26. 嫉妬、困惑
《聖道暦1112年3月25日夜》
夜の冷たい空気に、静かだが重みを感じるような川のゴーという音が混じっている。
エステルは夕方立ち寄ったあの運河沿いの公園にて、ラトと二人きりでぼんやりと川を眺めていた。
公園内は柔らかな街灯の光が、夜間の公園内をどうにか歩ける程度に照らしている。
精霊道具の使えない今の人々にとって、光を出す器具は特殊な燃料や技術が必要らしく、とても高価なものとなっている。つまりそれがいくつも設置されているこの町は、相当財政が潤っている、ということだろう。
そんなことをつらつらと考えていたエステルが黙って暗い運河を眺めていると、それまで静かだったラトが口を開いた。
「ねえエステルちゃん、さっきはあんな場所で一体何してたんだ?メルナは?先生は?」
運河の少し手前にある柵に寄りかかりながらラトがそう尋ねる。エステルは彼の隣で柵には触れずに立ち、街灯の光と、風で揺れる髪の感触を感じていた。
「二人とあそこで待ち合わせをしていたんですけど、なかなか来ないので探していたら、変な四人組に絡まれてしまって。それで…」
「返り討ちにしてやった!と。なるほど。それでさあ、エステルちゃん?」
ラトが柵から離れ、エステルに一歩近付く。その顔はこちら側からだと逆光になっていてよく見えない。
「な、何ですか?」
何か悪い予感がしたエステルは、慌てて後退った。だがラトは予想外の行動に出る。
「逃げるなって、エステル。」
「キャッ!?ど、どこを触って…」
彼は一気に距離を詰めると、エステルの腰に片腕を回す。その体勢のせいで間近に迫ったラトの顔を直視してしまったエステルは、驚きのあまり息を止め、瞬きすら止めて彼の目を見つめ返した。
ラトは動揺するエステルを見て嬉しそうに微笑み、今度はもう片方の手で優しくその髪を撫で始めた。そんなことを親にすらされた覚えのないエステルは、初めて感じる心地良さに感情が追いついていかず赤面する。
だが、まだまだラトの追求は終わらない。
「ねえ、どうして今日はこんなに可愛くしてるのかな?本当にメルナさんも来る予定だった?実は先生と二人っきりでデートの予定だったんじゃないの?」
「な、ち、ちがっ」
「違うのか?本当に?ふうん。」
エステルが違うと主張したにも関わらず、ラトはまだ腰に回した手を離してはくれない。仕方なく限界まで体を後ろに傾けていくと、彼は髪を撫でていた手を今度はエステルの首元に回し、体全体をぐいっと自分の方に引き寄せた。
「ひゃっ!?」
エステルはそれ以上声も出せず、ただされるがままに彼の腕の中に倒れ込む。そしてラトは小さな声で、だがはっきりとこう告げた。
「俺以外の男の前で可愛くなるの禁止。わかった?」
「んーん!?」
エステルの口元はラトの肩から胸辺りに押し当てられていてうまく話せない。そしていつものように、彼は更なる追い打ちをかけた。
「あーあ、俺はこんなに会いたかったのに、まさか他の男とデートとは…」
(会い…たかった?)
その瞬間周囲の音は全て消え、彼の心臓の鼓動の音だけが、エステルの耳にはっきりと届いた。
トク、トク、トク、トク…
(鼓動が速い…じゃあ、ラトさんもドキドキしてるの?私に!?)
この時、身体中から湧き上がってくる喜びと胸の苦しさに挟まれ、エステルはもう何も考えられなくなっていた。
ラトは動きの止まった彼女を不思議に思ったのか、そっと腕をゆるめていく。
「エステル、大丈夫か?」
「…じゃない」
彼が力をゆるめたことで、少しずつ頭が回りだす。
「え?」
「大丈夫…なわけないでしょぉっ!?」
「おっと!」
いつもならここでエステルに突き飛ばされてしまうラトだが、この時は違っていた。突き出した手はいとも簡単に躱されてしまい、むしろその手を再びラトに掴まれてしまう。
そしてラトの目の色が変わった。
「はい、おふざけはもう終わり。君がこんなに着飾って可愛くして他の男と会おうとするなら、俺ももう手加減はしない。」
エステルは目を大きく開いた。
「それ、どういう…」
ラトは悪戯っぽく微笑んでエステルの手を引っ張ると、顔を近づけて左の耳たぶをそっと、噛んだ。
「んっ!?」
エステルが驚きのあまり手を振り解いて飛び退くと、ラトは「おしおき」と言って再びエステルの手を握り、歩き始めた。
(え!?何なの?何これ?今のは何?わたしは結局どうしたらいいの!?)
混乱と喜びがエステルに交互に押し寄せる。
彼が望むものは明白な気がするのに、決定的な言葉は与えてくれない。
エステルはどうしてもこの状況から、ラト本人から逃げたくて暴れてもみたが、本気を出した彼の手はもうびくともしなかった。そして宿の自分の部屋に辿り着くまで、彼はその手を一度も離してはくれなかった。
― ― ―
その頃メルナはというと、とある店の前でちょっとした面倒ごとに巻き込まれていた。
「アラン、これ、どういう状況なの?」
「…いやちょっと、色々ありまして。」
冷たい視線を送った相手はアランタリア、とある組織の仲間であり、今は旅の仲間でもある男だ。普段は無表情が基本の彼が、珍しく眉間に皺を寄せ悩んでいる様子。
今日はせっかく彼のためにエステリーナを可愛く装わせたのに、このままではとても約束の時間に間に合いそうもない。
はあ、とため息を一つこぼす。
今の状況はというと、アランタリアの目の前に男が一人倒れ、彼の背後にはもう一人、髪の長い女性が立っている。
いや、立っているというより背中に縋り付いて震えていると言った感じだろうか。そしてこの状態で、すでにメルナが来てから十分近くも経っているのだ。
(アランは黙ったままだし女性の方も震えてるだけ!だから一体何があったのよ!?)
痺れを切らしたメルナはついに大声を上げた。
「ねえ!あなた、そう、あなたよあなた!アランにくっついていないでいい加減この状況を説明してくださらない?私達これから大事な約束があるんです!!」
「メルナ、まあ、落ち着い」
「これが落ち着いていられますか!?アラン、あなた着飾ったエステリーナに会いたくないの?早くしないとどこぞの悪い男に持ってかれてしまうわよ!?」
アランタリアの声に被せるようにメルナが畳み掛けると、彼は目を見開いて「着飾ったエステル…?」と呟き動かなくなった。
もっと面倒なことになったと思っていると、メルナの剣幕に恐れをなしたのか、ようやく女性が震える声で話し始めた。
「も、申し訳、ありません。あの、そこに倒れてるのはあたしの夫、です。彼ったらいつもその、束縛が、すごくて…だから、あたしが、こちらの紳士に、色目を使ったんじゃないかって、いえ!たまたまうちの店に来たお客さんです!でその、ちょっと、店で叩かれて、あのでも!あたしが悪いんです!悪いんですが、たまたまこちらの紳士が店に戻って来られてそれで、それで」
「助けてもらった、と?」
メルナが最後の言葉だけ助け船を出すと、女性は小刻みに何度も頷いた。よく見てみると、顔に比較的新しいものと思われるあざが広がっており、手や首筋にはもっと前につけられたと思われる傷がいくつも残っていた。
その様子にメルナが言葉を失っていると、それまで頑なに事情を話そうとしなかったアランタリアがようやく口を開いた。
「この方が話したので説明しますが、どうも彼女はこちらの男性から日常的に暴力を振るわれているようです。私は争いごとには不向きなもので、仕方なく襲ってこようとするこの方の意識を奪うだけにしておきました。ですが…」
ここでアランタリアが言い渋る。
「ですが、何かしら?」
「これでは何の解決にもなっていませんからね。こちらの女性をお助けしたい気持ちはあれど、ご家族のこととなるとどうしていいか…」
彼は自分自身も家族との確執で苦しんできたからこそ、その解決の難しさを痛感している。メルナは仕方ないと腹を括り、女性と向き合った。
「あなた、どうしたいか心は決まっていらっしゃる?」
女性はポカンと口を開けはまましばらく考えていたが、次第にその顔が俯いていき、考え込んでしまった。
「わかりません。あたしは夫が、夫が決めたことを守って、でも、でもやっぱり辛くて…。優しい時もあるんです。ちゃんと言うことをきいていれば。でも、もう…」
彼女が夫の呪縛に囚われながらも逃げたいという気持ちをどこかに持っている、と感じたメルナは、一つ提案をしてみる。
「そう。では一つだけ提案をするわ。それに乗るなら助ける。乗らないなら金輪際関わりは持たないしこのまま帰るわ。どう?」
メルナの言葉に、女性は真剣な表情で少し考え、そして一度だけ頷いた。
「いいわ。では提案ね。私帝都に一つ店を持っているの。ここよりは多少大きいし、ここのような飲食店ではないけれど、そこは寮があって住み込みで働けるの。もしあなたが本気で逃げたいなら、下働きから働けるよう私が紹介状を書いてあげる。どうする?」
女性は泣いた後のような充血した目を何度も泳がせ、口元に手を寄せて考え込んでいたが、しばらくして覚悟を決めたように顔を上げて言った。
「い、行きます!」
メルナは微笑んだ。
「わかったわ。では決意が揺らぐ前に急いで荷物を詰めて移動しましょう。アランもそれでいいわね?」
「ええ。」
アランタリアはゆっくりと頷く。どうやら、いつもの無表情な彼に戻れたようだ。
その後紹介状を仕上げたメルナは、この町に同行していた自分の部下に「助けた女性を帝都に連れていくように」と指示を出して身柄を預けた。
彼女は何度もお礼を言い、部下と共に安全な場所へと移動したが、もしかしたら気が変わってまた家に戻ってしまうかもしれない。
(まあ、それも彼女の人生。限られた選択肢しかないとしても、自分のことは自分で選択するしかないものね)
メルナは一連の面倒ごとですっかり疲れ切ってしまっていたが、やるべきことはやったと自分を労い、アランタリアと共に宿へと戻った。
だがそこでもう一つ、小さな面倒ごとが待っていた。
「よう。遅かったな。」
アランタリアと別れて自分の部屋の近くまで来ると、ドアの少し手前でラトが待っていた。
「まあね、色々あったのよ。食事もできなかったし疲れているし、もう寝たいのだけれど。こんな夜更けに何か用かしら?」
メルナが気怠げにそう告げると、ラトは少し不機嫌そうな顔で言った。
「エステルを着飾らせたのは君か?」
その言葉の意味がわからず一瞬考える。そしてああ!と声を上げた。
「ふふ、昨夜エステリーナと会ったのね?どう?可愛かったでしょう?」
「可愛かった。…ってそうじゃない!エステルをどうするつもりだったんだ?まさかあの後先生と!?」
「嫌ねえ、色男の癖に嫉妬?いいじゃない、ちょっと一緒に食事をしてもらおうと思っただけよ。」
するとラトは険しい顔で言った。
「おいおい、仲直りすれば俺に協力してくれるんじゃなかったのか!?」
メルナは楽しそうに答える。
「あら、これも協力の一環よ?まあ、切磋琢磨して頑張りなさいなってことよ。健闘を祈るわ。じゃ、おやすみなさい!」
「あ、おい!…はあ。あいつを当てにした俺が馬鹿だった。…寝るか。」
身体中に疲労感を感じながら、ラトはふらふらと自分の部屋に戻っていった。
― ― ―
《聖道暦1112年3月26日》
翌日、少し汗ばむほどの気温となったこの日。
ようやく全員揃った四人は、それぞれがそれぞれの理由で疲れを見せていた。
そしてエステルはというと、朝から一度もラトと目を合わせられないでいた。昨夜の出来事を消化しきれず、彼とどう接したらいいのかさっぱりわからない。
気分を変えようとふと目を向けた先には、大きなトンネルの入り口があった。その大きく開いた口の中に飲み込まれそうな気分になっていた時、メルナが大きな帽子のつばを少し上げながらエステルの横にやってきて、笑顔を見せた。
エステル達よりも先にここに来ていた彼女と、昨日の話はまだきちんとできてはいなかった。
「エステリーナ、昨夜は本当にごめんなさい!アランが面倒ごとを拾ってきたばかりに、レストラン、行けなくなってしまったのよ。」
メルナはチラッとアランタリアの顔を見てそう言うと、両腕を大袈裟に開いて悪戯っぽい笑みを浮かべた。エステルもその動きが面白くてつい笑ってしまう。
「いや、あれは不可抗力ですよ。」
その場に居たアランタリアの反論は弱めだった。いつもの無表情が保ちきれていないようにも見える。エステルは二人のやりとりに少しホッとしつつ、「気にしないで」と言って荷物を持ち馬車のある方へと移動する。
馭者のショーは若く溌剌とした明るい青年だ。短く切った黒っぽい髪を古びた帽子の中に押し込み、どんな天候でも愚痴一つこぼさない彼に、エステルはいつも感謝していた。
馬車の横に立つ彼に荷物の積み込みをお願いして礼を言った後、エステルはふと思い出して、手に持っていた小さなバッグの中から紙袋を取り出すと、それをショーに手渡した。
「ショー、いつもありがとう。これ、よかったらもらってくれる?」
「えっ!?僕にですか!?」
エステルが笑顔で頷くと、ショーはまさか自分に、と何度も呟きながら紙袋をゆっくりと開く。そして中から新品の薄茶色の帽子が出てくると、彼のくりくりとした大きな目がさらに大きく開いた。
「うわあ!この間あの店で僕が眺めてたの、知ってたんですか?うわあ、うわあ!!はあ、こんないい帽子被ったことないや!!」
彼はその場でくるっと回ると、嬉しそうに今の帽子を脱いで新しいそれを身につけた。古い方も丁寧に折り畳んでポケットにしまう仕草を見て、エステルの好感度はさらに上がる。
「喜んでもらってよかったわ!とても似合ってる!」
エステルは幸せを倍にして返してもらったような気持ちになり、にっこりと微笑んだ。そこにラトが音もなく現れる。
「へえ、新しい帽子か。確かに似合ってるな。」
「本当ですか旦那?いやあ、お嬢さんにいいものを貰いました!ここからも頑張りますんで、どうぞお任せください!」
そうしてエステルが、背後の何やら不穏な空気を漂わせている男性に気を取られているうちに、ショーは弾むようにして馭者台の方へと行ってしまった。
そして「では私も」とその場を離れようとしたエステルの腕をあっさりと掴まえたラトは、耳元で小さく囁いた。
「エステル、今度は若い男へのプレゼントか?」
「な、何が言いたいんです?あれはたまたま彼がショーウインドウの前で欲しそうにしていたので、メルナとお金を出し合って今朝買ってきたんです。ただの感謝の気持ちですから!」
エステルは振り返ることなく必死になって事情を説明するが、まるで言い訳をしているようだと自分でも嫌になっていく。
(なぜ私はこんなに必死に説明をしているのかしら?何も悪いことはしていないのに!)
だがラトは他の二人には見えないようエステルの横に素早く回り込むと、「言い訳か…これはもう一回おしおきかな?」と言いながら今度は右の耳の方に素早く顔を近づけた。
「えっ!?」
だがそれは前回とは違う感触で、エステルは真っ赤になって勢いよく振り返った。ラトは意味深な笑みを浮かべている。
(もしかしてこの人今、私の首にキスをしたの!?)
首筋に感じた独特の感触と小さなリップ音、エステルは触れられた場所を手で押さえ、ラトを睨む。
「言っただろ?容赦しないって。さて、そろそろ出発かな。」
「ラトさん!?今の…」
「見つけた!!」
エステルがラトに文句を言おうと声を張り上げた瞬間、聞き覚えのある優しい声がその行動を止める。驚いて振り返ると、こちらに手を振って歩いてくる爽やかな若い男性の姿が目に入った。
「ヒュー!?」
「姉上!ああ、やっと見つけました!!」
それは柔らかな笑顔が眩しい、大好きな弟の姿だった。