37. 後悔の向こう側①
エステルが救出される少し前のこと。
能力の反動により身動きが取れなくなっていた時、ラトはジャリッという足音に気付き、悶えながらもゆっくりと後ろを振り返っていた。
「先生?どうして、ここに…」
「あなたこそここで一体何をしているのです?」
アランタリアの声は冷ややかだ。いや、そんなのは今に始まったことではないが。
「ちょっと吐き気がして…動けなかっただけだ。すぐに」
「待ちなさい。あなたが今優先すべきことは何です?」
「そうだな…頼む。」
眉間に皺を寄せたアランタリアは大きなため息をつくと、その右手をラトの額に当てた。そして大きく息を吸いこむと、静かな低い声で祈りの言葉を紡ぎ始めた。
「尊きアシュタールよ、どうか小さく弱き我らに力と赦しと祝福を与えたまえ…」
そこから十分ほどアランタリアは聞き慣れない文言を呟き続けていたが、次第に彼が手を翳している辺りに青く輝く光の粒が放射状に現れ始めた。その光は一度大きく周囲に広がった後、祈りの言葉を止めた瞬間、一瞬でラトの額の中へと収束していった。
すると強烈にラトを苦しめていたあの痛みと吐き気が一気に治まり、あれほど重く感じていた体が軽々と動くのを実感する。
「…すごいな、これほどまでとは。先生、どうして神官辞めたんだ?」
「余計なことを話している場合ですか?」
「そうだな。悪かった。」
ラトはここ数日、エステルの動きと彼女を取り巻く状況の全てをメルナとアランタリアに報告していた。
直接会ってはいなかったが、メルナの部下が連絡係となり、双方の情報伝達はかなり潤滑に進められていたはずだ。だからこそ表立って動いていない二人も、安心してラト達のことを見守っていられたのだろう。
だがどうも今回の件は、アランタリアを相当不安にさせてしまったらしい。手厳しい言葉も致し方ないと、ラトは素直に彼の叱責を受けとめていた。
「とにかく、急いでエステルを見つけよう。」
きっとエステルは自分を待っている。
強く、時に無茶をしてしまう彼女。いつでも誰にでも優しい彼女は、誰かに甘えることがとても苦手だ。それでも時々見せる不安な表情を和らげられるのは自分しかいないと、ラトは確信している。
(そうだ。そして俺はその不安も優しさも独り占めしたいと我儘を言ってばかりいる。俺はまだ何も彼女に与えられていないのに…)
ラトは驚くほど軽くなった体に感謝しつつ、エステルがいるはずの部屋へと急いで向かっていった。
だが辿り着いたその部屋に、エステルの姿は無かった。フィリペ・ランジュの愛人宅、彼女は間違いなくここに来たはずだ。しかし部屋のどこを探しても、その周囲にさえも彼女の痕跡すら見当たらない。
「ラト殿、これは一体どういう状況ですか?彼女はどこに行ったのです!?」
アランタリアの怒りはもっともだ。なぜならこの状況を作り出してしまった自分を、自分自身が一番許せないのだから。
「どうもこうも、フィリペか彼の仲間に見つかって攫われたとしか考えられない。」
「…ふざけるな!!」
ああエステル、俺は先生にも胸ぐらを掴まれてしまう運命だったらしい。
ラトは掴まれた右手を強く振り払ってから言った。
「ふざけてはいない。絶対に、彼女を助ける。」
「どうやって?どこにいるのかもわからない彼女をどうやって助けるつもりだ!?」
一瞬考え込んだラトは、真っ直ぐにアランタリアの目を見てそれに答えた。
「頼む、もう一度だけ助けてくれ。もうこれしか彼女を見つける術がないんだ。」
「彼女を助けるためならいくらでも祈ってやる!その代わり絶対に彼女を…エステルを見つけ出してくれ!!」
ラトは黙って大きく頷くと、額に指を二本置き、全力でそこに意識を集中し始めた。
『透視』
それはこれまでに一度も試したことのない、超広範囲の『透視』だった。近い場所から放射状にどんどん捜索する範囲を広げていき、エステルの気配を、あの、女神のような美しさを追い求める。
「いた!!見えた……ぐっ!?」
「はぁ、全く。尊きアシュタールよ…」
そうして再び祈りによる回復を終えた後、ラトはエステルの姿が見えた方向や場所を指で示し、アランタリアと共にその場所へと急いだ。
― ― ―
アランタリアがあらかじめ連絡を取っていてくれたことで、ラト達はメルナと早々に合流することができた。大まかに発見することができたエステルの居場所を最終的に一軒に絞り込めたのは、メルナの情報のお陰だった。
そうして三人が向かった先は、フィリペ・ランジュが所有する家の一つだった。
フィリペはこの日確かにメルナの手筈でローレンツ伯爵の家に招待されていたのだが、急遽体調が優れないと言って帰宅してしまったのだそうだ。だがそれを不審に思ったメルナは彼女の部下にフィリペの後を尾けさせていた。
その後部下の男もフィリペを一旦は見失っていたようだが、急遽届いたアランタリアからの情報と関連させた結果、メルナがここに違いないとエステルの居場所を特定してくれていた。
ラト達はその屋敷に到着するや否やすぐにエステル救出のために敵地に乗り込み、メルナとその部下数名、そしてラトを中心に攻撃を仕掛けて現地を制圧。
その間に奮起したアランタリアの活躍もあって、思った以上に素早くエステルを救出することができた。
しかし救い出されたエステルはラトの目を一度見たきり、アランタリアの首筋に腕を巻きつけたまま決して顔を上げようとしてはくれなかった。
結果ラトは、最も奪われたくない男に大切な人を奪われていってしまった。
「ラト殿。エステルは貰っていく。」
それは彼が初めてアランタリアに感じた、敗北の瞬間だった。
屋敷の裏庭で呆然と立ち尽くしていたラトは、メルナの強烈な肩への一撃によって我に返る。
「…痛い」
「まあ。随分と現実味のない言い方ね。」
メルナは肩を叩いた自分の手を痛そうに摩ると、ラトに人差し指を突きつけて言った。
「今のこの状況は間違いなくあなたが招いたものよ。エステルを今追いかける気がないなら、せめて彼女が探しだしたかもしれない証拠か痕跡を発見しなさい!それが今あなたにできる全てでしょう?」
ラトはその人差し指を軽く手で避けると、わかったと言って動きだした。
屋敷内外の用心棒らしき男達は全員倒して意識を失わせている。意識を取り戻した者達も、メルナとその部下達がすでに捕縛してくれているようだった。
この屋敷で働く使用人らしき男女数名はこの状況にただ怯えているばかりで、今回の件を含め自分達の主人がどんな悪事に手を染めていたのかなど、全く把握してはいなかった。
静まり返った屋敷内、何かが崩れたり倒れたりする音は僅かに聞こえてくるが、人の気配はもうない。主人であるフィリペも、どうやらこの騒動が起きる前に外出してしまっていたようだ。
ラトは各部屋を周り、証拠となるものがないか一つ一つじっくりと探っていく。だが特にこれと言ったものは見つからず、徐々に苛立ちが募る。
そして最後に三階の屋根裏部屋に辿り着いた時、その部屋こそエステルが監禁されていた場所だとはっきり理解した。
部屋のほぼ真ん中に置かれたベッドは乱れ、何本もの太い縄が散乱し、床にはエステルの衣服や荷物と思われるものがまとめて置かれていた。
しかもよく見てみると、縄とベッドカバーには僅かながら血痕が残っている。
(縛られた縄をどうにかして解こうと、必死でもがいたんだな…)
その痛みと恐怖を思い、ラトは心を痛める。
ベッドから目を逸らし、エステルの私物を全て丁寧に拾い上げると、ラトはそれを抱きしめたまま顔を歪めて俯いた。
「エステル、本当にすまなかった…」
自分が彼女を守るなどとよく言えたものだ。守るどころか再び危険に晒した上、実際に彼女を傷付けてしまった。エステルは自分よりもよほど、あの『透視』による危険性を理解していたというのに。彼女に守られていたのは自分の方だったというのに…
どこまでも気持ちが落ちていく感覚を覚えながら、ラトはその部屋を静かに後にした。