19. 護衛契約の罠
《聖道暦1112年3月19日午後》
『ベンヌ』を出発して最初の目的地と決めていたのは、六時間ほど馬車を走らせた場所にある『ホーデン』という比較的大きな町だった。
馬車を降り、この王国で初めての宿を取る。
エステルが住んでいたフォーンという町は、割合高さのある建物が多く雑然としていたため、ここ『ホーデン』のような低い建物が広々とした空間の中にゆったりと建てられている光景は、町の穏やかな美しさと相まって何か心惹かれるものがあった。
本来であればここから南下して『スーレ』に向かい、船に乗って帝国の端の町に入る予定だったが、計画変更となってしまったため、この『ホーデン』で一泊してから数日をかけて『ゴレ』という運河の町へと向かうことに。
(どうかその先は山越えの道を使わないで済みますように…)
エステルは荷物を馬車から降ろしながら、心の中で繰り返しそう祈っていた。
アランタリアは到着して宿に荷物を置くと、すぐに知り合いに会いにいくと言って出かけていき、エステルはラトと二人っきりになってしまった。
「エステルちゃんはこの後どうするの?」
エステルが宿の入り口でこの後の時間をどう過ごそうか悩んでいると、ラトがいつものような調子で声をかけてくる。
「旅に必要なものは揃っているので、ちょっと町を散策してきます…一人で。」
ラトに護衛はいらないと暗に伝えてみたのだが、彼はあえてそれを無視することにしたようだ。にっこりと微笑むと、彼はエステルの真横に並んだ。
「へえ。じゃあ俺も付き添うよ。まずどこから行く?」
「ラトさん、私は一人で」
「俺もこの町はあまりよく知らないんだ。そうだ、まずお茶でも飲むか!」
「えっ、ちょっと、ちょっと待って!?」
エステルの言い分など一切聞き入れるつもりはなかったのか、ラトは当たり前のようにエステルの手を握ると、スタスタと歩き始めた。
しばらく歩いていくと小さなカフェがあり、広い通りに面したそこは、オープンカフェとなっていた。
ラトに促されるままにその賑やかな店に入り、外の席で彼と向かい合って座る。エステルは落ち着かないこの状況に戸惑いつつも、飲み慣れたお茶を注文し一息ついた。
「へえ、いい店だな。そういえばエステルちゃんとこうして店でゆっくり話すのって、意外と初めてかもしれないな。」
彼はそう言いながら、エステルの顔を覗き込むように組んだ両腕をテーブルに乗せる。あの鬱陶しいほど長かった前髪がだいぶ短くなったことで、彼の青緑色の瞳がよく見える。
「そう、ですね。」
エステルは落ち着かない気持ちになってついモゾモゾと座る位置を変えてみたりする。
「…なあ、俺といると落ち着かない?」
あっさりと図星を突かれ、さらに動揺する。
「そ、そんなこと…」
するとラトの手がスッとエステルの顔に伸び、思わず顔を赤くしてそれを避けた。
「へえ、いい反応。」
「!!」
(何それ?どういう意味!?もう、どうしてラトさんはこんなに突然豹変しちゃったのよ!?)
エステルが狼狽えているうちに彼は手を引っ込めると、背もたれに体をあずけ、ゆったりと微笑んだ。
「落ち着かなかろうが何だろうが、俺は君の護衛として一切離れるつもりはないから。」
「…」
そう言ってラトは、その時ちょうどテーブルに届いたお茶を優雅に飲み始めた。
結局その後もエステルがどこに行こうとしてもついてくる彼に根負けし、以前のラトだと思い込んで買い物を楽しんだ。
「これ、素敵ね。これから暑くなるし欲しいけれど、どうしようかなあ。」
「こっちもいいんじゃないか?ほら、これ。」
「ええ?それって単にラトさんの好みってだけじゃ…」
「そうそう!いいからいいから、物は試しって言うし、ね!」
「あっ、ちょっと!もう、すぐそうやって強引に…」
気になった帽子を試着していただけなのに、いつの間にかラトと戯れあっていた自分に気付き、エステルはハッと我に返った。
(私一体どうしちゃったんだろう?しっかりしなくちゃ!)
エステルは急いで帽子を棚に戻すと、ラトと少し距離を取ってから言った。
「そろそろ宿へ戻りましょうか。暗くなりそうだし。」
「…そうだな。」
エステルのその態度の変化に彼が気付かないはずは無い。それでも、気付かれたとしても、これからは少しずつ距離を広げていかなければ、とエステルは小さな決意を固めていた。
その日の夜。エステルは少し肌寒くなった町を一人歩いていた。
町に人通りは少なかったが、宿の主人によるとこの町はリリム王国の中でも比較的治安がいいらしく、さほど不安を感じずに歩くことができた。
町の中心部には大きな噴水を持つ公園があり、馬車で通り過ぎた時に目をつけていたエステルは、頭を冷やそうと何となくそこに向かってみる。
公園内に入ると、あまり明るくはない街頭の灯りがまばらに見える。その中でも最も明るい場所は、この公園の真ん中に設置されている大きな噴水のある広場だった。
春の夜の冷たい風を感じながら、エステルはその噴水の前に立つ。
(帝国まではまだ時間がかかりそうね。そう考えると、このままじゃ良くない、よね…)
エステルはここ数日のラトとの関係の変化に戸惑っていた。
おそらくエステルが危険な目に遭ったことで、もう隠す必要のなくなった彼本来の心配性な気質が全開になってしまったのだろう。
だが今の距離感の近さは危険でしかない。彼が、というよりも、自分の精神衛生的に、だ。
「お嬢さん、お一人ですか?」
(ああ、やっぱりもう無理かもしれない…)
エステルはラトに対して芽生え始めている何らかの気持ちに、本気で危機感を感じ始めていた。
「一人ですけど、平気ですよ、ラトさん?」
今彼の姿を見たら心が揺らいでしまいそうで、噴水に視線を向けたまま声の主に答えを返す。
ここで自分を放っておいてくれるならもしかしたらまだ一緒にいられるかもしれない。だがそんな淡い期待は、すぐに消し飛んでいく。
ふいに肩に何か柔らかな物が掛けられ、少し驚いたエステルは、肩越しに後ろを振り返った。
「寒くなってきたな。俺のだけど、使って。」
ラトは動きやすそうなオリーブグリーンのセーターとベージュのパンツ姿でエステルに笑顔を向けて立っている。
少し前の『おじさん』らしくいた時とは全く違う彼。その時には見えていなかった引き締まった体や顔の造作の美しさがぼんやりとした街頭の光で際立ち、ただ立っているだけなのに妙に色気を感じさせる。
彼が肩に掛けてくれたのは、先ほどまで彼が着ていた薄手のコートのようだった。ほんのりとした温もりが、エステルの体を優しく包み込んでくる。
(ああ、どうしてこんな…)
その温もりが苦しくて、エステルはコートを両手で掴み、とある決意をしてラトと向き合った。
「ラトさん、お話があります。」
ラトの真剣な眼差しが、エステルの次の言葉を待っている。
「何?話って。」
エステルはコートを肩から外すと、それをラトに突き返してから言った。
「護衛契約、ここで解除していただけませんか?」
そう言ってから数歩、後ろにさがる。
ピリピリと張り詰めた空気が一瞬にして二人のいる空間を覆っていく。水の落ちる音、水滴が跳ねる音だけが辺りを包み込む。
そして数秒の沈黙の後、ラトはコートを握りしめたまま一歩エステルに近付いた。
「理由を聞いてもいいかな?」
彼の冷静な声が逆に怖い。エステルはもう一歩後ろにさがろうとしたが、彼の強い視線に絡めとられてどうしても身動きが取れなかった。
「…」
「言えないような理由?」
「…えっと」
もう一歩、ラトが近付く。
その彼の行動に、エステルは焦り始めた。本音を晒すわけにはいかない。でも今のラトに、漠然と考えておいた言い訳も嘘も、一切通用しないような気がした。
言い渋っている間に彼の方は遠慮なくエステルを追い詰める。
「エステル、俺から逃げようと思ってるなら諦めて。俺は君の護衛を辞めないし、君の一番安全な場所も誰にも譲る気はないよ。」
その言葉の意味と重みを受け止め切れず、エステルは動揺のあまり声を上擦らせて叫んだ。
「なっ、何ですかそれ?だって、雇った側は私ですよ!?だったら」
ラトはコートを左腕に抱えて最後の一歩を大きく踏み出すと、エステルの髪にそっと右手を添えた。予想外の出来事に硬直していると、彼は不敵な笑みを浮かべて顔を近付け、エステルの左の耳元でこう囁いた。
「だから何?覚悟を決めた俺から逃げられると、本気で思ってる?」
「ひゃああっ!?」
彼の声と吐息を間近で感じ、その言葉の真意を理解できぬまま慌てて両耳を押さえると、目を瞑って「あーあーあー聞こえない聞こえない!」と無駄な抵抗を試みる。
だがその手すらラトに引き剥がされ、エステルはもう一度彼の囁きの破壊力をまともに受けてしまった。
「エステルちゃんまだまだ甘いねえ。契約書、最後まで読んだ?あれ、途中解除の場合は相当な違約金が発生しちゃうって記載しといたんだけど、本当にいいのかな?」
その言葉でエステルは、あの契約の日の出来事をありありと思い出した。
確かにラトとの契約書はかなり細かいことまで記載があった。字も小さく大変読みにくい。きっとこの男はこうなることも念頭において、密かにその一文を紛れ込ませていたのだろう。
しかもエステルが文面を読んでいる最中にラトから何度か話しかけられて苛々していた記憶もある。もしかしてあれも…
エステルは自分の迂闊さを悔やんだが、もうどうにもならなかった。
「う、嘘でしょ!?いやあああっ!?」
「あはははは!ざーんねん!ほら、いいからもう宿に帰ろう。全く、突然何を言い出すかと思えば…」
エステルは思わず絶望の叫び声を上げてしまったが、ラトはそんなエステルを見てただ面白そうに笑うだけだった。
この日は結局本音も言えず契約も解除できず、ただただラトに精神的に振り回された挙句、逃げ場がないことに気づいただけで終わってしまった。
こうしてすっかり気力を失ったエステルは、嬉しそうな彼に手を引かれ、呆然としながら宿に連れ戻されていったのだった。