14. 感情
《聖道暦1112年3月15日夜》
廃墟の外に出てはみたものの、外はもうすっかり日も落ちて、エステルは自分が今一体どこにいるのかさっぱりわからない状況となっていた。
「さて、これからどうしようかしら…」
とにかく微かにでも明かりが見える方角に行こうと決めて歩きだすと、二十分ほど進んだところで民家がまばらに建っている場所に行き着いた。
その周囲の開けた場所はみな農地となっているようで、そこには当然明かりなどなく、民家から漏れでる微かな光だけを頼りに先へと進むしかなかった。
どこかの家に助けを求めることもできなくはなかったが、この村の住民達の誰が味方で誰が敵なのかわからないうちは、安易にそうすることは危険だと判断した。
「方向はわからないけれど、とにかく光を追ってナイト診療所を探しましょう!」
自分自身を鼓舞するようにそう呟くと、少し歩く速度を上げて移動し始める。するとふいに前方から声と足音が聞こえ、焦ったエステルは急いで近くの建物に身を隠した。
ペンダントに意識を集中し、身じろぎもせず様子を窺う。
しばらくするとその足音の主達が、各々の手に松明を持ってそこに現れた。十人以上の男達の集団、そしてその中には、昼間見た顔も混じっているようだった。
彼らはボソボソと話をしながら歩いていたが、エステルには気付かず、そのまま暗闇の中へと消えていった。
(はあ、良かった…でもまだ安心はできないわ。もし彼らが私が逃げたことに気付いたら、また追ってくるかもしれない。急いで逃げないと!)
そう考えたエステルは、焦る気持ちをぐっと堪えて再び歩き始めた。
額から汗が滑り落ちる。その汗を拭う手は、冷え切って少し震えていた。
(私、自分が思っている以上に気が動転していたのね。冷静に、冷静になるのよエステル!)
集中力が切れかけていることを実感したエステルは、歩きながらペンダントを外す。それを袋の中に丁寧にしまうと、ラトから貰ったあのブローチに手を掛けた。
その瞬間、エステルは何かが背後の暗闇から飛び出してくる気配を察知し、反射的に肘を後ろに突き出した。だがその攻撃はあっさりと相手の手のひらで止められ、一気に血の気が引いていく。
「おっと、待った待った!!エステルちゃんの肘打ちなんて、とてもじゃないけどまともに食らいたくないから!」
その声を聞いた途端、体中の力が一瞬で抜けていった。
「…ってうわっ、どうしたのそんなに怖い顔して!?」
だが目の前にいるのがラトだとわかりほっとしたのと同時に、沸々と怒りが込み上げてきた。民家から漏れ出た光で、エステルのその怒りの表情がラトにははっきりと見えたのだろう。
手にしたブローチをギュッと握りしめると、エステルはさらに顔を顰めてラトに詰め寄った。
「ラートーさーんーーー!?」
「うわっ、ご、ごめんって!おじさんちょっと服に夢中になっててさ!気付くのが遅くなったけど、ほら、ちゃんと迎えにきたじゃない!ね?」
ラトは顔を引き攣らせながらエステルの機嫌を取ろうと必死だ。彼はブローチを握る手を上から両手で包みこみ、「悪かった!」と何度も謝る。だがエステルは彼に冷たい視線を向けた後、フンと鼻を鳴らして顔を背けた。
「何よ!ラトさんは私の護衛の仕事よりも女の子と楽しく過ごすことの方が大事なんでしょ?鼻の下伸ばしちゃっていちゃいちゃ楽しそうでしたこと!まあ私はどうせ護衛もいらないとか言っちゃう強い女ですから、放置されてても全然平気ですけど!!ああ、それに私が支払った護衛費用なんてあなたの力には見合っていませんものね。あんなに少なければ仕事放棄も当然なんでしょうね!ですからもう今後も好きなだけ勝手にお過ごしください!!」
「…え?」
言いたいことを全て言い終えるとエステルはラトの手を振り払い、何に苛々しているのかわからないまま彼を無視して歩き始める。
(いてくれればそれでいい、と値切って護衛を依頼したのは私なのに、どうしてこんなことで気持ちが苛立ってしまうのかしら…)
エステルはままならない自分の感情とラトが来てくれたことによる安心感を同時に感じながら、行き先もわからずひたすら前へと進んでいった。
結局その後すぐにラトに追いつかれ説得されたエステルは、彼の案内で無事アランタリアの家に辿り着くことができた。
アランタリアとペカロは相当エステルのことを心配してくれていたようで、ペカロはエステルに飛びついたまましばらく離れず、アランタリアは食事や風呂の準備など、細々したことを全て準備してくれた。
ラトはエステルが食事を終えるまでは黙って近くに居てくれたのだが、風呂から出てアランタリアのいるリビングに戻った時には、もうそこに彼の姿はなかった。
「あの、ラトさんは?」
アランタリアにそう尋ねると、彼はいつもの無表情で「ついさっきどこかへ出かけましたよ」と告げる。
エステルは部屋に戻ると深いため息をつき、とある決意を固めた。
「もうこれ以上、ラトさんに期待するのはやめよう。」
そうしてエステルはいつでも一人で出発できるよう、黙々と荷物の整理を始めていった。
― ― ―
《聖道暦1112年3月15日午前》
ラトはこの日、朝からとあることを考え続けていた。
いや、むしろこの村に来た時から覚悟は決めていた。
それは、以前この村に立ち寄った時、ある誘拐事件が起きていたことがきっかけだった。
― ― ―
二年前のことだった。
帝国に向かう途中に立ち寄ったこの村で誘拐されてしまった若者二人。彼らと面識があったわけではないが、たまたま彼らの護衛と知り合いだったことで、この恐ろしい事件のことを知った。
「ラト、俺の『庇護対象者』がいなくなっちまったんだ!こんな感じの二人なんだが、見なかったか!?」
その護衛の男はラトに二人の絵姿を見せて言った。その顔は青白く、髪は乱れて酷い状態になっている。
「いや、知らないな。まさか誘拐か?」
「そうかもしれない。この村は前から変な噂があるんだ。精霊信仰が密かに受け継がれていて、そのための生贄を探しているとか…」
男は唇を噛み、俯いている。
護衛にとって対象者を守れないというのは致命的なことだ。彼の今後の仕事に差し障りがあるだけではなく、そもそもこの厳しい世界ではそれは対象者の死に直結するからだ。
「あの木箱に入った花を触っていたと思ったら、気がつくともう姿がなくてな…」
ラトは近くにあった木箱と花をじっと見つめる。近付いてよく見てみると、花に何かしらの術が掛けてあることがわかった。
「この花、何か仕掛けがあるな。」
「そうなのか?そうか…。とにかく探さないと!ありがとな、ラト!」
そう言って彼はそこを去っていったが、それ以降彼の姿を見ることはなかった。
― ― ―
エステルが誘拐されてしまうまでの時間、ラトの方はと言うと、実はあの衣料品店からずっとエステルの後を尾けていた。
子供達に導かれて移動することも、その後大人達に引き渡されることもほぼ予想通りだった。それはあの花に掛けられた術が未だに残っていたことから予測できたことだった。
この村は精霊信仰が根強く残る地である。彼らは呪いに満ちたこの世界を疎み、大昔、精霊が多く息づいていた時代を取り戻そうと祈り続けてきた。
だがその裏には、村に伝わる精霊道具を使って迷いの森深くに隠された古代の財宝を発見したい、という強欲な貴族の意図が隠されていた。
精霊道具を動かすには呪いが弱い人間、つまり『特殊能力』の力が低い人間が必要だったのだろう。そしてあの花に掛かった術は、能力が低い人間が花に触れた時に何らかの変化を見せるようになっていた。こうしてこの地を治める貴族の男が、村人達の信仰を利用してあの誘拐事件を起こしていた、ということだ。
(村人達の一部は純粋に精霊との繋がりを取り戻したかっただけなのだろうが、貴族の男の方はそうじゃなかった。彼らのその気持ちを利用して、私利私欲を満たすつもりだったんだな…)
そしてこれらの情報は、衣料品店で働くあの女性から受け取ったものだ。彼女は各地にいる情報屋の一人であり、古くからの友人でもあった。
そうしてエステルはラトの予想通り、あの男達に拉致されてしまった。
囮のような形になってもらったことは申し訳なく思ったが、どうしてもあの誘拐事件を解決させたい、居なくなった仲間がどうなったのか知りたいという気持ちが勝ってしまった。強い心の持ち主である彼女なら大丈夫だろう、という甘い考えもあった。
もちろんエステルが監禁されている場所や状態を見て、安全に捕えられていることは確認済みだ。
その後男達の動きを追って誘拐された人々の監禁先を把握すると、すぐにエステルの救出に向かった。
だが、その時には彼女はすでに自力で脱出していた。
「まさかここまでとは…本当に強いな、彼女は。」
ラトは驚きと共に、心の中に言いようのない感情が湧き上がってくるのを感じていた。
その感情から一旦目を背け、暗闇の中で男達から何とか逃げようとしていたエステルを無事保護すると、予想以上に憤慨している彼女がそこにいた。
「何よ!ラトさんは私の護衛の仕事よりも女の子と楽しく過ごすことの方が大事なんでしょ?鼻の下伸ばしちゃっていちゃいちゃ楽しそうでしたこと!まあ私はどうせ護衛もいらないとか言っちゃう強い女ですから、放置されてても全然平気ですけど!!ああ、それに私が支払った護衛費用なんてあなたの力には見合っていませんものね。あんなに少なければ仕事放棄も当然なんでしょうね!ですからもう今後も好きなだけ勝手にお過ごしください!!」
「…え?」
だがその言葉は、護衛の仕事を放置していたことにというよりも、自分が女性と親しげに話していたことへの抗議のように聞こえて、ラトは先ほどの感情を再び揺り起こされる。
(もしかして今のは嫉妬?いや、まさかな。まだ知り合って日も浅いのにそれは考えにくい。ただ、もし本当にそんな可愛い理由で怒っているのだとしたら、俺は…)
その時ラトは、彼女の手が冷え切り、微かに震えていることに気付いた。
(そうだよな、きっと怖かっただろう。どうして俺は彼女は強いから大丈夫なんて馬鹿なことを考えていたんだ?)
あんなに怖い思いをしたはずなのに、しゃんと姿勢を伸ばして歩くエステルの後ろ姿から、ラトはどうしても目が離せなかった。