16. 騒動の終焉と心の警報①
《聖道暦1112年3月16日早朝》
誘拐された人々を救出する直前、ラトはこれまでのエステルに対する言動を振り返り、猛省していた。
最初に彼女に出会ったのはフォーンの町。彼女の生まれ故郷だ。ウェイドに紹介される前から、彼女のことは噂を聞いて少し知っていた。
クレイドン伯爵の娘、地味な外見、謎めいた人間性。この大陸では社交界に入るのは二十歳、成人してからと決まっているのだが、その前に行われる十七歳からの貴族内交流会にもほとんど参加していなかったという女性だ。
そのせいで貴族の娘なのに能力があまり無いのではないかとか、実はかなり不器量なのではないかなど、心無い噂が広まっていたのもラトは知っている。
だがあの夜、痴話喧嘩を収めた自分が見たのは、不思議な雰囲気を纏い、心の強さを内に秘めた目を持つ、黒髪のとても美しい女性だった。
ただあの時は、苦行期間と呼んでいる「呪いの影響で強烈な痛みに襲われる期間」明けで疲れ切っていたこともあり、彼女にかなり冷たく当たってしまった。
そしてその後、正式にエステルの護衛となった。
護衛となったのはいいが、報酬の件で気を遣わせるわけにはいかないと、本来の自分とは真反対の『怠惰でいい加減でやる気のないおじさん』として振る舞い、結果として彼女を困らせ、怒らせた。
しかし、最も反省すべき出来事は…
「エステルちゃん、本来は君を巻き込まないためにこの村は通過するだけの予定だったんだ。まあ、予定外の状況になったのもこうなる運命だったと割り切るしかない。けど…」
拘束の木を握りしめ準備万端なエステルは、ラトが何かを言いにくそうにしている姿に気付くと首を傾げてこう尋ねた。
「ラトさん、もしかして私を勝手に囮にしたこと、後悔してるんですか?」
ラトの青緑色の目がエステルの瞳を捉える。その表情は少し苦しそうに歪んだ。
「してる。本当に、すまなかった。」
自分勝手にエステルを強い女性だと決めつけ、大丈夫だと、安全だとたかを括って危険な目に合わせた。
怖かったに決まっている。辛かったに決まっている。実際、逃げてきた彼女の手は冷え切って震えていたし、自分がいることで明らかに安堵した表情を見せていた。
ラトが少し後ろに下がり深く頭を下げると、エステルは首を横に何度も振った。
「いいんです。人助けのためだったんですから。私は能力はないけれど、そこらの能力持ちの人には負けませんよ?まああの雷みたいな力にはちょっと参りましたけど、あの人は多分貴族か何かでしょうから仕方ないんです。『印』も入れていましたし!」
特殊能力の発動に関しては、基本的に体のどこかに最も発動しやすい部位があり、そこに触れるとより強力に素早く発動できるという特徴がある。
さらにその部位に特別な呪文を刻んだ『印』を入れると、能力の高さが二倍から三倍になると言われている。ちなみに『印』を刻み込める人はかなり限られており、当然施術は高額になるので、貴族や裕福な商人など一部の人間しか入れることはできない。
「印まで入れていたのか。それならやはりそいつの力はしっかり抑えておかないとまずいな。」
「ええ。」
そんな話をしていてもまだ表情の暗いラトに、エステルはもう一度人差し指を突きつけた。その指で優しく彼の頬を軽く押すと、ラトはハッとして顔を上げた。
「ほらほら、いつまで落ち込んでいるんですか?私は護衛なんか要らないと啖呵を切った女ですよ?もう大丈夫ですから、早く彼らを助けましょう?」
細く冷たい指先がラトの頬から離れていく。気付けばエステルの顔は、すでに建物の方を向いていた。ラトもまた自分の胸の中に全ての後悔と反省をギュッと押し込んで、彼女と同じ方向に顔を向けた。
材木置き場の陰に身を隠し、建物の周囲を確認すると、外で数人の男性達が見張りをしている様子が見えた。
ラトによると少し前に見に来た時にはほとんど見張りはいなかったので、エステルが逃げたことに気付いて警戒を強めたのだろう、ということだった。
「まさかエステルちゃんが単独で逃げたとは思わないだろう?そうすると当然護衛が助けたってことになる。つまり、俺だ。」
エステルはその言葉にショックを受け、青ざめた。
それは彼が奴らの攻撃対象になっているということを意味する。もしかしたら命も狙われているかもしれない。
雷撃男のように、あれだけの強い能力を放てる人間がこの村にゴロゴロいるかもしれないのに、ラトには恐怖という感情はあまり無いらしい。むしろこの状況を楽しんでいるような話しぶりに、エステルは驚きよりも畏怖を感じていた。
この男は只者じゃない。それは最初に会った時から感じていたことだ。エステルのよく知る怠惰でお気楽なおじさん護衛の姿は、もうどこにもない。
エステルが黙っていると、ラトが続けて言った
「というわけで警備が強化されちゃったみたいだから、もう思い切って徹底的にやっちゃおうか!」
「徹底的って…何をするつもりですか!?」
ラトはニヤリと笑って答える。
「ここに奴らを勢揃いさせて、一網打尽にしないと。ね、エステルちゃん?」
「…」
楽しそうに笑う彼が一体エステルの知らぬ間に何を考え、どう準備していたのかはわからなかったが、きっとこの村の悪人達は今日、これまでやってきたことを嫌というほど後悔することになるのだろう。そんな予感がした。
その後エステルに「合図を送るまでこの場所で待機するように」と指示をしたラトは、素早く建物近くへと移動すると、その少し手前に置かれている何個もの大きな木箱に向けて唐突に火を放った。
「え?ええっ!?」
驚いて思わず大きな声をあげそうになったエステルは、慌ててその口を押さえて事態を見守る。するといつの間にか建物のすぐ近くに移動していたラトが、手を軽く上げているのが見えた。
その瞬間辺りに突風が吹き荒れ、木箱に放たれ大きくなっていた炎が、渦を巻きながら天高く舞い上がっていった。
「なんだ!?うわあっ、火事だ!!おい、奴らを連れて来い!!」
「ドアを開けろ!急げ!!」
すると男達の怒鳴り声が辺りに響き渡り、エステルはもう一度ラトからの合図がないかと確認を取る。
しかし先ほどの場所にもうラトの姿はなく、代わりに、叫んでいた数人の男性達が次々と彼の物理的な攻撃により倒されていくのが見えた。
速く無駄のない動き。武器を持っていないとは思えないほどの強さ。もし特殊能力がなかったとしても、大抵の争いごとを制圧できるほどの圧倒的な実力が、彼にはあった。
「ああっ、ずるい!私も参加したい!」
エステルがじりじりとしながらラトからの合図を待っていると、今度は空き地の方から数名の男性が走ってくるのが見えた。おそらく先ほどの炎を見て集まってきたのだろう。
そしてその中には、エステルを例の雷撃で襲ったあの背の低い男の姿もあった。今日は特に貴族らしい派手な格好をしている。
(もしかして、特にあの人を拘束しておけってことかしら?)
ピンときたエステルが再度ラトの方を確認すると、目が合い、もう少し待ってという合図が見えた。エステルは木の棒を握りしめ、集中を始める。
そして男達がラトの姿に気付き、能力を発動させて攻撃しようとしたその時、ラトの鋭い声がエステルの耳に届いた。
「エステル!!」
その声に弾かれるように、エステルは精霊道具の一つである『拘束の木』を振り翳した。
「きゃっ!?」
その瞬間、エステルが体験したことのない速さで拡大する木の枝…その枝の動きはまるで蛇のようにうねり、滑り、その場にいたラト以外の全ての男達に巻きついていく。
「先生!出番だ!!」
ん?先生!?
「全く、人使いが荒い人だ。」
「ナイト先生!?」
エステルの後ろから音もなく現れたアランタリアは、太く大きなコブのようなものが付いた長い木の枝を杖のように持ち、それを地面に突き立てた。
すると辺りにゴオオオオンという鐘の音のような音が鳴り響き、それが次第に振動となり、さらに光の粒がどこからともなく現れて、エステルの木の枝に拘束された男達を包んでいく。おそらくあれは神官の力、特殊能力の威力を落とす光だろう。
だがエステルはそこで気づいてしまった。
あの雷撃能力の持ち主だけが、木の枝に拘束されながらもその手が印にあと少しで触れそうになっていることを。そして彼の憎悪がこもった目が、明らかにラトを狙ってることも。
「ラトさん!!危ない!!」
エステルは叫びながらラトの元へ走る。間に合わなくても、たとえ何も能力がなくても、ただひたすらこの人を助けたいと、その気持ちだけでエステルは走り抜いた。
だが次の瞬間、光の粒が舞い散る冷たい空気の中でエステルが見たのは、自分を抱きかかえるようにして走るラトの横顔だった。
「うわあっ!?」
「ほら、しっかり掴まってろよ!!」
そして彼は、首元に慌てて抱きついたエステルを片手で軽々と運びながら猛スピードで例の男に駆け寄り、もう片方の手で男の頭を掴んで言った。
『略奪』
その瞬間、印を持つその男は「ぎゃあああああっ!!」という恐ろしい叫び声をあげて、気を失った。