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35. 拒絶

 《聖道暦1112年4月4日》


 エステルはラトの策略にまんまと嵌ったことを悔やみながら、朝方静かに寮に戻った。


 睡眠不足ではあるが今日も仕事だ。眠い目を擦り冷たい水で顔を洗うと、髪をきつめに纏め上げてから仕事場へと向かう。


 この日事務所には時々フィリペや数人の従業員が出入りしていたが、基本的にはほとんどの時間を一人で過ごした。一人になると襲ってくる眠気に必死に抗いつつ、エステルは指示された業務を淡々と進めていく。



 そうして、与えられた業務をどうにか終えたその日の夕方。


 エステルは約束通りラトと合流し、今夜の作戦を練る。ありがたいことにラトはメルナにも協力をお願いしてきてくれたようで、今夜遅くまでフィリペ・ランジュ夫妻をローレンツ伯爵宅に招待し、そこに引き留めてくれることになったらしい。


 「エステル、今後は先走って行動しないでくれ。俺でもメルナでもいいからきちんと相談してから行動すること。俺達にはもっと甘えていいんだから。わかったか?」


 ラトのそんな優しさのあるお叱りの言葉を真摯に受けとめたエステルだったが、ついでのように頬にキスしようとする彼の顔だけはしっかりと押し返しておいた。


 相変わらずのやり取りを一通り終えると、食事を済ませてからようやく二人はフィリペ・ランジュの自宅に向かう。



 フィリペの屋敷は想像以上に大きく、だいぶ古い石造りの建物だった。そのため窓の造りは比較的簡素なもので、少し手を加えれば簡単に開きそうに見えた。


 当然屋敷内には多くの使用人達が働いているようだったが、エステルのペンダントが効力を発している間は、接触さえしなければ問題は無さそうだった。しかも主人とその妻がいないこの日ならば、屋敷内の動きも普段よりは少ないのではないかと予想していた。



 屋敷の周りをぐるりと囲う塀の側で、まずはペンダントに意識を集中して姿を消しておく。ラトが「気をつけろよ」というように手を振ってその場を離れていくのを見届けると、エステルはそっと裏門から忍び込み、鍵を慎重に開けて屋敷の内部に侵入していった。


 メルナの情報によると主人であるフィリペの書斎は一階にあり、鍵は特に掛かっていないらしい。しかもドアが非常に特徴的で、彼の妻が好きだという花の彫刻が彫り込まれているらしい。


 (見つけやすそうで良かったわ!)


 ただその部屋は使用人達が多く行き交う廊下に面していたため、エステルは慎重に辺りを窺いながら書斎のドアを見つけると、音を立てないようにゆっくりとドアを開け、中に入った。


 ペンダントを一旦外すと、今度は胸元に付けておいたブローチに意識を向ける。ここ数日練習を重ね、光の強度を調整できるようになっていたエステルは、ごく弱い光を出すように意識を集中しつつ書斎の中を探っていった。


 その部屋の内部には、大きく重厚な机と椅子、そしていくつかの高価そうな置物がいくつか置かれていた。特に落としたら割れてしまいそうなものには手や体が触れないように注意しつつ、書類、怪しい箱の中身などを一つずつ丁寧に確認していく。


 しかしあれこれ探ってみても、特にこれといったものは見つからない。ガラス製の扉がついた本棚の中も、隙間なく普通の本が入っているだけで、いくつか抜いて中身を検めてもみたが、何かが挟まっていたりおかしな動きをしたりするものは無かった。


 その後も引き出しの中や絵画の裏、置物の底の部分まであらゆる場所を確かめていったが、エステルが求めているような情報は何一つ発見することはできなかった。


 書斎を出たエステルはその他にも入れそうな部屋をいくつか覗いてみたものの何の収穫も得られず、肩を落として静かにフィリペの屋敷を後にした。



 ラトと合流し少し休憩を取った後、今度は愛人宅と噂される場所へと向かう。その場所の情報はメルナも特に持っていなかったらしく、二人はまず建物の周囲の安全を確認することから始めていった。


 三階建ての似たような建物が並ぶその通りは、市場からは離れた場所にあるため夜間は人通りが少なく、街灯もあまり無い静かな環境だ。この辺りの部屋は市場などで働く人達の住居となっているようだが、フィリペの愛人が住んでいるという部屋はその中でも高級な建物の、最上階ワンフロアを占有するペントハウスとなっているらしい。


 「ここか。玄関からして豪華な建物だな。」


 ラトがそう言うのも納得だ。入り口は高さのある装飾が豪華な両開きドアとなっており、そこを入ると大きな花瓶に生けられた美しい花々が来訪者を迎えている。入ってすぐの廊下は模様の入った白い床が続き、その奥に滑らかに磨かれた木の手すりが付いた階段が見えた。


 「一旦外に出よう。」


 彼の言葉に同意し、建物から少し離れた細い道に入る。するとラトから、『透視』で安全を確認してから中に入ろうとエステルに提案があった。


 「待ってラトさん!」


 だがそこでエステルはふと、女性達を救出した日のことを思い出した。彼が前回あの能力を使った時、明らかにそれまでとは違う異常が彼の目に現れていた。そのことがずっと心のどこかに引っかかっていたのだ。


 エステルが急いでラトの手を止めると、その手は額の真上でピタッと止まった。彼にしては珍しい驚いたような表情が、エステルの目に新鮮に、そして愛おしく映る。


 (ああ、私、重症だわ…)


 そんな思いを胸にそっと隠して、エステルは続けた。


 「その力って、そんなに何度も使って大丈夫なんですか?」

 「え?あー、まあ、おそらく。」


 ラトは策略を巡らせるのはうまいが、嘘は下手だ。ここはもう少し追求しておくべきだろう。


 「平気じゃないですよね?私は経験がないからわからないけれど、特殊能力は使えば使うほど、高等であればあるほど、反動が大きいはずですよね?」

 「…」


 無表情で黙り込む彼に、エステルは畳み掛ける。


 「だからみんな神殿で祈りを捧げ、神官様に呪いを軽減してもらう。痛みや苦しみ、発熱などの体調不良、そうした反動を減らしてもらうんですよね?じゃあラトさんはどうしているんですか?あれだけの力を使って、タダで済むとは」

 「君とそのことについて話し合うつもりはない。」

 「!」


 それは、ラトからの明確な拒絶の言葉だった。


 エステルはしばらく黙った後、苦しげな表情で言った。


 「あなたは私を離さないというけれど、あなた自身のことは何一つ私に教えてはくれないんですね。」

 「…!」


 ラトの顔が青ざめていくのがわかる。だがエステルはもう我慢ならなかった。


 「そんな人に私があげられる心なんて一つもありません。だから私、あなたに何度キスされても、好きだと言われても、今は絶対にあなたを好きになりませんから!」

 「エステル!?」


 それだけ言うと、エステルはラトを突き放すようにその胸を押しのけ、呆然とする彼を置いて勢いよくそこから駆けだした。


 (あんな人、あんな酷い人、私はどうして好きになってしまったのかしら?先生みたいに優しい人を好きになれたらよかったのに…)


 エステルは込み上げる涙を必死で堪えながら、目的地の建物の前で一人静かに準備を始めた。



 ― ― ―



 「あなたは私を離さないというけれど、あなた自身のことは何一つ私に教えてはくれないんですね。」


 「そんな人に私があげられる心なんて一つもありません。だから私、あなたに何度キスされても、好きだと言われても、今は絶対にあなたを好きになりませんから!」


 エステルの言葉が、ラトの心に何度も何度も鋭い刃物のように突き刺さる。彼女が去る間際に自分を押しのけたあの手は、ラトを拒絶したい気持ちと、それでも惹かれてしまい戸惑う気持ちの両方をラトの胸に残していった。


 (俺はいつまでこんなことをしてるんだ?誰よりも長く生きていてもこのザマか?)


 胸に残されたこの痛みは、きっと彼女に自分が与え続けてきた痛みそのものなのだろう。


 ラトは再び額に当てようとした手を止めると、エステルを追って暗い夜道を走り始めた。



 ― ― ―



 フィリペの愛人と言われている女性は噂によるととても旅行好きで、よくフィリペの金で国内外に出かけているらしく、ベッラに言わせれば「彼女がいない時は旦那様のご機嫌が悪いのよ」とのことだった。


 そしてどうも昨日から不機嫌さを隠さないフィリペが従業員の小さな失敗に対してきつい叱責を繰り返していたため、もしや今愛人は旅行中なのではないかと予想を立て、今日はこの場所も探ってみようと決めていた。



 ペンダントの力を発動した状態で三階まで階段を上がっていくと、廊下に面したその部屋の窓からは、光は一切見えなかった。まだ就寝するには早い時間帯。おそらく予想通りこの家の住人は不在なのだろう。


 いつものように例の黒い棒でドアの鍵を開けて中を覗き込むと、やはり内部に人の気配はなかった。だが何かがおかしい。


 エステルがブローチの光で部屋の様子をざっと見てみると、そこには驚くほど簡素で、生活感の無い空間が広がっていた。


 (これが本当に愛人の家?ベッラさんの言っていた女性の印象と全く違うわ!)


 ベッラが言うには、フィリペの愛人はいつも派手な服装と宝石をジャラジャラとひけらかして店にやってくる、とびきりの美人らしい。


 だがこの部屋にある絨毯も家具も寝具も、キッチンにある食器でさえも、贅沢や旅行を好む女性の家とは思えないほど、色も柄も無い質素なものばかり。しかもよく見ると埃を被った場所が多く見られ、そもそもここには誰も住んでいないのではないか、と思わされるほどだった。



 とにかく目的のものを探さなければ!と気持ちを切り替えたエステルは、次々と引き出しや棚、気になる隙間などを隅々まで探っていった。そして寝室に入ってようやく、一箇所だけ怪しい場所を発見した。


 それはベッドの下にある床板で、軽く押しただけでカタンと音がして外れるという異常を見せた。エステルが弱い光を当てながらその板の下を確認すると、帳簿らしきもの、そして人名がずらっと書かれた冊子が一冊ずつそこに入っていた。


 (これだわ!!)


 細かい内容を確認している時間はない。エステルは急いでそれらをいつもの隠し袋の中に突っ込むと、丁寧に板を戻してペンダントの力を発動し直し、部屋を出ようと玄関ドアに手を掛けた。


 しかしその時、予想外の出来事が起こった。


 「うわっ!なんだ!?」

 「ひっ!?」


 ドアを開けたところで目の前に現れた男性に勢いよくぶつかってしまったエステルは、思わず小さな叫び声を上げた。


 ペンダントの効果は接触までは防げない。そして気が動転してしまったエステルに、もうその効果を継続できる集中力は残っていなかった。


 「これはこれは、とんでもないお客様がいらしていたようですねえ。」


 エステルは玄関口で尻餅をつき、上を見上げて真っ青になった。そこにいたのは今最も会いたくない人物、フィリペ・ランジュ、まさにその人だった。


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