25. 失いたくないもの
《聖道暦1112年3月25日》
トンネル利用の申請を無事に終えたエステル達は、翌日には出発できるという目処が立ったため、この日は思いっきり町を楽しもう、そんな話で盛り上がっていた。
だがただ一人、ラトだけは反応が薄い。
彼は「あー、そうだな。ただちょっと俺は体調が良くないから、今回は部屋で寝てるよ。」などと言う。
エステルは護衛の役目どうこうというよりも、純粋にその体調を心配し、出かける直前に彼の部屋へと足を運んだ。
ノックをして返事を待つが、全く応答がない。ドアに耳を当ててみたが物音一つ聞こえない。その後も何度か強めにドアを叩いてみたが、隣の部屋の宿泊者に「お静かに」と注意を受けてしまい、それ以上の呼びかけはできなかった。
どこかに行ってしまったのか、それとも本当に具合が悪く、返事もできない状態なのか。
エステルが部屋の前でウロウロしながら悩んでいると、メルナがその様子に気付いてエステルに近付き、その肩をポンと叩いた。
「わあっ!?あ、メルナ!」
「エステリーナ、彼のことは放っておきなさい。きっと事情があるのよ。」
「え、でも…もしかして体調が悪くてとか…」
それでも心配するエステルに、メルナは笑顔を見せて言った。
「大丈夫、それは無いって私が保証するわ。だって彼、さっき外に出て行ったのを私見たもの。きっと今頃お酒でも飲んでいるか、どこかで可愛い女の子と遊んでいるわよ。さ、そんな悪い男は無視無視!私達はあの美形のお医者様とデートしましょ!ほらあなたも私みたいに可愛くしていらっしゃい!」
よく見ると、確かに今日のメルナはおめかしをして、薄く上品な化粧もしている。貴族というよりどこか大きな商家の娘さん、といったいでたちだ。
だがエステルは『可愛く』するための服も化粧品も、この旅には何一つ持ってきていない。このままでいいわと誤魔化してみたが、結局メルナには全て見抜かれてしまった。
「あー、なるほど。どうやらデートより先にやるべきことがあるみたいね!」
キラキラを超えてギラギラと目を輝かせたメルナは、戸惑うエステルを外へと引っ張りだし、めくるめく美の世界へと連れだしていった。
― ― ―
「ぐっ…うっ!!」
暗く締め切った部屋。カーテンどころか鎧戸も閉め、音が外部に漏れないよう細心の注意を払った室内。それでも時々、自分の苦しみ悶える声が誰かに聞かれてはいないだろうかと、いらぬ不安に苛まれる。
(今回は早かったな…もう少しで…あの町なら…)
強烈な痛みと耐え難い息苦しさに思考は分断され、幻覚すら見えてしまう。
昨日はこの場所まで辿り着けないほど症状が悪化していたため、人がほとんど寄りつかない路地の奥の廃屋で一人痛みに耐えていた。その時はまるで、目の前にエステルがいて自分の手を優しく握ってくれているような、そんな幻覚を見てしまうほど切迫した状態だった。
「はあ、はあ、はあ、水…」
ガシャン!
喉の渇きを感じベッドの横にある水差しに手を伸ばしたが、震える指が側面を掠り、その手で捉える前に床に落としてしまった。
「ああ、くそっ!」
思わず口をついて出てきてしまった汚い言葉も、一時的にすら気を紛らわすことはできない。
するとガラスの割れる音を聞きつけたらしい誰かが、その薄暗い部屋のドアを開けた。
「おいラト、大丈夫か?」
平坦な声。きっとこの男は言葉で言うほど心配などしていない。
「…これが、大丈夫に、見えるのか?…ぐっ、はあ、はあ、水、悪いが水を、頼む。」
入ってきた年配の男は「水?」と呟くと、胸元に掛けていた眼鏡を装着し、辺りを確認し始めた。そして床に散らばっているガラスの破片を慎重に避けながらラトに近付くと、思いの外優しくその手に触れて言った。
「水より先に『減呪』だ。今回はまた派手にやったんだな。ずいぶん呪いが溜まってるぞ。」
相変わらず説教くさい男だと内心毒付いたが、彼を上回る『減呪師』はそういないし、痛みに耐えている今余計な話をする気にもなれない。ラトは振り絞るように「いいから…早く頼む」とだけ言って、きつく目を閉じた。
年配の男性はそんなラトを一瞥すると、何やら呪文のようなものを唱え始める。すると男性の手が触れている部分、つまりラトの手の甲が徐々に光を帯びていき、その光が強くなるにつれて彼の苦悶の表情もゆっくりと和らいでいった。
「終わったぞ。」
二十分ほどが経過した。
ぐったりとベッドに横たわるラトに、先ほどまでの苦しそうな表情はもう見えない。男性が呪文らしきものを唱えるのをやめたのと同時に、手の甲の光も消えていた。
「悪かったな、急に頼んで。」
ラトが両目を右腕で覆ったままそう伝えると、男性はふんと鼻を鳴らし、ずり落ちかけていた眼鏡を元に戻した。
「何を今更。それより旅をするなら『減呪師』か『神官』を同行させろ。全くいい年をしてすぐ無茶をしやがる。」
「…説教も嫌味もやめろ。」
「じゃあうちに来ないよう頑張るんだな。『苦行明け』は辛いだろ。今日は好きなだけここで休んでいけ。」
疲れ切っているラトに辛辣な言葉と気遣いの言葉の両方を投げつけて、男性は静かに部屋を出て行った。
「はあ、だからここは嫌だったんだ。…帰るか、エステルにも会いたいしな。」
ラトはそれから十分ほどベッドの上で休息を取ると、汗で湿った額もそのままに、暗いその部屋を後にした。
落ちて割れてしまったあの水差しのことは一度チラリと確認はしたが、結局ラトが修復することはなかった。
― ― ―
エステルは今、なぜか繁華街の中心で一人、待ちぼうけを食らっている。
メルナのおかげで素敵なワンピースを購入し、最低限の化粧も済ませ、あとは二人と合流してちょっと洒落たレストランで食事をする、という予定になっていたのだが…
「二人とも、どこに行ったのかしら?」
先ほどからこの場所で二十分ほど待っているが、買い物に行ったアランタリアを迎えに行ったメルナも彼自身も、全く姿を見せる気配がない。空腹が徐々にエステルに忍び寄る。
「もう!お腹が空いてきちゃったわ。はあ。仕方ない、近くを探してみようかな。」
そんな独り言をこぼしながら、エステルは人が多く集まっている場所を中心に二人のことを探し始めた。
待ち合わせ場所が見える限界の場所まで探しに行ってみたが、結局二人は見つからず、元の位置まで戻ろうとトボトボ歩き始めたその時、目の前に数名の男性達が現れ、エステルの進行方向を塞ぐように立ちはだかった。
「お嬢さん、何かお困りかな?ずいぶんお綺麗な方だ。よければ私達が相談に乗りますよ?」
男のうちの一人がいやらしい目つきでエステルに声をかけてくる。中背中肉で特に強そうには見えないが、エステルはその手の甲に小さな印が刻まれているのを見逃さなかった。他の三人も薄ら笑いを浮かべ、エステルの逃げ場を失くそうと徐々に位置を変え始めている。
どう見ても怪しい集団に囲まれてしまったエステルは、警戒しながら後退った。
「いえ、連れを待っているだけです。大丈夫ですのでどうぞお構いなく。」
だがエステルの構ってくれるなというその言葉にも彼らは全く引き下がる様子はなく、先ほどの男は指を手の甲に当てながら無言の脅しをかけ始めていた。
(何の能力かわからないけれど、この間のようにタイミングを逃せば終わる。絶対に一撃で決める!)
そして後ろに回り込んでいた男性がエステルの肩に手を乗せた瞬間、間髪を容れずその男…ではなく、目の前の印に指を乗せている男に強烈な蹴りを叩き込んだ。
「ぐはあっ!?」
男はそのまま道の反対側まで飛んでいき、気を失う。そして唖然としている男達を尻目に、次は肩に手をかけた男を投げ飛ばし、他の二人には回し蹴りを、それぞれに勢いをつけてお見舞いした。
まさかこんなか弱そうな女性にボコボコにされるとは思っていなかったのだろう。回し蹴りをされた男性二人がショックを受けた様子で立ち上がると、残りのぐったりした二人を担ぎ上げてそそくさと去っていった。
「はあ。もう、せっかくの服が汚れちゃったじゃない!あ、もしかして裾が破れたかしら?今から食事なのにどうしよう!?」
ふんわりと裾が広がる形のワンピースの裾がだいぶ汚れてしまったが、どうやら破れは無いようだった。だがふと周囲を見回すと、遠巻きに自分を見ている人達が大勢集まっているのが目に入り、その状況を理解したエステルは一気に青ざめる。
(えっ、どうしよう!?恥ずかしい!!こんな繁華街で暴れるだなんて、私どうかしてたわ!!)
今度は恥ずかしさで真っ赤になって俯いていると、突然その手首を誰かに掴まれ、勢いよく顔を上げた。
「何してるんだよ!ほら、早く行くぞ!!」
「ラトさん!?」
見上げるとそこには、苦笑しているラトの顔があった。その顔に若干疲れは見られたが、いつも通りの彼に安堵する。そしてラトはエステルの手をしっかりと握り直すと、大勢の好奇の目をかいくぐるように素早くその場を離れた。
ほんの数時間離れていただけなのに、久々に会ったような気がする。すごく寂しかった、心配だった、そんな想いがぐるぐるとエステルの頭の中を駆け巡る。
いつだって彼は困った時に傍にいてくれる。必ず助けに来てくれる。それが嬉しくてありがたくて、振り回されても、何も彼のことを知らなくても、ずっと近くにいて欲しいと願ってしまう。
(ああ、どうしよう。会えて、嬉しい…)
エステルは握られたラトの手の大きさやゴツゴツとして温かなその温もりを、この日初めて心から、二度と失いたくないと感じていた。