30. 知りたかった答え
アランタリアからの謝罪を受け入れたエステルは、自分の部屋のドアを静かに閉めると、ふう、と一つため息をつく。
「でも、まだ大事な仲直りが一つ残っているわ。」
エステルはその人のことを思い、ドアに寄りかかる。ふと窓の外を見ると、そこからはあの市場が見えた。たくさんの灯りが屋根の色を下から映し出し、色彩が溢れかえるような美しい街並みが広がっている。
「せっかくだから、夜の市場もちょっと見に行ってみようかな。」
エステルは少し暗くなりかけた気持ちを上手に切り替えると、上着を手に持ってドアを内側に開けた。
「あ」
「あ!」
するとそこには、ノックをしようと振り上げた手を頭の後ろに回して目を泳がすラトの姿があった。
「ぷっ、バレバレですよ?今ノックしようかどうしようか迷ってましたよね?」
「あー、まあ、うん。」
エステルはニヤリと笑うと、下から彼の顔を覗き込んだ。
「謝りに来てくれたんですか?」
「…」
「ちょっと、ラトさん?」
「違う。」
「じゃあなに…」
その時、エステルは自分の身に起きたことがすぐには理解できなかった。あまりにも一瞬で、それはもしかしたら幻覚かもしれない、思い違いかもしれないと思ってしまうほどだった。
「今」
「うん」
「もし、かして」
「ああ」
「…」
「…」
そっぽを向いたラトの頬が、ほんの少しだけ赤く染まっている。
それを見てハッと我に返ったエステルは、彼の袖口を掴むと自分の部屋にラトを引っ張り込んだ。
バタン!と音を立ててドアが閉まると、エステルは出来るだけ声を抑えてラトに詰め寄る。
「い、い、いま、今、キ、キキス!?」
「…」
それは本当に風のような、触れるだけのキス。だがエステルにとってそれは初めての、大切なキスだった。
真っ赤になりながらラトの襟元を両手で掴むと、エステルは彼を勢いよく前後に揺らしながら捲し立てた。
「なんでこんなことばかりするんですか?私に何をさせたいの!?こんなことをしておいて黙ってるなんて酷すぎる!!どうしてラトさんはいつも大事なことは何も言ってくれないの?どうして、どうして私ばかり、どうして、こんなにあなたに振り回されて…」
そこでエステルは力尽き、彼の襟元から手を離して床に座り込んだ。先ほどまで手に持っていた上着も、苦しげに丸まって床に落ちている。
ラトはしばらくその様子を立ったまま見つめていたが、エステルが肩を落として俯いていると、彼自身もそこに座り、その顔を両手で包み込むように持ち上げた。
「エステル」
「…」
ラトの顔が、優しい微笑みを湛えている。
「好きだよ」
聞き間違い、かもしれない。
「この一言がずっと言えなかった。ごめん。」
ううん、きっと違う。だって、そんなわけがないもの。
「聞こえた?好きだって。」
「聞こえません」
エステルは信じなかった。今までだって何度も機会はあったはずなのだ。それなのにラトは一度だってそうは言ってくれなかった。
「じゃあ、何度でも言うから。よく聞いて?」
ラトはエステルの顔から手を離し、その手を片方だけ床につくと、エステルの右側の頬に顔を近づけた。
「ラト、さん…?」
「好きだ、エステル。」
その言葉は、囁かれた右耳から痺れるような甘さで心に満ちていく。ずっと聞きたかった言葉が、無意識に欲し続けていた想いが、ようやくエステルに伝わった。
「聞こえた?」
「聞こえた」
「そっか」
エステルは顔を上げた。伝えなければならないことがあったから。
「あのね、ラトさん?」
「うん」
今度はエステルがラトの頬に両手を添えて、言った。
「私、あなたのことが好き、なんて『まだ』絶対に言わないから。」
二人の間の時が、止まった。
数十秒後、ラトはハッとしたように動きだし、そして叫んだ。
「…は、はああああっ!?え?この流れで?本気で言ってる!?」
エステルが服の裾の埃を払いながら立ち上がると、ラトも勢いよく立ってエステルの前に立ち塞がった。その顔には焦りと困惑の気持ちがありありと見て取れる。
「エステルだって俺に惹かれてただろ?でないとあんな反応…って、なあさっき、『まだ』、って言ったか?」
エステルは悪戯っぽく微笑む。
「だって私ばかりこんな思いをして、そんなのフェアじゃないもの。ラトさんももっと、私のことで悩んでください!」
「この…悪女め!」
「はいはい、じゃあこの部屋はすぐに出ていってくださいね。」
そうい言いながらエステルは、グイグイとラトの背中をドアの方へと押しやっていく。
「お、おい!?エステルが入れてくれたんだろ?」
「それは言いたいことがあったからです!さあ出…」
だがドアを開けたその瞬間彼は身を翻し、開かれたドアに手をつくと、覆い被さるようにエステルに顔を近付けた。
「んん!?」
そしてエステルの唇は今度こそ確実に、彼の柔らかな唇の感触を捉えていた。
「…」
「…」
何秒経ったのだろうか。ラトの顔が、ゆっくりとエステルから離れていく。その目はキラキラと輝き、口元には薄っすらと笑みを浮かべていた。
「言いたいことはよーくわかった。確かに一筋縄ではいかないのがエステルだよな。俄然面白くなってきたねえ。ま、引き続き積極的な愛情表現はさせてもらうからそのつもりで!」
「もう!!さいってい!!」
エステルはめいいっぱいの力でラトを部屋から押し出すと、ふん!と鼻息も荒くドアを閉めた。
(き、緊張した!!ドキドキした!!でも、でも本当は、すごく、嬉しかった…)
エステルはラトの唇の感触を思い出している自分に照れながらも、目の前のベッドに突っ伏して、しばらくの間今の出来事の余韻を楽しんだ。
その先に必ず彼との別れが待っているとしても、今だけは、と。
《聖道暦1112年3月30日》
翌日は、朝からよく晴れて気持ちの良い一日になりそうだった。
エステルがご機嫌で階下にある食堂へと降りていくと、すでに朝食を食べ終えたメルナは早速活動を開始していた。
そして彼女は当たり前のように「帝都までの最も安全かつ最短のルートを調べたいから知り合いのところに行ってくる」と言う。元気いっぱいに笑顔で去っていくその後ろ姿は、実に頼もしかった。
(メルナばかりに色々お願いしちゃって申し訳ないわ。今回は私がもっと積極的に行動しないと!)
行動力のあるメルナに触発されたエステルは、一人で素早く食事を済ませると、せめて馬車の調達くらいは自分でしよう!と、張り切って宿の外へと飛び出していった。
「いやあ、いい天気だね!」
「…はあ。」
「なになにエステルちゃん、気分でも悪い?抱っこしてあげようか?」
「いえ、結構です。」
そう、張り切って宿を飛び出したのはいいものの、あの後すぐにラトに捕まってしまったのだ。今のエステルは昨夜のあれやこれやが頭を駆け巡ってしまい、まともに彼の顔も見られないというのに。
「もう、つれないなあ。じゃあさ」
「あっ、ちょっとラトさん!?」
「これで、行くか。」
エステルの右手はあっという間にラトの手の中に握られてしまい、エステルは恥ずかしさのあまり頬を赤らめてその手を引っ張る。ラトはそれに反応して振り返ったが、エステルの顔を見るなり突然足を止めてしまった。
「あー、いや、その顔は反則でしょ。」
「えっ!?そんな変顔はしていないと思うけれど…」
「変顔…違う違う。そんな可愛い顔ってこと。あ、もしかして昨日のキス、思い出しちゃった?」
「へっ!?へ、変なこと言わないで!!」
エステルは赤くなった顔を何とか隠そうと自分の手を取り戻すために奮闘してみたが、むしろその手はきっちりと握り直されてしまう。まるで恋人同士のように、指が全て絡まっていく。
「ずっとこうしてみたかったんだ。」
「えっ!?ああっ、もう!うう…」
(そんな風に素直に喜ばれたら怒れないわ!そっちの方がよほど反則じゃない!?)
エステルはそんな心の叫びを口にすることもできず、繋がれた手を振り払うなんてことはもっとできず、ただ恥ずかしさと隠しきれない喜びに悶えながら、嬉しそうな彼に手を引かれて恋人同士のように市場のその先へと歩いていった。
市場を少し抜けた先、そこから一本北側に入った道まで歩いていくと、目的としていた店を発見した。
手を繋いだままだったので駆け寄ることはできなかったが、少し先に『貸し馬車屋』の大きな看板を見つけたエステルは、つい早足になってラトに笑顔を向けた。
「ラトさん、見て!あったわ!良かった、昨日のうちに宿の人に聞いておいて!」
エステルがはしゃぎながらそう言うと、彼は真顔になり「何だこれ全部可愛いな」と言い放つ。その言葉に絶句するエステルを今度は彼がグイグイ引っ張っていき、勢いよく『貸し馬車屋』のドアを開けた。
「いらっしゃい!おや、ラトじゃないか!久しぶりだなあ。」
どうやらここの店主はラトの顔見知りらしい。ラトもやあ、と気軽な返事をしながらカウンターに近付いていく。だがエステルはこの時、未だ自分の手がしっかりとラトに握られていることをすっかり忘れていた。
「何だ、そちらは恋人か奥さんかい?ずいぶん別嬪さんを捕まえたじゃないか!」
「ああ、そうなん」
「違います!!」
肯定しようとする声に急いで否定の言葉を被せたエステルは、勝利の微笑みと共に、悔しがる彼からようやく自分の手を取り返した。
「あー、なんていうかまあ、無理やりは駄目だぞ、無理やりはな。」
二人の微妙な関係を察した店主が頭を掻きながらそう言うと、何やら奥から椅子の座面ほどの大きさの木の板を持って戻ってきた。
エステルがカウンターに置かれたその板を覗き込むと、そこには料金体系が彫り込まれていた。
「ここから帝都までなら提携店があるんでね、日数にもよるが、そこまで行ってもらってそこで返却して大体この値段。うちまで返却してくれるならこっちの金額だ。うちが良心的な金額設定なのはこいつがよく知ってる。だからお嬢さんさえ良ければ、ぜひ借りてってくれ。ラトには世話になったから、一日分なら負けとくよ?」
「えっ、いいんですか?」
「ああ。」
エステルがじっくりとその板と向き合いながら、何日で帝都まで辿り着けるかしらと考えていると、ラトがエステルの肩越しから腕を伸ばし、木の板の料金部分に指を当てて言った。
「こっちで頼む。とりあえず三日分先払いするよ。ただ明日か明後日からで。ガンターの所に返せばいいんだな?」
「ああ、それでいい。もし延長になったらあいつに追加料金を支払っておいてくれ。」
「わかった。」
頭の上でやり取りを続ける彼の低く温かなその声は、エステルの動悸を自然と速めてしまう。
(もう、そんなところで喋らないで!無駄にいい声なんだから!)
エステルのそんな気持ちを知ってか知らずか、ラトは奥に引っ込んでしまった店主を見送ると、エステルの頭にそっとその顎を乗せ、もう片方の腕でエステルを後ろから抱きしめた。
「え、ラトさん何してるの!?」
「いやあ、君が俺のことを恋人じゃないって言うからさ。」
「だって、本当に違うもの!私はまだ」
「早く」
「え?」
「早くなってよ。」
「…」
「もう限界なんだけどな。」
「も、もう少し、待っ」
だがその言葉を言い終わらないうちに、エステルはくるっと体を反転させられ、カウンターの端に背中を押し付けた状態でラトの腕と腕の間に囚われた。
「もう少しって言った?」
「えっと」
エステルの目が泳ぎ、ラトの色気と無言の圧が押し寄せる。顔もどんどん近付いてくる。
「エステル、もう少しって、どのくらい?」
「し、知りません!」
(本当は今すぐにって言ってしまいたい。でも、私にはまだやらなければいけないことがあるの…)
だがそんなエステルの考えなど、ラトにはすでにお見通しだったのかもしれない。
「本当はもう、いいんじゃないの?」
「えっ、んっ!?」
予想もしていなかったこんな場所で、ラトは再びエステルの唇を奪っていく。そのキスは昨夜よりも少し強引で、荒々しかった。
ところが店主が戻ってくる気配がした途端、まるで何事もなかったかのようにラトは素早くその場を離れ、エステルだけがカウンターに寄りかかったまま取り残されてしまった。
「ん?お嬢さん、どうしたんだい?」
戻ってきた店主はエステルの不思議な体勢を見て、怪訝な顔でそう尋ねた。だが「ラトのキスのせいで腰が抜けてしまった」などと到底言えるはずもなかった。
「あ、ちょっと貧血っぽくて…」
とりあえずそれらしいことを言って誤魔化そうとしてみたが、これが失敗だった。
「おいおい、大丈夫かい?ラト!お前さん何突っ立ってるんだ?彼女を支えてやんな!」
するとラトはニヤリと笑ってこう言った。
「喜んで。」
「…この策士。」
悔しそうなエステルを嘲笑うかのように、ラトは腰の抜けたエステルを軽々と抱き上げ、「ちょっと外で休ませてくる」と言って外に連れ出していく。
その後、人目につかない店の横にあるベンチに座らされたエステルは、動けないのをいいことに、膝の上に乗せられた状態で散々ラトから甘い言葉を囁かれてしまった。
「エステル、可愛い。ほら、もういいだろ?」
「知らない!」
「キスももっとしたいしさ。」
「ひゃあっ!?言いながらもうしてるじゃない!」
「頬なんて挨拶だろ?もっとさっきみたいな…」
「あーあーあー聞こえない!」
「またそれか。ほら、無駄な抵抗しないの。」
「ラトさんのバカ!」
「なあ、それはもう煽ってるだろ?」
「煽ってなんかいません!!」
まるで恋人同士のような会話が続き、エステルは心が折れかけていた。だがここで屈するわけにはいかない。仕方なく今は譲歩した風に装ってみる。
「じゃあ、帝都に着くまで待って!!」
「どうして?」
ラトにはきっと、いつだって何かを見破られている。
「どうしても。」
だとしても今のエステルには、そうやって押し通すことしかできない。
「ふうん。」
私だって本当は…
「エステル」
「はい」
ラトの青緑色の瞳が少し悲しそうに光った。
「どう決断したとしても、せめて俺の傍にはいてくれ。」
「…」
エステルはその切実な願いに何一つ言葉を返すことができず、不安そうに抱きしめてくるラトを、ただ静かに受け入れることしかできなかった。