18. 馬車の秘密
《聖道暦1112年3月19日》
「ナイト先生、馬車ってまさか、これのこと、ですか?」
エステルが今見上げているのは、屋根付きの、古風だがかなり豪華な焦茶色の馬車だ。側面の中央部は帯のようにぐるりと植物や花をモチーフにした装飾が施されており、窓の内側には乗り心地の良さそうな赤い座席が見えている。中には四、五人でもかなりゆったりと座れるほどの広さがあるようだ。
あまりにも前と違う馬車の姿にあんぐりと大きく口を開けていると、「虫が入るぞ」とラトが苦笑しながらエステルの顎にそっと触れた。
エステルは一気に恥ずかしさで一杯になり、顎を両手で隠しラトを軽く睨む。彼はそんなエステルに悪戯っぽい笑みを向けると、誰よりも先に馬車の中に乗り込んだ。
「あっ、ちょっと!もう…」
相変わらず自由な人ねと呟くと、エステルは再び馬車を見上げながらため息をついた。
― ― ―
《聖道暦1112年3月17日》
この馬車と対面する二日前、エステルは誘拐された日に失くしてしまった買い物を再び済ませ、荷物を詰め直して出発準備を終えた。
「よし、これでいいわ!」
重くなった荷物を玄関近くまで移動させて一息つく。するとそこにふらっと姿を見せたのは、小綺麗になったラトだった。
(この人が本当にあのラトさんなのかしら?何度見ても同一人物とは思えないわ…)
髪を整え髭を剃ってしまった彼は、ダボッとした服装すら脱ぎ捨てて、もうすっかり別人となっている。今はざっくりとした大きめの白いシャツを緩めに着て、その下からベージュの細身なパンツを履いた長い足を覗かせている。
(はぁ。あれ以来、なぜか無駄に色気を振り撒いているのよね…)
エステルがその姿から目を離せずにいると、ラトが面白そうに笑って言った。
「ふっ、どうした?そんなにじっと見つめられると、おじさんどこか減っちゃいそうだな。」
壁に右肩で寄りかかり、腕を組んでこちらを見るその姿はもう、ちょっとした絵画を見ている感覚と変わらない。
つい目を奪われかけてしまったエステルは、こほんと一つ咳払いをすると、ぎこちなく目を逸らしてそれを否定した。
「別に見つめてなんかいません!あの、な、何かご用ですか?」
するとラトは腕を下ろしてエステルに近付くと、その黒くまっすぐな髪を一房手に取った。
「えっ!?何して…」
「ゴミ、付いてたぞ?」
「…ありがとう、ございます。」
自分の頬が恥ずかしさで赤くなっていくのをその熱量で感じ取ったエステルは、ラトの手からスルッと自分の髪を引き抜くと、その髪の束で顔を隠して自室へと逃げ帰った。
「もう!何なの、何なのよあれは!?あんなの、あんなラトさんは反則よ!!ああ、ずっとあのおじさんぽい姿のままでいてくれたら良かったのに…」
だが結局この後も、彼は度々エステルが居る場所に現れては不必要に声を掛けたり肩や手にさりげなく触れてきたりと、明らかに以前より構ってくる頻度が増えていった。
まだ一日ほどしかた経っていないが、そのまるで『ほら、ちゃんと護衛として傍で見守っているだろ?』と言わんばかりの行動に、エステルはかなり戸惑っていた。
それに加えて胸の奥でザワザワとしたあの感覚が、彼が近付く度に引き起こされる。その感覚が、鬱陶しいようなもっと感じてみたいような、自分でもどうにもならない感情となって心を支配する。
こんなことが短時間で何度も繰り返されるうちに、再びあの警報音が聞こえそうになり、エステルは思考を止めた。
「考えない考えない考えない…」
だがどんなに思考を止めようとしても、心の中に湧き上がってくるその複雑で不可思議な感情は、エステルの心の中から消えてくれはしなかった。
― ― ―
ぼんやりと馬車を見ていたエステルの横に、いつもの無表情なアランタリアが立っている。
先ほどのエステルの質問は彼の耳には入っていなかったようで、よく見ると彼の頬はほんのりと紅潮し、馬車を見つめる目が熱を帯びているように見えた。
珍しいこともあるものだ、とエステルがじっとその横顔を見つめていると、アランタリアが急にクルッとエステルに向き直り、口を開く。
「エステリーナさん、お願いがあります。」
「え?あ、はい、何でしょうか?」
「この馬車をしばらくお貸しする代わりに、私も帝国まで乗せていってはいただけないでしょうか?」
「え、一緒にですか!?」
予想もしていなかったお願いごとに驚いたエステルは、またもや大きな口を開けそうになり、慌てて自分の手で口を覆った。そして気持ちを落ち着けると、アランタリアに問いかける。
「ええと、それはどういった理由でなのでしょうか?何か帝国にお急ぎのご用でも?」
アランタリアは否定の意味を込めて小さく首を振る。
「いいえ。単なる好奇心なのです。これまで多くの精霊道具を蒐集してきましたが、私自身は当然それらを使用できるわけではありません。ですが今回あなたの旅に同行すれば、必然的にこの馬車の本来の機能を体験できるのではないかと思いまして…」
なるほど、とエステルは悩む。確かに精霊道具をただ古いものとして蒐集するだけではなく、できることなら使ってみたいと思うのが人情かもしれない。
アランタリアはさらに熱心に説得を続ける。
「これを逃せば、もう二度とこんな機会はないでしょう。どうか精霊道具蒐集家の悲願を、叶えてはいただけませんか?」
「ナイト先生…」
突然のお願いではあったが、それは納得の理由だった。所蔵しているものの本来の動きを知りたいと思うのは自然なことだ。だがエステルには伝えなければならないことが一つあった。
「あの、私自身はもちろんそれに異存は無いのですが、実は二つ隣の『スーレ』という町から出ている船に乗ろうと思っていまして、そうするとそこで馬車を降りなければならないかと…」
おそらく彼は、エステルがあの『拘束の木』を使っている様子を見て、精霊道具が使えるならばぜひ体験したいと思い立ったのだろう。だが帝国まで行くどころか、あと町二つ分で馬車を返すことになってしまう。
申し訳なさそうにそう告げたエステルに、アランタリアは少し不思議そうな表情になり、首を傾げてみせた。
「おや、スーレからだとこの時期、帝国行きの船は出ていなかったと思いますが…」
「え?そうなのですか!?」
「ええ。春のこの時期は帝国周辺の海域が荒れますので、おそらく運河を使っていく商用の航路以外は使われていないかと。」
「…」
(ということは、帝国まで陸路を使って行かなければならないってこと?そんな…)
一瞬にして計画が崩れてしまったことで、エステルはガックリと肩を落とした。
すると頭上からラトが不機嫌そうな顔を覗かせて言った。
「エステルちゃん。」
「うわっ、何ですかラトさん!?」
「陸路で行くなら『ゴレ』という町に向かえばいい。あそこには山を抜ける大きなトンネルがあるから、うまくいけばそこから帝国に一気に入れる。それより…」
そこで彼はスッとアランタリアに視線を向けた。
「俺は、先生も護衛をしないといけないのか?」
一瞬、ああ確かに、とエステルは思う。だがアランタリアは再びいつもの感情を見せない顔に戻って、ラトに「それは必要ありませんよ」と冷たい声で告げていた。
その後も結局二人はしばらく何やら揉めていたようだが、荷物を乗せたり馬車の様子を確認したりしたかったエステルは彼らを放っておくことにして、淡々と自分の出発準備を進めていった。
馬車に乗り込んでまず驚いたのは、その広さと快適さだった。
汚れも埃も全く無いその車内は、ビロードのような柔らかな布で覆われた座席と適度な背面の傾き、そして立っても問題ないほどの十分な高さが確保されている。
天井にも、派手さはないが美しくシンプルな装飾が施され、相当古いものにも関わらず、実家の馬車にも引けを取らないその素晴らしさに、エステルは改めて感動していた。
だがこの馬車の本当の凄さはここからだった。
「エステリーナさん、この馬車はあなたが精霊の力を呼び起こせば、何かが変わるはずです。」
アランタリアが興奮を隠しきれずにそう話すのを聞き、早速試してみることにした。
ラトは心地良さそうな座席の感触を確かめながらエステルの前にどかっと座り、その様子を黙って見守っている。
集中、感謝…いつものように心を込めて馬車に触れると、少しずつ馬車の周囲に温かな気配を感じるようになった。それが全体を包み込むほどに大きくなったと感じた瞬間、エステルはパッと目を開く。
「あれ、特に変化は…」
と思ったことを口にした途端、馬車の装飾が音もなく消え去り、木目の美しい内装が、頑丈さしか感じない金属の壁に変わっていった。
「これは!素晴らしい!!何ということだ!!これが精霊の…」
アランタリアは感動のあまりあちこちをペタペタと触りながら変化した馬車に夢中になっている。
「へえ。これはまた…物騒な見た目に変わったもんだねえ。」
ラトでさえ内装に触れながら感嘆の声を上げ、エステルは言葉を失っていた。
それから一旦馬車を降りて外装も確認すると、車体自体に変化は無かったが、車輪だけは明らかに変化していた。金属部品のような物が各所に追加され、滅多なことではとても壊れそうにない見た目になっている。
「これってつまり戦闘用ってこと?何だか一気に物々しくなったわね。」
エステルの呟きを聞きつけたラトが、ストンと横に降り立つ。そんなちょっとした仕草が以前とは全く違うな、とエステルは思う。若々しく、洗練された動き。
「いや、むしろ防御が目的だろう。走らせている時に攻撃されても車輪が破壊されにくくなっているみたいだな。もし道中何かに襲われたりしたら、ここにこもって逃げるのが正解かもしれない。」
ああ、前はボサボサ髪であまりよく見えなかったその横顔すら、ちょっと見惚れてしまうくらいには…
(ないない!そんなことはない!しっかりしてエステリーナ!!)
自然に浮かんでしまった余計な考えを、頭を振って必死で振り払おうとしていると、ラトはエステルの顔を意味深な笑みを湛えて覗き込んだ。
「どうした?何か考え事か?」
「…いえ何も。」
追い詰められたくないエステルは急いで馬車の反対側に回り込むと、再びそこから中に乗り込んだ。
その後エステルが集中を切らしても、一時間ほどは馬車の『防御モード』が解除されることはなかった。
今後の旅でまた一つ安全な場所を確保できたことは、エステルにとって大きな収穫だった。しかも今回はアランタリアがおまけで馭者を雇ってくれたこともあり、体力を温存して進むこともできそうだ。
リリム王国は農業国。中心に位置する王都以外はひたすらなだらかな農地や森が広がっている。
あの国境付近の『ベンヌ』という村では誘拐事件が起きていたが、ここから先はきっとのどかで穏やかな旅となることだろう。
(船が使えなかったのは痛手だったけれど、この馬車があれば何とかなりそうね!)
前向きに気持ちを切り替えたエステルだったが、その予想はこの後、大きく外れることとなる。