31. 賑やかな町の光と闇
エステルとラトは無事馬車の仮予約を終えると、まっすぐに宿へと戻ることにした。しかしその途中、市場の最も賑やかな中心部で唐突に大きな歓声が上がり、二人は思わず立ち止まった。
何か騒ぎでも起きたのかと警戒しながら周囲を確認していると、どうやらそれは、この街の人々にとって『嬉しい知らせ』があったことによる歓喜の声だったようだ。観光客や買い物客ではなく、市場で働いていると思われる人々のほとんどがその手に何かの紙を持ち、喜び祝い合っている。
「何かのお祝い事か?」
「さあ、何でしょうね?あ、紙が落ちているわ!」
エステルが足元に落ちていた紙を拾い上げると、ラトも興味深そうに上からそれを覗き込んだ。
「ほう、市場の商人達の新たな権利獲得!だそうだ。」
「これまでこの町の貴族達だけで決められていた事項、市場の配置や催し、税金の使い道についてなど、今後は商人達の中から選ばれた代表者十名も会議への参加が認められたって!」
そしてその文章の横には、四、五十代に見える男性の似顔絵が比較的大きく描かれていた。この男性は「フィリペ・ランジュ」と言う名前の大変清廉潔白な人物で、彼が中心となって市場全体を活性化し、商人達の地位向上を目指す取り組みを続けてきた、と紹介されている。
エステルがその文章をぶつぶつと声に出して読み上げていると、近くに立っていた男性が「ふん!」と大きく鼻を鳴らし、エステルが持っているものと同じ紙をぐちゃぐちゃに丸めてその辺に放り投げた。
「何が商人達の地位向上だ、清廉潔白な人物だ!?あんな汚いやり方でコソコソ何かを企んで、ただ金を積んでそう見せかけているだけだろう?クソッ!」
その男性の声は、称賛の声で満ちているこの場ではとても異質であり、エステル達は思わず最後まで彼の愚痴を聞いてしまった。するともう一人、近くで彼の話を聞いていた少しふくよかな中年男性は、明らかに渋い顔で彼を諌め始めた。
「おい、レオン!滅多なこと言うもんじゃない!今やフィリペさんはこの町の名士だ。お前が昔親友だったからと言って大っぴらに批判なんかしてみろ、それこそ市場から追い出されるぞ?」
「それがどうした?できるならやればいい。こっちはここで何十年も正直で真っ当な商売をしてきたんだ。…あいつと違ってな。」
眉間に皺を寄せてそう言い放つレオンと呼ばれた男性は、ふとエステル達の視線に気付いて気まずそうに頭を下げた。
(何やらこの町も色々ありそうだけれど、変なことに巻き込まれる前に早くここを離れなくちゃね!)
エステルもまた軽く会釈をすると、ラトの袖を引っ張ってその場を後にした。
だが騒動に巻き込もうとする運命は、ここでもエステルをそう簡単には逃してくれなかった。
その日の夜、エステルとメルナは互いの情報交換を終えると、天候が崩れる明日ではなく、明後日出発しようということで話がまとまった。
どうやらメルナが調べたルートでは、この町を出てすぐの場所に増水しやすい川があるから、とのことだった。さほど大きな川ではないが、雨が降ると川幅がかなり広がり危険かもしれないとのこと。
ちなみにその川の先には大きな岩が点在する広い高原が広がっており、そこでは以前から大型の魔獣が出没しやすいのだという。どうもゴレの町で三人が危惧していたのはそのことだったらしい。
(魔獣、私が対処できる大きさを超えているとしたら、確かに危険なルートになるわよね…)
エステルの方は馬車を借りられたことを報告し、明日はゆっくりと市場を見に行かないかと誘ってみたが、どうもメルナはこの町の知り合いとやらにお茶の誘いを受けているようで、残念ながら一人で過ごすことになりそうだった。
《聖道暦1112年3月31日》
メルナの情報通り、この日は朝からすでに大雨が降っていた。前日とは打って変わって空は暗く、肌寒さすら感じる。
エステルは少し厚めの上着を羽織ると、窓から市場の様子を確認していた。あの布製の屋根はどうやら水をしっかり弾く性質も持っているらしく、今日も多くの店が通常通り営業している。だがやはり客足は少なく、市場のある通りには昨日より穏やかな時間が流れているように見えた。
この日はヒューイットと共に朝食を終え、一旦部屋に戻ってからバッグを片手に窓の外を再度確かめた。雨は少し弱まっている。
昨日市場で見かけた石が気になっていたエステルはもう一度その店に行ってみようと思い立ち、宿の入り口まで来てはみたものの、傘が無いことに気付いて出かけるのを躊躇っていた。
「エステル?」
優しい声に気付いて振り返ると、ほんの少しだけ首を傾げたアランタリアがそこに立っていた。
彼はこの町の知り合いの店をあちこち回っていたようで、昨日は全く話す機会がないまま一日を終えていた。最近は彼とずっと一緒に居たせいか、なぜか久々に会ったような気分になって、エステルは思わず満面の笑顔を彼に向けていた。
「先生!昨日は良いお買い物はできましたか?」
エステルがそう問いかけると、彼は嬉しそうに微笑んで頷いた。少し前は翳りを見せていた彼の美貌も、今はもうしっかりと復活している。
「ええ。ただお目当ての精霊道具はなくて、つい別のものを買ってしまいました。」
「そうだったんですね。でも良いお買い物ができて何よりです。」
「はい。それで、その…エステルに差し上げたい物があって…」
口籠るアランタリアの顔から笑顔が消え、少し緊張した面持ちになる。エステルが目をパチパチとしながら話の続きを待っていると、彼は持っていたバッグの中から小さな白い箱を一つ取り出し、それをエステルに手渡した。
「あの、これは?」
「開けてみてください。」
言われた通りに箱を開けると、そこには青い花を模った宝石が散りばめられたブローチが入っていた。青といっても少し灰色がかった絶妙な色合いの石で、ついその美しさに見入ってしまう。
だがそこでハッとして顔を上げると、エステルはそれをアランタリアの手に戻してから言った。
「こんな高価なものいただけません!いただく理由もないし、あの、本当にありがたいんですけど、でも」
「待って待って、落ち着いてエステル!」
アランタリアは箱を一旦受け取ると、笑顔を見せて言った。
「そんなに高価な物ではないよ。それにこれは私からの友情の証です。」
「友情の証?」
アランタリアはゆっくりと頷いた。
「ええ。あなたが私と友人になってくれたことが嬉しくて、つい。」
「先生…そういうことなら、ありがたく頂戴します。」
「うん、そうして欲しい。よかった!ああ、それと今からどこかへ出かけるのですか?私も同行しても?」
再び箱を受け取ったエステルは一瞬悩んだが、買い物くらいなら問題ないだろうと判断し、「はい、もちろん」と言って頷いた。
傘は宿の支配人が二本貸してくれたので、それを持って二人は市場へと向かう。
アランタリアには「行きたいお店があるのですがいいですか?」と言って了承を得ると、傘の分だけ少し距離をとりながら、二人はゆっくりとその店へと歩いていった。
市場の最も東側にあるその店は、様々な石や貴石を扱っているところだった。宝石もあれば価値の低い石もあるが、どれも基本的には原石の状態で販売しているようだ。
「おや、お嬢さん、もしかして昨日の?」
初めは傘で見えなかったので気が付かなかったのだが、よく見るとその声の主は、昨日フィリペという人に憤っていたあの男性だった。
「ああ!ええと、レオンさんでしたね。って、勝手にお名前まで聞いていて申し訳ありません!」
これではまるで聞き耳を立てていたようだと気付き、焦るエステル。だがレオンは朗らかにそれを笑い飛ばした。
「ハッハッハ!いいんですよお嬢さん!むしろあの時は怖がらせちゃったんじゃないかと心配していたんだ。こっちこそ悪かったね。さ、ゆっくり見ていってくれ。高価な商品やアクセサリーになっているものははここじゃなく店舗の方にあるんだが、いいかい?」
エステルは大きく頷くと、丁寧に並べられている商品を見つめた。アランタリアはその様子を後方からじっと見守っている。
黒いビロードの布が貼られた小さい箱が何十、いや何百と並べられ、その中に一つ一つ、様々な色合いや形をした石が入っていた。実はエステルがこの店を見つけた時に気になっていた石があったのだが…
「ほう、お嬢さんお目が高いね!それは東の大陸でしか産出されない『ベリ』という石の原石だ。この大陸ではあまり知られていないせいで、原石だとその良さや価値を感じてはもらえないことが多い石なんだ。」
レオンは箱をエステルの手に持たせ、手に持ってみてもいいと勧めてくれた。
箱からそっと取り出したその石は透明感こそないものの、あの日異国の青年が探していた例の黄色い宝石に違いなかった。
「その石には『運命を繋ぐ』っていう意味がある。だが、お嬢さんに合うのはその石じゃないかもなあ。」
「え?合う合わないがあるのですか?」
レオンはエステルから箱を受け取ると、にっこりと笑った。その目尻には優しい笑い皺が浮かぶ。
「あるよ。この仕事を何十年もやっていると自然とそういうのがわかってくるんだ。さて、そうだなあ、お嬢さんには…これと、これかな?」
ふと気付くと雨が上がっている。雲の合間から柔らかな光が辺りに差し込む中、アランタリアは自分の傘を畳むと、エステルの分もそっと手から外して受け取ってくれた。目で感謝を伝えると、美しすぎる笑顔が返ってくる。
(相変わらず破壊力の高い笑顔ね…)
そして今度はレオンが用意してくれた石に目を向けると、彼の手に載せられた二つの石を中心にふわっと日の光が当たり始めた。
「ほら、この石を選んだら光まで味方したぞ。」
不思議な偶然、そう思うにはあまりにも神々しく奇跡的な現象に感じたエステルは、無言でその石を一つずつ光に当てて観察し始めた。
一つは大半が黒く、僅かに透明感を残したゴツゴツとした石で、その一部に青緑色の光が若干透けて見えるようなものだった。
もう一つはほぼ透明だが磨かれていないため、全体的に白っぽさの残る独特な形の石だった。細長く伸びていて先端は規則性があるように思える。そしてこちらも光に透かしてみると、内部に虹色に光る部分を発見した。
「どうだい?」
「これ、二つともいただけますか?」
「もちろんだ。やはりこの石はお嬢さんの石だったね。」
なぜかその言葉が温かくて、微笑みながら一旦石を彼に返すと、レオンは丁寧にそれを箱に戻して包装し、エステルに手渡した。
「黒い方の石は『トール』、深い愛を意味する石だ。白い方は『イーファ』、祈りの光を意味する。いつか必要な時が来たら宝石にしてみるといい。もちろんうちの店でも加工はできる。…さあ、どうぞ。」
「ありがとうございます。」
エステルは今起きた全てのことに何か不思議な縁を感じながら、レオンに別れを告げてその店を離れた。
そこからはアランタリアと共にただゆっくりと店を見て回っていたのだが、エステルがふと視線を向けた場所で、恐ろしい光景を目撃してしまう。
「え、えっ?見間違いかしら?今女性があの建物に引き摺られていったような気がしたのだけれど…」
「え?」
アランタリアもその言葉に驚き、エステルが見たという場所を覗き込んだ。そこは市場に面した大きな石造りの建物が並んでいる場所だったが、建物と建物の間に人が一人か二人通れるかどうかという隙間があり、それがずっと奥まで続いているような場所だった。
雨が上がり人も増えてきている。見間違いか、もしくは単に女性が建物に入っていっただけ、かもしれないが…
「気になるなら行ってみますか?」
「でも、先生を巻き込むわけには」
「エステル、私はあなたとであればどんなことに巻き込まれても構いませんよ。いえ、むしろ巻き込まれたい。」
それはもはや口説き文句を超えているのでは、とエステルは思ったが、何か面倒なことになりそうな気がして口にはしなかった。
「ええと、じゃあその、お願いします。」
「はい。」
そうして二人は先ほど女性が消えていったその暗がりの中へと、静かに突入していった。