109. あなたとずっと一緒に
「あ、ちょっとラトさん!?また勝手に…」
「おっと、もうばれたか!」
「もう!」
ラトは旅の間ずっとエステルを甘やかしてばかりいる。それが小さな喧嘩の種になり、二人はむしろそれを楽しむように日々を過ごしていた。
「今日は私が夕食を準備するって言ったのに!ラトさんたらすぐ私の仕事を奪っちゃうんだから!」
「いいんだよ、エステルはゆっくりしていれば。俺にできることは俺がやるから。…エステルは放っておくとすぐに人のために動いちゃうだろ?少しは自分のことも考えて休まないと!」
「……」
ラトがそう言うのも無理はない。実はこの旅でエステルが人助けをした数は、現時点で十回以上にのぼる。その度にちょっとした怪我をしたりラトに心配をかけたりして、エステルもさすがに反省し始めていた。
「わかりました。じゃあ、いただきます。」
「うん。」
だがそんな優しい時間が過ぎ去っていくのはあっという間だった。
何日も二人で過ごすうちに、エステルとラトの間には穏やかだが温かい関係が育まれていた。しかしラトは決してエステルに強引に迫るようなことはせず、手を握って歩くことすらしなかった。
そうして秋も深まる頃二人が辿り着いたのは、ペカロと出会ったあの迷いの森だった。
「ラトさん、薪になりそうな枝を集めてくるね。」
ラトが能力を使って火を起こす。森の中で火を使うのは危険なのでまだ森には入らず、この日は少し開けた砂利の多い場所で焚き火を始めていた。
「ああ。でも奥までは行くなよ。火が見える辺りで探して欲しい。」
「はーい!」
軽い返事に苦笑しながらラトは再び火の番に戻る。エステルはその姿をチラッと見てから、森の入り口付近でできるだけ乾燥した枝を集め始めた。
すると森の少し奥まった場所に二人の男女がしゃがみ込んでいる姿が見えて、エステルは思わず声をかけた。
「どうされたんですか?」
女性の方は長い紫色のローブを羽織り、フードを目深に被っている。男性の方はうまく立てない様子の女性に寄り添い、心配そうに声をかけていた。
「大丈夫ですか?」
エステルが二人に近寄ると、五十代位に見えるその男性が顔を上げて言った。
「実は彼女が足を挫いたようでしてね。すみませんが少し先に私達のテントがあるので、そこまで彼女を連れていくのを手伝ってもらえないでしょうか?」
よく見ると、確かに女性は右の足首を押さえている。かなり痛いのか、はあはあと息遣いも荒かった。
「もちろんお手伝いしますが、どこかお医者さんにでも直接連れていった方がいいのでは?」
だが男性はその提案を頑なに受け入れなかった。どうも何か事情があるようだ。エステルもそれ以上強制はできず、言われるがままに二人と共に彼らのテントがあると言う場所へと進んでいく。
徐々に空は暗くなり、空気は冷え込んでくる。あまり奥には行きたくないが、困った彼らを今さら放置もできない。仕方なく先に進んでいくと、彼らはなぜか道から少し逸れた方へと歩き始めた。
「あの、こっちで本当に合っていますか?」
エステルが不安になってそう問いかけると、男はただ黙って頷くばかり。
そのままさらに歩き続け、もうこれ以上は暗くて危ないと考えたその時、支えていた女性が突然エステルを突き飛ばし、ポケットから取り出したばかりのブローチを手から叩き落とした。
「きゃっ!?何を…」
その女性は自分のフードを勢いよく剥ぎ取ると、恐ろしい形相でエステルを睨みつけながら言った。
「ここで…お前も、死ね!!」
嗄れたその声に聞き覚えはなかったが、エステルは彼女の枯れた枝のように細い腕には見覚えがあった。
「リリアーヌ!?」
だがそれに気付いた時にはもう取り返しのつかない状態になっていた。エステルは最後の力を振り絞ったリリアーヌに再び強く突き飛ばされ、森の中の崖のように抉れた場所へと、勢いよく転落していった。
― ― ―
「おかしい、遅い!エステルに何かあったとしか思えない!」
暗くなり始めた空、未だ戻って来ないエステルに痺れを切らしたラトが声を上げる。着火してしまった焚き火を能力を使って一旦消火し、彼は急いで彼女が入っていった場所へと向かった。
エステルの足跡を見つけてしばらく追っていたが、途中で他の人物のものと混ざってしまい、ラトは頭を抱えた。
(だからと言ってここで『透視』を使ったりしたらいざという時に動けなくなるな…)
仕方なくラトは火を使って地面を照らしながら、混ざった足跡を丁寧に探りつつ再び移動を開始した。
― ― ―
「いたっ!?」
エステルが目を覚ますと、背中や腕の下には厚く積もった冷たい落ち葉の感触があり、そして辺りはすでに真っ暗になっていた。
周りの様子を確認しようとポケットを探ったが、例の光るブローチは先ほどリリアーヌに叩き落とされてしまったのだったとそこで思い出し、エステルは大きなため息をつく。
この状況、どうやら彼女とその連れの男に嵌められてしまったということらしい。おそらくあの二人はエステル達をずっと追ってきていたかそれともここでたまたま見かけたかして、絶好の機会と思ってエステルを襲ったのだろう。
不幸中の幸いで、落ちた場所が思っていたよりも柔らかかったことで命拾いしたようだ。
『人助けも大事だが、自分自身をもっと大切にしてくれっていつも言っているだろ!?』
数日前に本気でラトに叱られた言葉が、ふとエステルの頭をよぎる。
「はあ…彼の言う通りだった。そうだわ、確か前にローレンさんにもそんなことを……」
その時エステルの心の中に、何かがチラッと光ったような感覚があった。
「今の……何だったんだろう?」
その感覚を追いかけていきたい気持ちもあったが、今はそれどころではない。急いで戻らないと、きっと今頃ラトは怒り狂ってエステルを探しているかも…
「大変!あっ、痛い!?」
慌てて立ち上がってはみたが、右足に強い痛みが走り動きが止まった。どうも先ほどの転落で足を捻っていたようだ。
仕方なくエステルは近くに落ちていた長めの枝を杖代わりにし、崖のようになった場所を手探りで登り始めた。
しかしかなり暗くなってしまった森の中、なかなか先へは進めない。足は腫れて痛み、動かすのも困難になり、体力は底を尽き始めていた。
「どうしよう…。はあ、どうして私はいつもこうなの?本当に、私は何をやっているのかしら?」
もう駄目かもしれないと弱気になっていたその時、ふわっと温かな風を感じてエステルは目を上げた。
木々の隙間から柔らかな光が差し込み、それは徐々に明るさを増す。そしてそれが眩しいと感じるようになったその時、エステルの目の前にふっとペカロが姿を現した。それと同時に、彼の声が頭の中に響き渡る。
(エステル!大丈夫?足、怪我したの?)
エステルはふわふわな白い毛を感じながら、大きな足でエステルに触れるペカロとの再会を喜んだ。
「ペカロちゃん!来てくれたの?嬉しい!」
だがペカロはエステルをじっと見つめると、こう言った。
(エステル、ラトが心配してるよ。どうしてまた無茶をしたの?)
その口調はいつもとは違い、少し怒っているように感じられる。エステルは一瞬言葉を失い、そして初めて、これまで誰にも言ったことがなかったその理由を口にした。
「うん……そうだね、ペカロちゃんには正直に話そうかな。」
ペカロの手が、エステルからゆっくりと離れる。それを少し寂しく感じながら、エステルは続けた。
「私ね、幼い頃からずっと、本当はもっと家族からの愛が欲しいって心のどこかで思っていたの。優しかった幼い頃ですら、どこかで寂しさを感じていたから。だからね、大きくなってからは『もう家族じゃなくてもいい。誰かに本気で愛されたい』って、ずっと密かに思って生きてきたの。」
ペカロはじっとエステルの言葉に聞き入っている。
「でもね、大人になるまでにあまりにも色々なことがあったから、誰かからの愛を求めるならその前に私の『奉仕』が必要なんだって、『対価』が必要なんだって、そう思うようになってしまったのよ。」
エステルは杖代わりの太い枝を握り直し、ペカロに背を預けるようにして話を続けた。
「いつの頃からかそれは人助けをすることに変わっていった。そうすれば少しの間は不安が和らいだから。けれどそんな不純な動機で動いていたのだもの、今日みたいなことになっても仕方なかったのだと思う。だからといって、いつだって誰かを助けたことを後悔したことはないし、それによって何も得られなくても嫌だったことは一度もなかった。」
(エステル……)
ペカロの大きな手がエステルの腕に触れた。
「でも結局、最後に助けなかった人には仕返しされちゃったし、もうここを登ることもできない。ラトさんのことも思い出せないままだし、無茶ばかりする私はきっと彼に嫌われて……」
そこで言葉を切ったエステルの目には涙が溢れ、込み上げる思いに胸が詰まり、それ以上何も言えなくなってしまう。
するとペカロが、普段よりも大人っぽい声でエステルに優しくこう語りかけた。
(エステル、今日僕がここに来たのはね、神様からのご褒美を届けに来るためだったんだよ?)
「……え?」
エステルは涙を流しながらペカロから少し離れ、彼と向き合って立った。ペカロの青い瞳には、キラキラとした虹色の光が映し出されている。
(その代わり僕はもうこの世界には戻って来られない。だから、これが君との本当のお別れなんだ。)
「そんな!」
さらに悲しい気持ちになったエステルは、ボロボロと涙を流しながらペカロに抱きつく。
(ねえ、エステル。だから最後に二つだけ聞かせて欲しい。ラトが君を心から愛しているって、本当に気付いてる?)
エステルはゆっくりと首を縦に振る。
(良かった。じゃあ二つ目。君はもう『対価』を先払いする必要はないとわかった?そんなことをしなくても、彼は今の一生懸命な君を心から愛してくれるって、今なら信じられる?)
その言葉は、少し前にエステルの心の中に生まれたあの光とぴったり重なって大きな光となった。
「うん、たとえ彼とのことを思い出せなくても、私の心が彼を『信じてる』って言っている気がする。」
(そう!それを聞いて安心した!それならもう無茶はしないね?もっと自分を大切にすると約束できるね?)
ペカロは優しく言い聞かせるようにそう話すと、エステルの「はい」という返事に満足したように体を揺らした。そしてエステルを地面に座らせると彼は目を瞑って言った。
(その言葉を信じるよ。君が僕とのその約束を守り続ける限り、神様は君と君の愛する人達を守り続けてくださるからね?)
ペカロはその言葉を言い終えると、ふわりと空中に浮かんでいき、そこでクルクルと回転を始めた。その回転の速度が上がる度に体から放たれる白い光が増していき、眩し過ぎて目を瞑った直後、さらに強い光を辺りに放出して消えていった。
最後の瞬間、小さな「さよなら」という声が聞こえた気がしたが、目を開けたエステルの前にはもう彼の気配は残されていなかった。
「エステル!?」
ガサガサという大きな足音が後ろから聞こえて振り返ると、太い枝に火を灯したラトが、血相を変えてエステルに近付いて来る姿が見えた。
「ラトさん!!」
エステルはスッと立ち上がりラトに駆け寄る。足の痛みはもうどこにもなく、体の怠さや重さも感じなかった。
「どうした?一体何があったんだ!?なかなか戻って来ないから心配して…」
「ラトさん、愛してる!!」
「は………え?」
エステルが急に抱きついたせいで慌てて松明を上に掲げたラトは、今何が起きているのか全く理解できないという顔で硬直していた。
エステルはラトの逞しい体に抱きつきながら、彼の胸に頬を寄せて溢れんばかりの想いを伝える。
「ラトさん、今ね、ペカロちゃんが私にご褒美をくれたのよ。神様からって!あのね私、あなたのこと」
「思い出したのか!?」
松明の炎を消し去ったのか、突如として暗闇に包まれた森の中で、エステルはラトに抱きしめられている感触だけを感じていた。
「うん。」
彼のその温もりに包まれる幸せを感じながらエステルがそう答えると、彼はさらに強く抱き締めてから言った。
「良かった……本当に、良かった……」
静かにそう告げる声には、エステルが想像する以上の想いが込められているに違いない。彼はそこでふと思い出したかのようにエステルの手に何かを握らせた。
「あ!これって…」
エステルはそれが『ラトに初めて貰ったブローチ』であることに気付くと、口元に寄せてそれに光を灯した。
柔らかく温かな光がその場を包み込み、エステルはブローチを胸に付けてラトの顔を見上げた。
「ふふっ、また髭が伸びてるわね!最初に会った頃はもっともじゃもじゃだったけど。」
「うん、そうだな。あの頃はただのおじさんだった。ま、年齢は今やじいさんだけどな。」
「もう!またそんなこと言って!ねえ、髭を剃ったら、ラトさんの頬、触ってもいい?」
ラトは一瞬驚いた表情でエステルを見つめたが、すぐに困ったような笑顔を見せて言った。
「そんなことで良ければいつでもどうぞ。その代わり、俺も、君に触れたい。」
エステルは顔が熱くなるのを感じながら、小さく頷いた。
「先を越されちゃったけど、俺もきちんと伝えておく。…エステル、愛してる。」
「うん。」
「今度こそ全部、俺のエステルでいい?」
「ふふふ!何それ?私はずっとずっと、あなたのものですよ?」
「こんな時に煽るなんて、さすが俺の悪女だな。」
「え?あっ……」
そして彼は光を放つブローチを手のひらでそっと隠すと、エステルの唇を優しく奪っていった。
何度も何度も触れては離れていく柔らかな感触を感じながら、エステルは徐々に蘇る彼との記憶の中に包み込まれていく。
「エステル、なあ、今夜は抱きしめて眠ってもいいか?」
「いいって言ったら、どうする?」
「……暴走しそう。」
「ふふっ!ちょっとだけなら許可します。」
そう言ってラトからパッと離れると、一瞬唖然として動かなくなった彼を置いてエステルは先に進み始めた。少ししてハッと我に返ったラトも、急いでエステルを追いかける。
「ちょっと…え、ちょっとってどのくらい!?」
「さあ?」
「エステル、これはもう今夜は眠れない…」
「そうだわ!今夜は早く寝ましょうね。明日は迷いの森を抜けないといけないし!」
「期待させといてそれ!?あ、待てってエステル!」
追いついたラトにしっかりと手を握られたエステルは、笑顔で彼の横顔を見上げる。楽しそうに話をする彼の美しい青緑色の瞳には、今は少しもあの黒い色が混じっていない。
(いつかお互いの覚悟が決まったら、彼の呪いを解いてあげたいな…)
ぎゅっと握り返した大きな手からは、ラトの温もりと限りない愛情が伝わってくる。
この大切な存在をいつまでも手放さずにいられるように、愛してくれている彼を不安にさせないでいられるように…
エステルはペカロとの約束を繰り返し思い出しながら、愛する人と並んで歩けることの奇跡を噛み締めていた。
「ずっとずっと一緒にいようね、ラトさん。」
「嫌と言われてももう離れないから、覚悟しておけよ?」
そう言って見せる彼の屈託のない笑顔が、ずっと暗い闇の中にあったエステルの心に数えきれないほどの光を灯していく。
それは二人の新しい未来を祝福するかのように、いつまでもいつまでも、エステルの中で輝き続けていた。