21. 怪事件は食事の後に
《聖道暦1112年3月20日》
メルナとカフェでお茶を楽しんだ後、エステルは彼女の宿泊先を確認し、一旦別れた。別れ際、明日の出発前にもう一度会いましょうと約束し、久々の友人との再会に心躍らせながら自分の宿へと戻っていく。
ラトはメルナと一緒にいる間はずっと離れた場所で護衛として見守っていてくれたのだが、帰路に着くと当然のように横に並んで歩き始めた。時々腕が触れ合うほどに近くを歩く彼を、エステルは頬を少し膨らませてジロッと睨む。
「ラトさん、何度も言いますけど距離が近いんです!あまりくっついて歩かないでください!」
だがエステルの抗議の声はラトには全く響かないらしい。彼は口の端に笑みを浮かべ、余裕の表情を崩さない。
「まあいいじゃないの。どうせ契約は解除できないんだし、前より仲良くなってきたし、ね?」
「なってません!少しも!ちっとも!」
怒った顔で立ち止まり子供っぽく反論すると、ラトは昨夜のように楽しげに笑いながらエステルの頭にポンと手を置いて言った。
「はいはい。そういうことにしておくよ、今は。」
「…はあ。」
このまま何もかも諦めてしまえば、きっと全てラトの思い通りになってしまうのだろう。だが今のエステルには、この男に対抗できる術など何一つ無いような気がしていた。
そんな弱気な考えを見透かされたのか、ラトはさらにもう一歩エステルを追い込みにかかる。
「へえ。俺に振り回されちゃうエステルちゃん、可愛い。」
「!?」
声にならぬ叫びを飲み込み、エステルは顔を赤らめてラトを両手で向こうへと押しやった。前に押し出されたラトは満足そうに微笑むと、そのままエステルの少し前を歩き始めた。
その晩三人は、近くのレストランで食事を済ませようということになった。
食事中、アランタリアはお目当ての品が見つかったと嬉しそうに報告してくれた。さらにいつもの無表情な彼は影を潜め、すっかりご機嫌な様子で「後でお見せします」などと言いながら料理を次々と平らげている。
(ああ、この人本当はこんなに感情表現が豊かだったのね…)
そんな彼の様子を、エステルは微笑ましく見守っていた。
だが、そんな和やかな食事の席に水を差すような声が耳に届く。
彫刻のような美しさを持つアランタリアは当然ここでも目立っていたのだが、今日はもう一人ここに見目麗しい男が座っている。いや、それだけではない。こちらの彼は無駄に色気を振りまいて、女性達の興味と視線を引きつけてやまないらしい。
「見て、あの席に座っている方!」
「お二人とも素敵ねえ。ああ、こちらからお声をかけるなんてはしたないかしら?」
「ああ、私も一緒にお食事をしたいわ…」
「ねえ、あの地味な女は何者かしら?」
しばらくは周りから聞こえてくるこうした雑音を無視して食事を続けていたが、食事をほぼ終えてから化粧室を借り、窓のある廊下に出た途端、先ほどの声の主である三人の裕福そうな女性達に捕まってしまった。
エステルはそのまま壁に追いやられ、逃げ場をなくす。
「ねえ、あなたの連れのお二人って、この後お時間あるかしら?」
「お近付きになりたいのだけど、あなた、紹介してくださらない?」
「もちろんタダで協力してくれとは言わないわ。」
「それとも何?あんな素敵な殿方を二人も独占したいの?」
「いやあの…」
ベンヌという村でも思ったが、アランタリアに群がる女性達はどうしてこうも過激なタイプばかりなのだろうか。いや、今回はラトに魅了された人もいるのか…
うら若き女性達に手荒な真似はできない。とにかく面倒なことになったと頭を抱えていると、廊下の奥からカタカタカタ、とあまり聞き覚えの無い音が聞こえてきた。
その音は次第に音量を増し、エステルに詰め寄っていた女性達もその音に気付き始める。
不安そうに辺りを見渡す女性達。何の音かしらと口々に言い合っているが原因はわからない。その間にも徐々に音が近付いてきているのがわかり、結局怖くなった彼女達は、すぐにエステルを解放し廊下を去っていってしまった。
だが残されたエステルの方は、一難去ってもまだ気は抜けない。なぜなら音はまだ鳴り止んでおらず、どこからか振動すら感じるようになっていたからだ。
耳を澄まし、集中力を高める。
手を服の内側に伸ばし必要な物を探っていると、物音はさらに近付き、速度を増していく。
カタカタ、カタカタカタ、カタカタカタカタカタカタ…ガンッ!!
最後の大きな音と同時にエステルは袋から抜いた短剣を構え、音の発生源を確かめた。
(あそこ、廊下の突き当たりにあるドアね!)
しかしその後、数分待っても何の変化も起きない。
エステルは警戒しながら少しずつそのドアに近付いていったが、ドアノブに手を掛けた瞬間、思ってもいない場所から衝撃が襲ってきた。
ガッシャーーーーン!!!
廊下の窓数枚が一瞬で粉々に砕け、外からの爆風と共に何か大きく黒い物体が転がり込んでくる。エステルは壁に手をつき体勢を立て直すと、気持ちを瞬時に戦闘モードに切り替え、その黒い何かと対峙した。
エステルにゆっくりと迫ってくるその物体は、黒い中心の塊部分から触手のような何かを四方八方に突き出している、見たこともない化け物だった。
目のようなものは見当たらないが、その触手らしきものをくねらせたり急激に伸ばしたりしながらこちらを覗っているように見えた。そしてそのうちの一本が、まるで細長いナイフのような形状となり勢いよくエステルの方に向かってくる。
キイイン!という、見た目からは想像もしなかったような金属音が鳴り響く。エステルの剣が襲ってきた触手を弾き返したのだ。だが切れた、という手応えは感じられない。
(大剣を出すしかないか…でも隙が無い!)
その後も何本もの触手がエステルを狙って飛び出してきたが、それ以外の攻撃パターンは見られない。
その時ふとその内側におぞましいものが見えて、エステルの思考は一瞬停止しかけた。
「え…さっきの女性!?」
黒く蠢く球体の内側に、先ほどエステルを取り囲んできた女性の一人の顔が浮かび上がる。触手達を剣で打ち返しながらもそこから目を離せずにいると、後方からエステルを呼ぶ声が響いた。
「エステル!!」
その声の主はラトだとわかったが、振り返る余裕はない。しかもあれを見た後で、彼にこの黒いものを攻撃させるわけにはいかない。
エステルは右手で剣を振り上げたまま、左手で『拘束の木』を器用に取り出し、一気に集中力を高めた。
(間に合え!!)
左手から吹き出す木の枝、だがそれが包み込んだのは黒いものではなく、ラトだった。
「はあ!?うわあっ、ちょっと、なんで俺!?」
うまくいったことを察したエステルは左手から木を投げ捨て、一か八かで剣を盾に球体にその左手を突っ込んだ。
その瞬間、窓ガラスの向こうから別の何かが飛び込んできた。
「よし!やっと見つけたわよ!!さあお縄につき…って、エステリーナ!?」
「メルナ!?」
そこに現れたのは、まるで盗賊のようないでたちの、メルナだった。
「あ、ちょっと待ってね!!」
唖然とするエステルにウインクを投げかけ、彼女は首筋にある印に手を伸ばした。
『吸収』
そして印から離れた手が前に突き出されると、その手のひらに目の前の黒い物体が吸い込まれ始めた。
エステルはハッとして剣を投げ捨てると、黒いものの中にいる女性の服を両手でむんずと掴み、思いっきり引っ張り上げた。
シュルッ
何とも気の抜ける音がしたかと思うと、あの黒い物体は完全に消え去り、気を失った女性だけがそこに残された。
しばしの静寂の後、ガラスがパリパリと踏みしめられる音と共に、拘束を解かれたラトが怒りを滲ませてエステルに近付いてくるのがわかった。だが今はとにかくこの場から離脱しなければならない。
「メルナ、逃げるわよ!」
「え?ああ、確かに!!」
そう、窓ガラスは全て割れ、廊下には触手達が放った攻撃による傷があちらこちらに残っている。だが今の状況だけを第三者が見たら、ここにいる四人が乱闘を繰り広げたのだと思われるだけだろう。
するとラトの深い深いため息がエステルの耳元で炸裂し、次の瞬間には彼に荷物のように担がれたエステルが、窓の外で宙を舞っていた。
「ひやああああああ!?」
「いいかエステル?後で説教だから。」
「ひっ!?い、いやあああああ!!」
夜空に舞うエステルを、高所と説教という二段階の恐怖が襲う。だが今の彼女にはもうそれに抗う術も気力も体力も、一片たりとも残されてはいなかった。
《聖道暦1112年3月21日早朝》
数時間後。
エステルは眠れない夜を過ごすと、夜が明ける頃薄い上着を羽織って宿の外に出た。ふらふらと目的もなく歩いていると、昨日のあの出来事が繰り返し頭に浮かんでは消えていく。
霧の煙る街並みをぐるりと見渡し、もう時間かなと部屋に戻った。
もう一度顔を洗って半分眠った頭を無理やり起こすと、予定していた話し合いのためにアランタリアの部屋へと向かった。
エステルの部屋よりも少し豪華なその部屋は、部屋の真ん中に丸い机と数脚の椅子が置かれており、エステルが部屋に入った時にはすでに他の三人は席に着いていた。
「エステリーナ、おはよう!」
すっかり貴族の女性らしい姿に戻ったメルナが元気いっぱいに挨拶をしてくれる。昨夜あんなことがあったとはとても思えないほどの元気な声。エステルは負けじと声を張り上げたつもりだったが、掠れたような声しか出ない。
「う、うん、おはよう。」
エステルはチラッとラトの顔を見たが、腕と足を組んで座り窓の外を眺めていた彼は、こちらに目を合わそうともしてくれなかった。
(どうしよう、ものすごく怒っているわ…)
胸が締め付けられるような感覚に、エステルは思わず俯いてしまう。だがアランタリアがそんなエステルに助け船を出してくれた。
「エステリーナさん、昨夜は大変だったようですね。さあ早く情報共有をして朝食を食べましょう。そうだ、後であなたに見ていただきたい精霊道具もあるのですよ。ほら、こちらに座って。」
アランタリアはエステルの背中にそっと手を当てると、椅子を引いて優しく席に座らせてくれた。
そんな落ち着かない空間での話し合いは、メルナの爆弾発言から始まっていった。
「まずね、昨日エステリーナが遭遇したのは『バロフ』と呼ばれる異界の生物よ。」
エステルは唐突な報告に驚愕し、他の二人が全く驚いている様子がないことに再度驚いた。そしてもう一つ。
「メルナ、あなた、ここにそういう目的で来ていたのなら私に連絡をしてくれてもいいではありませんか。」
そう、アランタリアはメルナのことを知っていたのだ。
(そういう目的って一体…)
エステルの頭に次々と疑問符が浮かび、消えることなく蓄積されてパニックになっていく。メルナはそんなエステルの表情に気付いてはいるようだったが、申し訳ないという顔をしてから話を続けた。
「アラン、ごめんなさい。でもあれを見つけたのはたまたまだったのよ。それよりこの件はエステリーナの今後に深く関わってくる話なの。だからエステリーナ、きちんと順を追って説明するからよく聞いていてね。」
エステルは呆然としながらもとりあえず頷き、続く説明を待った。
そしてこの後メルナが語ってくれたのは、エステルが知らなかったこの世界の裏側と、そこに絡む恐ろしい陰謀の話だった。