていた。そして頭はまだどこかぼんやりとしている。


 「エステル、お願いがあるんだ。」

 「え?」


 突如雰囲気を変えて話すアランタリアに少し戸惑い、エステルは眉を顰めた。するとアランタリアは優しく微笑み、ついエステルが作ってしまった額の皺を指でそっと伸ばし始めた。


 「わっ、先生、何…」

 「エステル、どうか『アラン』と。」

 「でも…」

 「あなたをあの場から連れ出した私に、どうかご褒美を。」


 そう話しながらエステルの額に触れていた彼の指が、少しずつ下へ、下へと移動していく。


 「んっ、くすぐったいです…アラン…」


 気恥ずかしさから逃れようと無意識に出てしまった甘えるようなその言葉は、アランタリアの理性を一瞬にして崩壊させた。


 「それは…そんな誘い方は駄目だよ、エステル…」 


 彼の長い指が次はエステルの耳に触れ、細く冷えた顎をなぞり唇のすぐ下まで辿り着いた時、エステルの唇はアランのそれと静かに重なり合っていた。


 「!?」


 寝ぼけていたとはいえ、エステルにも今の状況がとんでもないものだということははっきりと理解できた。


 慌てて両手で彼の肩を押し返すと、目を開けていられないほどの美貌がエステルの思考を再び奪おうとしていた。


 「これであなたを諦めなくてもいい理由ができましたね。」

 「ちがっ、違うんです!今のは、あの、寝ぼけていてんっ!?」


 再び塞がれた唇は、何度も何度もアランタリアの唇に柔らかく弄ばれてしまい、エステルはもう呼吸すらできなくなっていた。


 「はあ、はあっ…や、やめてください!!」

 「おや?今のはあなたが煽ったんですよ?」

 「していませんそんなこと!!」

 「うーん、今のが煽ってないとなると、もし煽られたら私はあなたをどうしてしまうんでしょうね?」

 「えっ!?し、知りません!!もう!出ていってください!!」


 アランタリアは嬉しそうにクスクスと笑うと、わかりましたと言って部屋を出ていった。


 (ラトさんに続いて先生とまで…何やっているのかしら私は?ああっ、もう最低なのは私じゃない!!)


 エステルは横に置かれていたもう一つの枕を掴みそれを上に大きく振り上げてベッドに叩きつけると、その上に顔をボフッと埋め込んで現実逃避を始めた。



 ― ― ―



 「おや、何のご用ですか?」


 ラトが荷物を持ってエステルの部屋を訪れたちょうどその時、ドアを開けて出てきたのはアランタリアだった。


 「先生こそ、どうしてここに?」


 アランタリアの雰囲気がどこかいつもと違っている。余裕?いや、何か嬉しいことでもあったような…


 「彼女に頼まれましたからね、抱いて逃げて欲しいと。なのでそれからずっと彼女の側にいて、治療をして、看病をしていただけですよ。」

 「そう、か。」


 ラトは手に持った荷物をそっと握りしめる。


 「ああ、でも一つだけそれ以外のこともしましたね。」

 「…は?」

 「とても可愛らしい反応でした。…それでは。」

 「あ、え?先生!?」


 ラトは素早く立ち去ってしまったアランタリアを引き留めることもできず、今のはどういう意味だったのだろうと、しばらく思い悩みながらそこで佇んでいた。



 ― ― ―



 アランタリアが去った数分後、小さなノックの音が聞こえ、エステルは顔を上げてどうぞと答える。するとゆっくりと開いたドアの向こうから、気まずそうな様子のラトが姿を見せた。その手には何か大きなものを持っている。


 「エステル」


 ラトに負けず劣らず気まずい気持ちになっていたエステルは、彼の顔を見た瞬間、今しがた自分の身に起きたことを思い出し、急激な恥ずかしさに襲われてしまった。


 (寝ぼけていたとはいえ、私先生とあんなこと…)


 「ああーっ!?」

 「うわあっ!?何だ突然!?」

 「はっ、あの、ううん、何でも、ないです…」

 「そ、そうか…」


 二人の間に再び気まずい空気が流れる。だがエステルが俯いて黙ってしまうと、ラトが覚悟を決めたように重い口を開いた。


 「エステル、昨夜はすまなかった。君は俺の体のことを心配してくれていたのに、酷いことを言った上、結局心配してくれた通りになってしまった。もしあの時先生が来なかったら、今頃どうなっていたかわからない。君のことも…だから本当に…申し訳なかった。」


 エステルは深く頭を下げる彼を、もうその手で止めることはなかった。


 「わかりました。私はもう平気ですから。それで、その荷物ってもしかして?」


 ラトが手にしている物に目をやると、エステルは首を傾げた。彼は黙ったまま持っていた大きな鞄をエステルに手渡すと、頭を掻いて言った。


 「君の服とあの袋を拾ってきたんだ。洗ったりはしていない。その、色々と気になるだろうし。」

 「お気遣いありがとうございます。あ!そうだ、例の袋の中に確か…」


 エステルは急いで鞄の中に入っていた隠し袋の蓋を開けると、手を奥に突っ込んで目的のものを引っ張り出した。例の床下から発見した二つの冊子だ。


 「あの、これ、メルナに持っていってくれませんか!?」

 「これは…あの愛人宅にあったのか?」

 「うーん、正直本当に愛人宅だったかどうかはわからないですね。他の用途があったとしか思えないような場所でした。とにかくそれが何かの証拠になるかもしれないので、後はお願いします。」


 ラトは頷いてその二冊の冊子を受け取り、エステルを見た。


 「これは任せてほしい。ところで、その」


 冊子を近くのテーブルに置いたラトは、ベッドに近寄り何かを告げようとしていた。そんな言動を遮るように、エステルが口を開く。


 「ラトさん、私、最低なんです。」

 「え?」


 エステルの顔が、まるで体のどこかが痛むかのように歪む。ラトは驚き、ベッドの横に跪く。


 「あなたにこれ以上振り回されたくないからって、頼ってはいけなかったのに、甘えてはいけなかった人なのに…」


 シーツをギュッと握りしめるその右手を、ラトが両手で包み込んだ。彼の顔には不安が滲んでいる。


 「一体何が…」

 「私、さっき先生と」

 「待て、言うな。」

 「え?」


 その時何かに気付いたラトが、自身の左手をエステルの口元にそっと当てた。


 「それは罪じゃない。罪悪感も後悔も感じる必要のないことだ。エステルは俺のせいで傷付いていたし、先生はそんな君を前よりもっと大事に思っているはずだ。」

 「でも」

 「エステルが言うように俺達は『まだ』恋人同士じゃないだろ?…それにその言葉を、今は聞きたくない。」


 ラトが悔しそうに唇を噛む。エステルはじっとその姿を見つめていたが、ゆっくりと今の思いを伝え始めた。


 「ラトさん、私あなたのことを何も知らないんです。それをずっと不安に感じていたし、もっと知ることができたら何かが違ってくるのかなってずっと思っていたんです。でも、きっとそうじゃない。」

 「エステル?」

 「今のラトさんを、私が今見ているあなたを知っていればそれでいいってわかったんです。私の目に映るあなたはいつも、どんな時も、私のことを守ってくれてるって知っているから。」


 エステルの瞳に小さな雫が溜まっていく。ラトはそれを見逃さなかった。エステルの頬に手を置き、こぼれ落ちそうな涙と長いまつ毛を濡らすその光をじっと見つめた。


 (本音ではもっと知りたいことがたくさんあるんだろう。だけど俺のことを思って、きっと俺のために…)


 「だからもう過去のことは聞きません。その代わり…」


 エステルは自分の頬に置かれたラトの手の上に左手を重ねると、ラトの手のひらにそっと自分の唇を押し当てた。彼の目が大きく開き、頬に赤みが刺す。


 「もう二度と、私にキスしないで。」


 だがそれは決別を意味するような言葉として、彼の手のひらに深く鋭く刻み込まれることとなった。



 ― ― ―



 メルナは今、再び男三人に囲まれている。


 既視感?いや、今回も前回も、ひたすら面倒な現実だ。


 弟君は仲間外れ状態だったことを悔しがり、美貌の医師は明らかに自信と喜びを身体中に漲らせている。そしてラトは…


 「あなた、それ一体どういう顔なの?」

 「どう言う意味だ?」

 「嬉しいのか悲しいのか、どっちかにしなさいということよ。」


 メルナが見ているラトの表情は、先ほどから嬉しそうだったり突然悲しげなものに変わったりと随分忙しい。


 「色々あったんだ。そこの誰かさんのせいで。」

 「あなたが余計なことを言ってエステルを手放したのでしょう?知っていますよ、彼女にしつこく迫っていたことを。」

 「何ですって!一体あなた方は姉上に何をしたんだ!?」


 ギャーギャーと騒がしくなったところでメルナがついに雷を落とした。


 「静かになさい!!全く、そもそもこの状況がおかしいとは思わないの?なぜライバル同士が私のところで言い争いをするの?しかも今はその話し合いではないつもりだったのだけれど!?」

 「申し訳ない…」

 「…メルナ、続きを。」


 二人は申し訳なさそうに俯いたが、ラトだけは無言であらぬ方向を向いている。メルナは彼を一瞥し姿勢を正すと、話を再開した。


 「とにかく、エステルが命懸けで掴んできたこの証拠があれば、どうにかあの男達の悪事を明らかにできそうよ。帝国軍の犯罪捜査局に一報は入れたから、すぐに動いてくれると思うわ。」


 そこまで話すとメルナはお茶を音もなく口に含んだ。それを見ていたヒューイットが不思議そうに尋ねる。


 「以前から不思議に感じてはいましたが、メルナさん、あなたは一体何者なんです?」


 アランタリアは当然知っているので何の反応もしない。ラトはチラッと顔を見たようだがすぐに目を背けた。そしてメルナは好奇心を向けてきた弟君に、曖昧な返事を返す。


 「さあ。でも知り合いと伝手は多い方なのよ、私。」

 「はあ…」

 「それともう一つ大事な知らせがあるわ。フィリペ・ランジュが失踪したの。」

 「まあ、あれだけ派手に屋敷を潰せばな…」


 ラトが呆れた声で口を挟む。アランタリアはテーブルに両肘をつき、手を組みながら言った。


 「証拠があっても、彼を捕まえなければ意味がないのでは?」


 メルナは頷く。


 「もちろん。でも彼が潜伏していそうな場所に心当たりがあるの。捜査官達が到着するまでにまだ時間がかかりそうだし、早めにそこに行ってみたいのだけれど、お二人のご都合はいかがかしら?」


 ラトとアランタリアは一瞬目を見合わせて、同時に顔を背けた。


 「まあ、最後まで手伝うつもりだったから構わないが。」

 「行きますよ。放置しておけばまたエステルに被害が及ぶかもしれないのでね。」

 「そう?では、早速行きましょうか。」


 唖然とするヒューイットをそこに残し、三人はメルナの『心当たり』なる場所へと向かっていった。


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