23. それぞれの想いと仲直り
エステルはラトが出ていった後のアランタリアの部屋で、しばらくの間微動だにせず椅子に座っていた。
ラトに説教をされることはわかっていた。だがあそこまで冷たい態度を取られるとは思っていなかった。
(ラトさんなら笑って許してくれるって、心のどこかで思っていたのかもしれない…)
そんな自分の甘い考えに、エステルはかつてないほどの自己嫌悪に陥っていく。
アランタリアは落ち込んだ様子のエステルに気を遣ってくれたのか、「ちょっとお茶をもらってきます」と言って部屋を出ていった。
彼が部屋を出てすぐ、廊下で何やら大きな音がした気がしたが、今のエステルにはそれを気にかけるだけの元気はもう残っていなかった。
数分してアランタリアが戻ってくると、その手には丸いトレーが握られていた。トレーの上には布巾のようなものが一枚と青い水玉模様のカップが二つ、湯気を立てて仲良く並んでいる。彼はそのうちの一つをエステルの目の前に置き、自分は立ったままでもう一つのカップを手に「さあどうぞ」と促した。
テーブルの上に置かれたカップからはほんのりと甘い香りが漂ってくる。美味しそうな香りに導かれるように、エステルは姿勢を変え、カップに手をかけた。
アランタリアは待っていましたとばかりに自分のカップをテーブルに置くと、エステルの横に片膝をつき、微笑んで言った。
「さあ、とにかく飲んでください。体が温まりますよ。」
その優しい声とまるで大輪の花が綻ぶような美しい笑顔が、エステルの心を一瞬で魅了する。
(彼のこんな笑顔、初めて見たわ…)
エステルはそのあまりの美しさと神々しさに、カップを口元に運ぶ位置を間違えてしまった。
「あっ…つ!?」
「ああっ、大丈夫ですか!?」
まだ少し熱いそのお茶がエステルの膝を濡らし、急いでカップをテーブルに置く。それと同時にアランタリアがトレーの上の布巾を手に取り、濡れた箇所を素早く拭き始めた。だがエステルは慌ててその手を止める。
「あ、あの先生、そこはちょっと…自分で拭けます。」
さすがに男性に膝の上を拭いてもらうのは気が引ける。アランタリアがハッとした表情になり、持っていた布巾をエステルに渡して顔を強張らせた。
「申し訳ありません。その、困らせるつもりでは…」
(優しい人…この人にこんな顔をさせてはいけないわ)
エステルは布巾を濡れた膝の上にそっと置くと、アランタリアに微笑みかけた。
「先生、私は平気ですから。先生のような素敵な方に拭いてもらうなんて申し訳ないと思っただけです。ありがとうございます。お茶も…美味しいです。」
その言葉に思うところがあったのか、彼は突然何かを決意した表情でエステルの手を膝から掬い上げ、両手でしっかりと握りしめた。
「え?」
「エステリーナさん、お願いです。私にもあなたの苦しみを共有してはいただけませんか?先ほどのお話がどうしても気になってしまって…」
エステルは真剣すぎるほどの目で懇願してくる彼の姿に、思わずドキッとしてしまう。
(顔が良いというのはこれほどまでに影響力があるものなのね。あの女性達が彼に夢中になるのも無理もないわ…)
手を強く握り、じっとこちらを見つめてくる彼の美貌に根負けし、コクンと小さく承諾の意を示す。と同時に真っ直ぐすぎる彼の視線に気恥ずかしくなったエステルは、瞼を一瞬伏せてから再びゆっくりと開いた。
だが瞼を開いたその視線の先に見えたのは、エステルよりよほど恥ずかしそうに頬を赤らめているアランタリアの顔だった。その表情の理由がわからずぼんやりと彼を見つめていると、彼はエステルの手を解放し勢いよく立ち上がった。
その瞬間、自分の長い服の裾を踏んだアランタリアが体勢を崩す。
「あっ!!」
「え、先生!?」
よろめいた彼を得意の馬鹿力で支えようとしたがうまくタイミングが合わず、ほぼ抱きつかれたような形で止まってしまった。服越しではあるが、エステルの頬に彼の引き締まった上半身の筋肉が当たる。
(細いと思っていたけれど案外筋肉質なのね。服の効果かしら?)
「す、すみません!!」
大慌てでエステルから飛び退いた彼は何度も謝罪を繰り返したが、エステルはその度に大丈夫ですからと宥め、ようやく本題に入ることができた。
落ち着きを取り戻したアランタリアが椅子に腰掛けると、エステルはかいつまんで自分の幼少期からの生活について語り始めた。ただ彼にこれ以上気を遣わせたくなくて、できるだけ暗くならないような言い回しを使い、所々内容を曖昧にしながら説明していく。
しかしエステルのそうした気遣いにも関わらず、全てを聴き終えた彼はすっかり意気消沈していた。そして再び謝罪の言葉を口にする。
「エステリーナさん、先ほどはあなたにあんな不躾なことを言ってしまって申し訳ありませんでした。あなたにそんなお辛い過去があったとも知らず…」
エステルはそっと、テーブルの上に置かれた彼の手に自分の手を重ねて言った。
「どうかもう謝らないでください。先生が私を慰めてくださったことがありがたくて、そんなことどうでもよかったんですよ?それに私、先生があんな素敵な笑顔をお持ちだなんて知らなくて。むしろ得したな、なんて思っていますから!」
「エステリーナさん…」
アランタリアは本当は感情表現が豊かでとても優しい人だと、エステルはもう十分に知っている。そしてそんな人に心配されたことが何よりも嬉しかった。
彼は笑顔のエステルに反応するように、蕩けるような甘い笑みを返す。だが続く彼の言葉で、この場の和やかで温かな時間はあっさりと終わりを告げた。
「エステリーナ、いえ、私もエステルと呼ばせてください。エステル、私はこれからあなたに想いを寄せても構いませんか?こんな、こんな気持ちは初めてなのです。駄目、ですか?」
「え?…ええっ!?」
アランタリアは重ねられたエステルの手を奪うと、まるで小動物でも愛でるかのようにその手を両手で包みこんだ。エステルはどうしていいかわからず、力任せにその手を引き抜く。
「あ」
「ご、ごめんなさい!でも、ダメです!先生にはもっと素敵な方がいますから!」
エステルははっきりとノーを突きつけたが、アランタリアは諦めなかった。
「ではせめて私のことは『アラン』と呼んでください。少しずつ、そうだ!お友達から仲良くなっていきましょう!」
「えっ、お友達…」
断りにくい提案にエステルの思考は混乱する。だが今の精神状態では何を答えてもまずい、そう判断したエステルは、「考えておきます!!」と叫んで彼の部屋を飛び出していった。
バタンとドアが閉まる。
大きな音を立ててしまったことに若干の気まずさを感じつつ、エステルは収まらぬ動揺を鎮めようと深呼吸をしてから、早足に自分の部屋へと戻っていった。
(どうしたんだろう先生、そうだ、きっと旅で疲れてしまったのね。疲れて気の迷いを起こしているんだわ。きっとそう!)
色んなことがありすぎた二日間。逞しいエステルの精神力もそろそろ限界に近づいていた。今日はもう何も考えまいと心に決め、朝食のことも忘れてベッドに突っ伏し、眠りについた。
― ― ―
《聖道暦1112年3月21日朝》
それから三時間後。
むくりとベッドから起き上がったエステルは、『栄養を寄越せ』という体からの強烈な指令に耐えきれず、渋々重い体を動かし始めた。
ぎゅるるるるる…という警報音が、もうあまり時間がないことを示唆している。
(ダメだわ。このままだと本当に動けなくなってしまう)
エステルは財布の入った例の小さいバッグを手にすると、宿から一番近いパン屋へと移動を開始した。
パン屋に辿り着くと見覚えのある後ろ姿が店の入り口に立っているのが見えた。
(ラトさん?)
エステルは思わず近くの街路樹に身を隠してみるが、それは無駄な行動だった。ラトはすぐに気配に気付き、ゆっくりとこちらを振り返る。
「エステル」
(ああ、どうしよう、気まずい…)
かと言って逃げるのも大人げない。エステルは唇を噛み締めて気合いを入れると、ラトに近付いた。
「ラトさん、あの」
「悪い、財布を忘れた。パン、俺の分も買ってくれない?」
「へっ?」
せっかくパンパンに入れた気合いが、ぷしゅうと音を立てて抜けていく。いつも通りのラトだ。拍子抜けしたエステルは口を大きく開いたまま、その顔をただじっと見つめていた。
「ほら、また口が開いてるぞ。」
今度は顎でなく頬を摘まれ、エステルは慌てて口を閉じる。
(やっぱりいつものラトさんだ。でも…)
戸惑いを隠せないエステルだったが今は緊急事態だ。再び腹からの警報音が鳴る前に食べ物を調達しなければならない。
仕方なく黙って頷くと、ラトの横を通って店の中に入った。
すでに朝、という時間ではなくなった昼少し前。エステルは公園のベンチでラトと並んでパンを頬張っていた。
ちぎって食べるなどと悠長なことをしてはいられない。飢餓状態の腹ペコエステルは、パクッとパンにかぶりついたところでラトの面白そうにこちらを見る視線とぶつかった。じわじわと恥ずかしさが募り、ゆっくりと顔を反対側に向けると、クスッという微かな笑い声が聞こえてきた。
(思いっきりがっついているところを見られちゃったわ!もう!恥ずかしい…)
ラトはそんなエステルに「はいよ」と言って飲み物を手渡すと、自分も大きな口を開けてパンを食べ始める。
この町では木を薄くくり抜いたカップが安く売られているらしく、パン屋ではそのカップに入れた何種類かの飲み物の販売もあった。旅先で飲み物を調達するのは意外と大変なので、こうしたサービスは本当にありがたい。
エステルはもぐもぐと口に入れていたパンを飲み込むと、受け取ったお茶を飲んで一息ついた。
(ああ生き返った…!)
身体中に栄養が行き渡り、血流がよくなるのを感じる。ほっとした顔をしていたのだろうか、ラトが微笑みながら「顔色が良くなったな」と言う。
それから十分ほどしてそれぞれの食事が終わると、ラトの方から話を切りだした。
「エステル、その、今朝は…ちょっと言いすぎた。悪かった。」
「え!?」
エステルはまさか頭を下げてまで謝られるとは思っておらず、ついその下がりかけた頭を下から押さえてしまった。
すると彼が驚いた様子で頭を上げるのを見て、ようやく自分がまずいことをしたと気が付いたエステルは、手を急いで後ろに隠し、何事もなかったかのように振る舞ってみる。だが当然そんなお粗末な誤魔化し方が通用するわけもなく…
この一連の行動全てが、ラトのツボにがっつり入ってしまったらしい。
「ぶはっ、ふ、ふははははは!!何だよそれ!謝るのをやめさせたいからって頭を押さえるって…しかもバレバレなのに隠すって…あはははは!エステルちゃんってほんと面白い!!」
「だって…」
エステルは唐突に笑いだしたラトにどう反応していいかわからず、言いかけた言葉を止めて俯いた。そしてひとしきり笑って満足したラトは、後ろに隠していたエステルの手を引っ張ってきて静かにこう告げた。
「朝言ったことを取り消すつもりはない。あれも俺の本心だから。でもいくらかは俺の私的な事情と感情が入ってたんだ。だからそれについては謝る。」
「私的な?」
エステルは首を傾げる。そういえば私は、この人の過去を何も知らない…
「詳しいことはまだ話せない。でもいつか全部話すから。約束する。だから…」
ラトは両手で握りしめたエステルの手を少し上に持ち上げ、そこに自分の唇を軽く押し当てた。
「仲直り、しよう?」
繋がれた指に彼の熱い吐息がかかる。体験したことのないその感覚とラトの意味ありげな視線に、エステルの頭は瞬時に沸騰した。
「なっ!?ひやああっ!!」
「ぐふううっ!?」
そして気がついた時には、取り返した手を前に突き出し、ラトをベンチの下に突き飛ばしていた。
「あっ、ご、ごめんなさい!!」
「だからいだいって、エステルちゃん…」
本当に痛そうで申し訳なかったが、涙目のラトを見てエステルは少し冷静さを取り戻していた。
(よかった、これできっと、前の日常が戻るわ)
だがその『前の日常』なるものがいかに脆く不安定なものかということを、後のエステルは痛いほど知ることになるのだった。