24. 運命を引き寄せる宝石
《聖道暦1112年3月23日》
ホーデンを出発して二日が経った。
エステルはその町でとても恐ろしい事件に遭遇し、自分の命が脅かされていることを知った。
しかし命を狙われている理由は未だ不明だ。またメルナがなぜそうした情報を知っているのか、アランタリアとはどんな関係なのか、それらについてもまだ教えてもらってはいない。
それに加え、アランタリアからの気の迷いとしか思えない告白やラトの勘違いさせるような言動のせいで振り回されたエステルの心には、精神的な疲労が溜まりに溜まっていた。
だがそんなエステルを救ってくれたのは、親友メルナが持っていたとあるものだった。
「そうそう、私良いものを持っているのよ!」
そう言って彼女が見せてくれたのは、小さなボードゲームだった。
そして現在、馬車の中にはすっかりそのゲームにハマってしまったエステルとメルナの姿があった。
色とりどりの宝石のように美しくカットされた色付きガラス、そしてその輝きをきっちりと閉じ込めた金属の駒。駒を動かす盤面は分厚い布でできており、旅行でも邪魔にならない絶妙なサイズ感となっている。どうやらこれが今、帝国でかなり流行しているものらしい。
このボードゲームは、ルールに従ってボード内でその駒を動かしていき、全てのターンが終わった時点で相手の持っている駒をより多く奪った方が勝ちとなる。運だけでなく戦略的な思考が求められるゲームであり、その奥深さにエステルはすっかり魅了されていた。
「なあ、またそれやってるのか?」
暇そうなラトの呆れた声が耳のすぐ近くで響き、エステルはその顔を右手でグッと強く押し返した。
彼も最初のうちはこのゲームに付き合って遊んでくれていたものの、三十戦二十九勝したところですっかり飽きてしまったらしく、今はただ横やりを入れてくるだけの大変鬱陶しい存在と成り果てていた。まああれだけ勝ち続ければ飽きもするだろう。
「もう!だから近いんですって!」
「今更だろ?あ、ほらそれ、そこじゃない。」
「いいんです、これで!あ、ちょっと手を出さないで!」
「ふふ。仲が良いわねえ。」
いつものようにラトと戯れていると、メルナのニヤニヤとした笑みが目に入る。さらに、無表情なのに眉間をピクピクと動かすアランタリアの視線も感じる。
(ああ、またこんな空気に…)
こうした気詰まりな状況は、ホーデンを出発してからもう何度目かわからないほど起きていた。
エステルはその落ち着かない空気のせいですっかり判断力が鈍ってしまい、ボードに置いたばかりの駒はあっさりとメルナに奪われていった。
もちろんこの二日間、ただひたすらボードゲームに興じていたわけではない。
盗賊多発地帯をメルナの機転で安全に乗り切ったり、事故を起こした馬車を見つけてアランタリアと救出に向かったり、通行の妨げになるような落石が起こってラトとメルナが力を尽くしたりと、いくつものハプニングに遭遇しては皆で協力して乗り切ってきたのだ。
精霊道具としての馬車の機能も随分役に立った。何度か魔獣と遭遇したが、戦うことなく安全にその場を通り過ぎることができたのは、その防御機能のおかげだった。
《聖道暦1112年3月24日》
そうして三日目にしてようやく到着したのが、これまで見てきた町や村とは規模の全く違う、非常に大きな都市だった。
ここは『ゴレ』という運河の町だ。
この町を縦断するように流れる非常に大きな運河は、帝国へと繋がる重要な航路の一つとして、他の海に面した国々や東や南の大陸との貿易に利用されている。
この運河がそれほど重用されている理由は、帝国の西側沿岸の海流が荒くさらに座礁しやすい地形となっており、東側から回り込みこの運河を使って帝国に入るのが最も船舶が航行しやすいルートとなっているためだ。
以前『スーレ』から船で帝国に入れなかったのも同様の理由で、冬から春にかけては特に海が荒れているらしい。
エステル達もこの運河を利用して帝国に入りたいところではあるのだが、運河の利用は基本的に貿易、もしくは国内外の商用利用にのみ限定されているため、それは難しい。
つまりエステル達のような旅行者はどう足掻いても山を超えて帝国に入らなければならないのだが、そのルートもまたこの町からが最も安全で確実なのでここにやってきた、というわけだ。
「さて、やっと到着か。ずっと座ってたから体が痛いな。…悪いけどちょっと出かけてくる。エステルは宿にいろよ?」
馬車を降り荷物を運び出して間もなく、ラトが唐突にそんなことを言い始めたので、エステルは少しだけ眉を顰めた。
もちろんエステルに彼を止める理由はない。そもそも、誰と会うのか、どこに行くのかなどと尋ねても、きっと彼は何も話してくれはしないだろう。
だからエステルはいつものように、ただ黙って頷く。
(ラトさんはこうやって時々私の前からいなくなる。なぜかは知らない。どこに行くのかも知らない。私はまだ彼の事情を話してもらえるほど、信頼はされていないから…)
近付いたり離れたり不安にさせたり、彼はいつもそうやってエステルを振り回してきた。振り回されて心をかき乱されて、もう嫌だと逃げてもみたけれど、ラトは決してエステルを手放してはくれない。
彼は一体何を考えているのか、エステルに何を求めているのか。
まだまだ知らなければならないことがあるはずなのに、何もわからず、ただ時だけがエステルを置いて過ぎ去っていく。
この日の宿はメルナ推薦の高級な宿で、幼い頃こんな場所に泊まった気がするわ、などと思い出に浸りながらその高い建物を見上げた。
するとアランタリアがぼんやりしているエステルにそっと近付き、手に持っていた荷物を風のように奪い取っていく。
「先生?」
「さあ、中に入りましょう。荷物はお持ちしますよ。」
「あ、ありがとうございます。」
断るのも忍びなく、今回は彼の優しさに少しだけ甘えることにした。だがその様子をめざとく見ていたのがメルナだった。
「ふうん。こっちもいいわねえ。」
何やら楽しげに策を練っている彼女に二人は全く気づくことなく、談笑しながら宿の中へと入っていく。
数時間後、宿の中で食事を終えた三人は、ちょうど外から帰ってきたラトと合流し、翌日の予定を確認する。
「明日は帝国に抜けるトンネルを通るための申請を出しに行きましょう。私に伝手があるから、本来よりも早く申請が通ると思うわ。」
旅をしながら気付いたのだが、メルナはとても顔が広い。
あらゆる方面に知り合いや伝手があるらしく、様々な場面で時間短縮できたり危険を回避したりして、ここまで予想以上に順調に進んでこられたのだ。
「メルナ、本当に色々とありがとう。まさか一緒に帝国に行ってもらえるとは思っていなかったし、こんなに良くしてくれて、なんとお礼を言っていいか…」
メルナはエステルにとびきりの可愛い笑顔を見せて首を振った。金色の髪がふわっと揺れて輝く。
「いいのよ。私もちょうど帝都に行きたかったし。でも本当にいいの?危険なのがわかっているのに…」
あの可愛い笑顔が不安に包まれる。エステルはその表情を明るいものに戻したくて、精一杯の笑顔を見せて言った。
「ええ、もちろん。もし危険だとしてもこのまま逃げ続けるわけにはいかないし、それに…」
そこまで言ってからエステルは言葉を濁す。到着したらすぐに東の大陸に向かうことになっていることは、誰にも悟られるわけにはいかない。
「ええと、まあ危なくなったらこっそりどこかに隠れてしまえばいいかなって!ほら、私って結構丈夫だし、地味な見た目だから群衆に紛れてしまえば」
「地味じゃない」
「地味ではありません!」
それまで黙っていたラトとアランタリアが突然、エステルの言葉に被せるように同時にその発言を否定した。変なところで息の合った二人に驚き、エステルが交互にその顔を見つめていると、メルナが「まあまあ」と言ってその場を収めてくれた。
「とにかく、トンネルさえ抜けてしまえばもう帝国内だし、山で遭難する危険はないわ。そこからは平坦な道が続くから安心だし。まあ、多少の危険はどこにでもあるけれどね。」
意味ありげなメルナの言葉に一抹の不安を覚えたエステルだったが、今考えても仕方ない、と気持ちを切り替えたところで、この日の話し合いは終了した。
そして夕方。
エステルは有名な運河をこの目で一目見ようと、バッグを片手にウキウキと町へ繰りだした。
一人で町を歩いてみたくてラトに気付かれないようそっと宿を出てきたのだが、もしかしたらすでに監視されているのかもしれない。
だが邪魔さえされなければそれでいいので、あえて気配を探ったりせず前に進む。
宿を出て案内表示を見ながら右に曲がると、ちょっとした広場のようにも見える開けた道にぶつかった。
その広い道沿いには、高く連なる石造りの家々がかなり先の方まで並んでいる。一階部分はどこもほぼ店舗のようで、人通りも多く賑やかな商店街といった感じだった。
さらにその上にはたくさんの窓が多種多様な花々に彩られ、今は一日の終わりを告げるオレンジ色の光を映し出している。
まるで御伽話の世界に迷い込んでしまったかのような光景に思わず夢中になって歩いていると、少し先の方に目的地の運河が見えてきた。僅かにカーブした道をさらに進み、運河沿いに長く広がる公園に辿り着く。
「ん?何か踏んだかしら?」
その公園の入り口らしき場所で、エステルは何か硬いものを踏んだ感触に気づいた。足を少し上げて地面を確認すると、そこに落ちていたのは、美しく光るあのボードゲームの駒だった。
「あら?違うわ。これ、あの駒じゃない。え、もしかして本物の宝石?ペンダントトップかしら?」
だがよく見てみるとその駒と思われた石にはチェーンを通すような穴が付いており、明らかにガラス製ではないようだった。念のため日の当たる河の方に近付き、沈みゆく夕日に翳してその輝きを確かめてみる。
黄色く輝くその石は、内部にキラキラと虹色の光を反射する鉱石を含んでいて、見ているだけで自分がそこに吸い込まれそうなほど美しかった。しばらくその小さな世界に心を奪われていると、ふと誰かの足音と気配を感じてエステルは振り返った。
「はあ、はあ、あの、申し訳ないが、それを返して、もらえないだろうか?」
「え?」
振り返った先にいたのは一人の若い男性だった。この辺りではあまり見ない風貌のその男性は、運河からの風に砂色の髪を靡かせ、少し苦しそうな表情で立っていた。
生成色の生地に変わった紋様の刺繍が入った服は少し乱れ、息も上がっているようだ。よく見るとその肌は少し浅黒く、この大陸の人ではないように思えた。
「この宝石はあなたのものですか?」
エステルは何となくこの人が嘘をついているようには思えなかったが、念のため確認しておこうとそう問いかけた。男性は胸に手を当てて深呼吸を一つすると、大きく頷く。
「ええ。先ほど不測の事態が起きまして、その時落としてしまったみたいなんです。」
エステルはふと思いついて宝石をひっくり返し、裏側を見る。するとその動きに気付いた男性が、嬉しそうに大きな声で叫んだ。
「それ!その裏に刻んであるのは、我が国に伝わる祈りの言葉なんだ!その横に星二つと円二つの記号!実はその宝石には『運命を導き、繋ぐ』という謂れがあって…」
「ふっ…ふふふ!」
その若い男性はエステルの小さな笑い声に気付き、話を止めて目を見開いた。その表情を見てエステルはつい笑ってしまったことを申し訳なく思い、急いで謝罪する。
「お話の途中だったのに笑ってしまってすみません。急に親しげな口調に変わられたので、つい…でも失礼でしたね、ごめんなさい。」
「いえ!そうか、いや、そうですね、僕もつい、いつもの調子で…」
「ふふ。いいんですよ、お気になさらないでください。じゃあ、はいこれ。」
エステルは男性の前に立つと、差し出された両手の上にそっと宝石を乗せた。彼の顔が安堵で弛んでいく。
「では私はこれで。」
夕日が落ち、空にいくつもの星が瞬き始めている。
(そろそろ帰らないと、ラトさんにまた叱られちゃうわ!)
「あの!!」
「ごめんなさい、急がなければならないので!大切なものが見つかって本当に良かったです。では、良い旅を!」
男性は何かを言おうとしていたようだったが、気を遣わせるのも面倒に巻き込まれるのも避けたいと考えたエステルは、無難な別れの言葉を口にして早々にその場を離れた。